凪いだ海、忘却の港町 56

 海上に向かって腕を一かき二かきすると、あとは塩分濃度の高い海がタジの身体を自然と押し上げた。

 肺にはほとんど空気は残っていないというのに、それでも十分な浮力があるのが不思議ではあった。それとは別に、肺にほとんど空気が残っていなかったからこそ、急浮上による水圧からの解放にも対応できているようだ。

 周囲は暗い青の世界から、夜が明けるように景色が変わっていった。

 タジの足下、岩礁に作られた海の魔獣たちの街はすっかり青く煙り、岩礁に隠れたわずかな生き物の気配も感じ取れないほどに離れた。

 水面に向かう間に、水の通り道がいくつも見えた。魔獣に引っ張られてきたときには分からなかったが、その通り道は結構な速度で水が流れているようだった。浮上する間にその水流に一度体を突っこんだら、浮上を遮られて随分と押し流された。

 それからタジは努めて水の通り道に入り込まないように注意した。

 おそらく、腕の生えた流線型の魔獣は、あの水の通り道を強引に進むために腕を生やしたのだろう。

 水面に近づくにつれて、水流も少なくなった。

 なぜかは知らないが、水の通り道は急深の海の中ほどに固まっているようだ。海底、水面に近づくにつれて通り道はなくなっていく。

 水面の向こうに、太陽の姿がぼんやりと見えるようになった。

 もう少しで息が吸える。

 魚影のない、どこまでも青の広がる海をただひたすらに水面に向かって泳ぐ。バシャリと水面から顔を出すと、タジは思い切り息を吸い込んだ。

「ふぅ」

 立ち泳ぎの状態で大きく深呼吸を繰り返し、チカチカする目を繰り返し瞬きすると、身体の機能がゆっくりと正常に戻ってくる。肺一杯に空気が入ると、何もせずとも体が水面に浮かんだ。

 水面に仰向けになって寝転ぶように、水面をたゆたう。水でできた寝具のような心地よさを味わいながら、しかしそんなことをしている場合では無いことを思い出す。

「ミレアタン、どこにいるんだ?」

 空に向かって語りかけてはみたものの、それが果たして正しい応答になっているのかは、タジには分からなかった。耳鳴りと頭痛によって脳の中に響いたあの声は、振動によって耳に入ってきたものではない。

 振動とは別の何かによって意思疎通をしているのであれば、タジの方から語りかけることはできない。その方法が分からないからだ。

 向こうからの連絡を待つしかない、と思った直後、再びタジは耳鳴りに襲われた。それからややあって耳鳴りは治まる。どうやら、通信の合図のようなものらしい。

「聞こえている」

 タジから発した言葉は聞こえていないだろうが、発しようとした言葉が脳の中で言語化されている以上、それはミレアタンに届いていた。

(耳鳴りに関しては、割り切ってください。それがないとボクはあなたと通信できないのです)

 合図ではなく、準備だったようだ。

「どこにいる?出てきて話をしてくれた方が、俺としてはありがたいんだが」

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