荒野に虹を 20
寝息を立てるゴードの枕元に、人影が一つ。
ゴードの首元に剣を突きつけて、まさに振り下ろさんとするところで、天幕の入口から風が入ってきた。
寒気を感じた男が振り返る。
誰もいない。
男は剣先を首元から口元へと動かして、懐から小瓶と一つ取り出した。
闇夜よりも濃い漆黒。何物も吸い込む暗黒が、小瓶の中に閉じ込められていた。
人影はそれを刀剣に吸わせるように流しかける。暗黒は刃をヌルリと這うように伝わり、やがて剣先にたどり着くと、球形の雫となってゴードに滴り落ちる。
その雫がゴードの口に入る直前で、人影の死角から手が現れた。滴り落ちる雫を受け止め、そのまま剣先を握る。
人影は驚き、剣を自分の方に引き戻そうとしたが、剣はびくともしなかった。
「ゴード、起きろ」
死角から伸びた手がしゃべる。人影は声に驚き、剣を離して一目散に天幕を飛び出していった。
ゴードが目を開けて剣先を握る手の主を確認する。タジだった。
「タジ殿、本当にいらっしゃったのですね」
「眠りの国からはるばるな」
にやりと笑って、剣をゴードの上から払い除ける。柄の方に持ち直して剣を地面に打ちつける。刃に付いた暗黒の雫が地面に吸収されていった。
「それより、ちょっと使いを頼まれてくれるか?俺が外に出ると色々とまずいだろう?」
「それは構いませんが、一体何を?」
ゴードは体を起こして寝台から立ち上がる。
「水だ。どのくらい必要かは分からないが、とにかく水を持ってきてくれ。こいつを落とすには水が必要だ」
剣先を握ったタジの手は、漆黒の液体がベタリと貼りついている。天幕の暗がりにおいてなお黒いタジの手を見て、ゴードは首を傾げてその暗黒に触れようとした。
「触るな」
低い唸り声でゴードの体が強張る。タジは無表情だった。
「失礼しました」
ゴードはすぐに天幕を出て革袋いっぱいに水を入れて持ってきた。
タジは黒くなっていない方の手で少しずつ水を垂らしていく。最初は油のように暗黒の上を弾くだけだった水は、だんだんと浸透し、やがて薄皮をはがすようにタジの手から離れ始めた。
ポタポタと落ちていく暗黒水はチスイの荒野にジワリと染み込んでいく。
その様子をジッと見つめていたゴードは、タジの手から漆黒の液体が完全にはがれるのを見届けて、それから大きく深呼吸をした。
「悪かった、突然威嚇して」
「いえ、それが何かも分からずに興味本位で触ろうとした私が悪いのです」
それが一体何なのか、ゴードは問わずにはいられなかった。
タジはその液体の正体も、対処法も知っている。しかし長年商人をやっていて、物の鑑定には一日の長があると自負するゴードをもってしても、その暗黒水の正体は見当もつかなかった。
「これは、神の祝福だ」
「神の……祝福?こんなおぞましいものが、祝福?」
ゴードの疑問に答えるように、タジはつぶやいた。
「おいゴード、本格的にヤバいぞ」
「どういうことですか?」
「魔獣側と交渉し、結託している派閥が存在する可能性が出てきた」
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