【番外編】温泉好きの竜 19

 壊れた扉の反対側、立ち上っていた白煙の正体は果たして温泉だった。

「源泉かけ流しなんて目じゃないな」

 石造りの浴槽は段丘を模してか二段になっており、上の段からは断続的に温泉が湧いている。底の浅い上段の浴槽は湧いた温泉をその場で冷まして、上半分が切り取られた陶器の管によって下段の浴槽に送り出している。

 下段の浴槽はとても大きく、人が五、六人入っても余裕そうだ。一人で入るには冗長であると感じるので、きっと高官が入った後に従者も入れるように作ったのだろう。幸い、源泉は枯れることを知らないかのように溢れている。風呂場の掃除その他身の回りの世話も含めて、それらの苦労の対価として高官だけが入ることを許された温泉に入ってもよい、さながらそういうことだろう。

 下段の浴槽の温水がどこに流れているのかは、タジが一見したところでは分からなかったが、石造りの縁から溢れていないことを考えると、どこかから排水されていることは間違いない。

「ねえねえ、あれに入るの……?汚くない?」

 温泉を実際に目の当たりにするまでは浮かれた気分だったエリスが、なぜか妙に気落ちしている。指さすのは、上段の浴槽にこびりついた白い石のような塊だ。

「汚い?ああ、湯の花のことか」

 泉質によって、湯に溶け出ていたものが水分の蒸発と共に沈殿、付着することがある。それを湯の花と言い、場所によってはそれが重宝がられ、旅の土産になったりするものだ。温泉の成分が凝固したものであって、見た目は汚いかもしれないが、成分的には汚さなどない。

「とは言っても、この量は掃除が必要なんじゃないかしら」

「そうだな」

「掃除しなさい」

「は?」

「何度も言わせないで。掃除をしなさい、って言ってるの。その間にアタシは石化に対抗するための術を用意しておくから」

 用意しないと大変になるわよ、と言い置いて、エリスは早々に石化した小屋へと戻ってしまった。

 結局、石化への対応策を教わっていないタジは、エリスの言葉に従うしかない。情報の非対称性を恨みながら、しぶしぶ浴槽の掃除を始めた。

 掃除とは言っても、タジにやれることは多くない。置かれていた掃除用の木の棒で上段の浴槽の石に咲いた湯の花をこそぎ落とすと、両手でかき出すようにして上段の浴槽の湯を汲みだしていく。湧きだす湯量以上にかき出すと、湯煙は一層激しく辺りを白く染め上げた。

 上段が終われば下段の掃除だ。陶器の管を板で堰き止めると、湯が浴場に貼られた石瓦に広がっていく。あまり長い間石瓦に湯を流し続けると、今度は石瓦の上に湯の花ができてしまう。

 下段は湯の花よりも露天ゆえにどこかから飛んできたのだろう砂利が沈殿している。カビや苔は生えていなかったが、泉質によるものだろうか。いずれにせよ掃除が楽になるのはタジにとっても僥倖、これも木で作られた均し棒で浴槽の底をゆっくりと押し出し、沈殿物を一か所に集めた。

 湯の流れに指向性を感じたタジは、恐らくそこが排水先だろうと当たりをつけ、集める場所をその辺りに定める。思った以上に上手くいき、排水と同時に上段から押し出された湯の花や砂利はあっという間に消えていった。

 消えていった浴槽の辺りに穴でもあるのかと水面から目を凝らして見るものの、そこには何もない。何か魔法的な処理がなされているのだろうか。

「……魔法、便利だなオイ」

 タジはまだ、魔法というものを目の当たりにしていない。その目で見ていない魔法を信じるのは、どこか馬鹿らしくもあったが、派手にドンパチするばかりが魔法でもないだろう。

 できることとできないことがあるのだろう、タジはそう己に納得させて、風呂掃除を済ませた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る