荒野に虹を 18

 兵舎にアルアンドラはいなかった。

 食事前に来ていれば会うこともできただろうが、別にそこまでして合わなければならない用事もない。むしろギュンカスター商会を通してモルゲッコーたちに余計な疑念を湧かせかねないだろう。

 イヨトンは当直の見張りに訳を話してタジを兵舎に泊まらせるように手続きした。

「あれだけの堂々とした見張りがいなくなっただけで妙に警戒心が薄れて困る」

 あるいはそれが相手方の狙いなのかも知れない。

 ここは確かに白鯨の騎士団の兵舎ではあるが、別の騎士団の者が入ってはいけないという決まりはない。安易に警戒を解いてしまえば、向こうよりも先にこちらが馬脚を現しかねない。

「しかし、警戒の視線は感じられませんから大丈夫だとは思いますが」

 イヨトンの察知能力はタジのそれとは異なる。彼女の技術である完全な気配の消去の過程で身につけたもので、自分の存在を限りなく薄くすることによって他者の発する意識を相対的に強化させる方法である。

 周囲を探るという能動的な方法に比べて、より相手の意識の強さが引き金になるとかどうとか……。詳しいことを聞こうとしてタジは途中で諦めてしまった。要するに、わずかな気配を察知することにおいてはタジのそれよりも優秀であるらしかった。

「まあイヨトンが大丈夫だと言うのなら大丈夫なんだろう。商人であれば義よりも積まれた金に正直なはずだ。時間外労働はしないってところだろうな」

 兵舎の小さな部屋。月明かりのよく差し込むその部屋で、タジとイヨトンは机を挟んで膝をつき合わせている。部屋には獣脂の火すらない。月明かりだけで十分に明るい。

 兵舎内は静かなものだ。目抜き通りの屋台から酒混じりの賑やかな声がわずかに聞こえるくらいで、隣の部屋のわずかな寝息すらも聞こえてきそうなほどである。

「眠りの国に来たばかりですぐに何か行動を起こすとも思っていないのでしょうね」

「その辺りは警戒しているとは思うんだけどな」

「なぜです?」

「モルゲッコーが優れた戦術家だからさ。俺の思考力がモルゲッコーにとって未知数であると仮定すれば、モルゲッコーは考え得る最大の警戒心で戦略を練るはずだ。先手先手と打ってきた相手が警戒するのは、思慮外からの一手だ」

「相手の誘いにタジ様が乗っていたのは思慮外の一手のためだと?」

「警戒していようが対応のしようがない、という意味ではそうだな。ただ、こちらが相手の程をそれなりに見切っていると思われると、向こうは巣に引きこもってしまうからな。うまく釣らないといけない」

「ずいぶんと考えていらっしゃる」

「まー、どれだけ考えようと結局は勝てば良いんだよ。チスイの荒野が戦争とは別の産業を手に入れること、それが勝利だ」

 タジは立ちあがると、開け放たれた木窓の枠に手をかける。

「という訳で、ちょっとチスイの荒野までゴードの様子を見に行ってくる」

「くれぐれも人に見つかりませんよう」

「突風に紛れれば見つからないだろうさ」

 ふわりと外に出ると、そのまま空を駆けだした。同時に月には雲がかかる。それまで灯りがなくとも手元までくっきりみえるような室内は、途端に暗闇に覆われた。

「何もなければよいのですが……」

 わずかばかりの不安を感じて、イヨトンは部屋の獣脂灯に火をつけた。

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