凪いだ海、忘却の港町 57

(今、姿を現しましょう)

 脳内に声が響いたかと思うと、次の瞬間、凪の状態だった海がにわかに荒れだした。

 体を持ち上げられるような波が次々と起こって、タジは心許無い浮力だけを頼りにその場に浮いていることしかできなかった。波が割れることはなかったものの、下手に動くと沈みかねないほどに海が動いている。

 渦巻き、持ち上がり、点と線とを形作るようにうねる海水を背中に感じながら、しかしその海水の流れが不規則であることに気づくと、タジはふと疑問が湧いた。

 ミレアタンは、どこからやってくるのか?

 姿を現すというのなら、どこかからやって来るはずである。水を押しのけてやってくるにせよ、水を切って進んでくるにせよ、その方向は一定の方を向いているはずだ。

 しかし、今この凪の海の上にそのような規則性で動く海水は無かった。笛の音に操られる蛇のように、あるいは昼寝をする猫の尻尾のように、海水は無軌道にうごいている。その運動に一切の整った方向性や規則性はない。

 背中に感じる海の動きはさらに激しさを増して、いよいよ海流はタジを撫でていく。仰向けになっていたため、タジは肉眼で確認したわけではないが、どうやら海の中ほどにあった海水の通り道が背中に触れている。

 その海流は、時折タジの背中にその流れを擦りつけるような動きをした。

 まるで、海流自身が生きているかのようだった。

 そう思った矢先に、タジの目の前で海が噴き上がった。

 水柱と言う言葉がこれほど似合うものもないだろう。

 透明度の高い氷を円柱状に切り抜いて押し出したかのように、表面のツルリとした水柱が天に向かってグイグイと伸びていく。水の通り道になっていた海流をいくつも束ねた太さの水柱は、自身を捩るようにして細くなっていく。濡れた雑巾を固く絞って細くしているようにタジには見えた。

 捩じれ、細くなっていく水流は、海の色を湛えた水柱から、徐々に不透明度が増して、実体化していく。

 先に内臓が作られていくのか、まだいくぶん透明な肉や皮膚の中に、骨や内臓が一筋二筋と見えてくるのを、徐々に動きの収まった海に、タジは仰向けに浮かびながら見ていた。

 鎌首をもたげて実体化したその水柱は、空よりも濃い青色の鱗を身に纏い、キラキラと陽光を反射する一頭の大きな蛇になった。

 蛇とトカゲの中間のような頭には、巨木のような角が生えている。

 水流そのものが、竜だったのだ。

「驚いたな……」

 鎌首をもたげてタジを見つめる海竜ミレアタンは、とぐろを巻いてゆっくりと、タジをその円の中に囲い込む。円が小さくなると、タジの身体はミレアタンの背に掬い上げられた。

(驚かせてしまったのなら、ごめんなさい)

「いや、その姿なら喋れるんじゃねえのか?」

 完全な竜の姿になってなお、ミレアタンは言葉ではなく脳に直接語りかけてくる。

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