荒野に虹を 81

 チスイの荒野は混乱を極めていた。

 モルゲッコーの失脚、死亡、オルーロフの行方不明。それに加えて何やら魔獣側に活発な動きが見える。にわかに空を覆い始めた雲は一晩経っても消えることはなく、むしろその勢いを増しているように見えた。

「積乱雲?」

 魔獣側の荒野、地平線の向こうに綿あめのような雲が見える。人々は「竜の巣だ」と噂していた。

「不吉な予感がします」

 治療を終えたイヨトンがタジの隣でつぶやいた。

 イヨトンの傷は数日で治るようなものではない。背中に受けた矢傷は酷く、今も体は包帯でギチギチに巻かれている。治療を終えたというよりも、ほとんど中断の状態で眠りの国からチスイの荒野に舞い戻ってきていた。

 それをタジは咎めなかった。

 本人がそうしたいと思うのであれば、そうさせてやった方がいい。死地を脱しているのであれば、とやかく言う必要はないだろう。

「何だ、傷口が痛むか?」

 あれだけ大きな積乱雲だ。恐らくは、タジが一昨日の夜を徹しての大規模な下流域への工事が原因となっているのだろう。局地的な気温の変化が気圧と作用して、チスイの荒野に低気圧を齎した。その結果が魔獣側に見える積乱雲で、気圧の急激な変化は天気だけでなく人間にも如実に悪影響を及ぼす。傷口が痛むなどというのはその典型だ。

 しかし、イヨトンは自身の負い目からか、タジが過小評価していると受け取った。

「見くびらないでください。怪我は確かに痛みますが、与えられた責務はこなしてみせます」

「……そうかい。まあ、あんまり辛いようだったら、適度に緊張は解すといいさ。もちろん、その辺りも承知の上だろうがね。怪我を悪化させたり、俺が心配するようなことがあれば、与えられた責務とやらも満足にこなせないだろうしな」

 饒舌になったのは、心配の表れでもあった。

 タジは本陣を駆けまわる子どもたちの姿を見る。貧民窟の子どもの中で、斥候として働けそうな年長の子どもに関しては、タジが下流域の工事をするよりも先にチスイの荒野で働き始めていた。

 斥候と言っても、本格的に魔獣側に食い込んで斥候の仕事をさせることはできず、今はまだ、安全な場所で荷運びや不要になった道具、壊れた道具などの回収を行っている。彼らの身体能力と危機察知は、野生で鍛えただけあってかなり俊敏で狡猾だ。大人が教えるよりも早く体が覚える。

 生き残るための術が、生きるために役立っているのは皮肉としか言いようがないが、今はその皮肉で生きられることに感謝するしかない。

「あんな雲は、ここらでは見たことがありませんぜ」

 傭兵やごろつきを束ねていたビジテが言う。

 ビジテの仕事は、今や無いに等しかった。度重なる不祥事と不幸とが、彼が本来まとめ上げるはずだった荒くれ者を離散させてしまったのだ。この期に及んでチスイの荒野に留まる無法者は、チスイの荒野に骨をうずめる覚悟の者か、あるいは乱暴とは無関係のような与えられた任務は最後までやりきると決めている者くらいなものだ。

「そう、だろうな」

 もし、チスイの荒野にあの積乱雲が運んでくるような大雨が降ったとすれば、その後の竜巻に散水塔を幻視する者がいたはずだ。それが一人としていなかった、ということは、よほど長い間、この地に強い雨が降っていなかったことになる。

「雨が降るまでが勝負だな」

「勝負?なんのことですかい?」

「タジ様、もしや」

「ああ。一雨来る前に、魔獣が大挙して押し寄せてくるだろう」

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