光の届かない場所 13

 海の中を縦線を描いて浮上するということは、ミレアタンの体の中を行くことを意味する。海の表面に現れた凪は、海竜ミレアタンが住まう結果であり、水の流れそのものを凝縮した彼の身体は、水深の中ほどでゆったりと流れているのだ。

 横切ると、そこだけ水質が他と異なる。塩分濃度も低く、流れも速いため、タジの肌でも感じられるほどだ。

 異変に気付いたミレアタンが実体をもってタジの前に現れる頃には、タジは既にシシーラの村の現状をすっかり理解していた。

 結論から言えば、シシーラの村に人はいた。タジが幻の中に出会ったような人間も確かにいた。しかし誰もタジのことを知らなかった。タジの見張り役をしていたコンでさえ、タジの顔を見ても何も思い出せない、そもそも初めて出会ったという顔をしていた。

 地図師のイロンディと、白鯨騎士団の中隊長であるムヌーグが、タジを心配してシシーラの村に滞在していた。幻に囚われたタジにとっては気の遠くなるような時間が経っていたように思われたが、実際はわずか数日の出来事だったらしい。タジの表情が妙に気疲れしているのを心配するものの、その心配が追われていることとは別の問題から来ていることを教えられるとなおさら気遣われた。

「海竜ミレアタンが、力の流れ……?」

 さすがに騎士団の中隊長でも、その意味するところを完全には理解しきれていなかった。想像の範疇外なのは間違いなく、仮に想像できたとしてもおよそ人間の太刀打ちできる相手ではない。生命という分類ではなく、意思のある何か、としか言いようがないそれは、ある意味では霊魂に近い。

 イロンディは既に思考を放棄して、ただタジの話に耳を傾けているだけだ。必死に理解しようとしているムヌーグよりもそちらの方がよほど利口にさえタジには思えた。

 もちろん、それはムヌーグの矜持が許さないだろうが。

「それで、ミレアタン?は倒すんですか?」

 イロンディが核心をつく。

 問題はそこだ。海竜ミレアタンが実体をもった生き物だろうが、力の流れそのものだろうが、眠りの国にとって不利益であり、タジが眠りの国を追放された状況に追いやった直接の原因でもある。

「倒す倒さないは分からないが、ケンカを売られたから、買う。ってのが正しいな」

「私怨?」

「言ってしまえば」

 タジは海竜ミレアタンによって直接の害を被った。時間の牢獄に囚われて無為に過ごしたあの掃きだめのような時間を思えば怒りも湧き起こる。

「タジ様……」

「おっと、私怨で退治するのを無益と諭すなよムヌーグ。向こうが売ってきたケンカだ。左の頬を引っ叩かれて右の頬も、と差し出すには、俺はまだ若すぎる」

「そうではありません。聞けば聞くほど、普通の人間が手に負える相手ではないと思っただけです」

「そうだな」

「でしたら」

 話し合いは決して卑屈な手段ではない、と言いたいのだろう。海竜ミレアタンという存在の途轍もなさを知ってしまえば、及び腰になるのは仕方のないことだ。雲の流れや星の自転に立ち向かう人間をマトモと思う者はいない。

「だが、俺はあいにく普通の人間でもない」

 タジは笑顔とも皮肉顔ともとれるような表情で言った。

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