凪いだ海、忘却の港町 05
「こうも本陣が変わってしまったとなると、困ったことが一つ出てきてしまいました」
「なんだ?」
タジが問うと、イロンディは衣服の胸元を大きくはだけて、一枚の木片を取り出した。別にそこまで大きくはだけなくても良いだろうとタジが胸中に留めるくらいには小さな、手のひら大の木片である。
「これが果たして効力を持つかどうか」
落としたり奪われたりすることの無いよう、両手で抱えるように持つ。
地図師と名乗る彼女は、眠りの国に帰ってくるのが一年ぶりだと言った。だとしたら、国外への長期滞在の間に彼女の身分を証明しつづけるものが必要だ。
「渡航証か、身分証ってことか」
タジが問うと、イロンディはうなずいた。
「なるほど、原始的ではあるが最も有効な手だ。とはいえ、冗長系はあるんだろう?」
「ないことはないですが、手続きが面倒な上、眠りの国でしか行えません。もしよろしければ、タジさんの方で私の身分を保証していただけるとありがたいのですが」
「連帯保証人か?イロンディが悪事を働かないという保証を先ほど出会ったばかりの俺がどうやって信じられる」
タジは片方の口の端を上げた。イロンディの事は信じていないわけではないし、いざ彼女が悪事を働いたとして、タジはそれをねじ伏せるだけの力も持っている。何なら眠りの国にいる四人の王の一人、レダ王に対して直接彼女の身分を確認させることもできなくはない。
だから、これは単純にタジの意地悪だった。
太陽の御使い、などと自己紹介して笑われた意趣返しである。我ながら肝の小さい男だ、とはタジ自身思った。
その言葉を聞いてイロンディは焦るかと思ったら、逆にタジの目をジッと見つめた。それからまた先ほどタジの言葉を冗談と笑い飛ばしたように笑い出す。
「何を言っているんですか。タジさんは既に私の事を信じていますよ」
「……驚いた。魔法でも使っているのか?」
「魔法なんてものではありません。ちょっとした技術です」
技術。
魔法とは別種の、ある種神がかった人間の働きに対してこの世界で使われる言葉だ。かつて共に旅をしたイヨトンという女性騎士は、気配を限りなく希薄にし、その存在をこの世界から隠すかのような技術を持っていた。
「人の心を読む技術……いや、考えていることを読む技術か?」
サトリと呼ばれる妖怪の類の話だ。もし、タジの思考を完全に読んでいるのだとしたら、これほど恐ろしいことはない。
しかしどうやらそういう訳でもないらしく、イロンディは首を横に振った。
「共感の技術です」
「共感」
「ええ。表情や仕草から感情や思考を読み取ることに長けた技術と言って良いでしょう。私のような地図師には、必須の能力です」
なるほど、とタジが唸る。
言葉や身振りの通じない相手、あるいは明確な敵意を持った魔獣。そう言ったものと対峙したとき、相手が何をすべきだと思っているかをいち早く察知するのは重要だ。長く滞在するために、そういった者と敵対しないためにはなおさらである。
「面白い話を聞いた。できればもっと聞かせてもらいたい」
「では、私の身分を保証していただけますか?」
「もちろんだ」
タジはイロンディを連れて、駐屯地の最も大きな天幕に向かうと、その布扉を呼びかけもすることなく押し開いた。
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