祈りの歌姫と紅き竜 44

 翌日。

 雲一つないチスイの荒野の上空を、一体の紅き竜が回遊した。

 その影は、戦線を押し上げる人々に再び恐怖を与えるのに十分な威容を誇り、その巨体で優雅に空を駆け巡る姿は神秘ですらあった。

 人々は、紅き竜の腹側しか見ることが叶わなかった。時々、翼をバサリと羽ばたかせて加速していくのを恐怖と共に眺めている。

 その上に人が乗っているとも知らずに。

 紅き竜の回遊は、チスイの荒野全域に渡った。

 初めて空を飛ぶ割には、何一つ不自由なことはなさそうだ。エダードの言った通り、生まれたばかりではあっても、赤ん坊の状態ではないらしい。

「うおっ!」

 急に紅き竜が首を落として急降下しはじめた。翼を一つ鳴らして、猛禽類のように速度をあげる。高度はどんどん下がっていき、速度はぐんぐん上がっていく。

 このままでは地面にぶつかる。

 タジがそう思った時には、紅き竜は急上昇していた。

 その口に魔獣を一体咥えている。ネコ科だろうか。耳の尖った四足歩行の獣。ジタバタしているために分かりにくいが、背中がしなやかな曲線を描いているように見える。

 紅き竜は顎に力を入れて、ネコ科の魔獣に齧りつく。それだけで魔獣は絶命し、次の瞬間には丸飲みにされた。一緒に飲み込んだ空気が、炎となって空中にはじける。

「すげぇな……」

 半分は感動、半分は興奮。タジは今ほど異世界を実感したことはなかった。

 紅き竜の背に乗って、地上を見下ろしているのだ。どれだけの高さなのだろう。人が豆粒ほどにしか見えないくらいの高さ。命じれば紅き竜はきっともっと高く飛べるだろう。それもいいかと思ったが、今回は目的が違う。

 タジの強靭な肉体であれば、紅き竜から落下して地面に落ちたとしても怪我を負うようなこともない。命綱もつけずに、紅き竜に全てを任せている。さすがに手綱はつけさせてもらったが。

 エダードと別れる時の会話を思い出す。

「紅き竜に手綱をつけたいのだが」

「あら、アンタはあの子を紅き竜って呼ぶのね」

「それ以外に何と呼べと?」

「エダードって、呼んでくれないの?」

「冗談はよせ。もう、紅き竜とエダードは俺の中で別モノだ」

「じゃあ、アタシの方を歌姫って呼んでよ」

「姫ェ?柄じゃないだろ」

「はー、腹立つ。手綱、用意してやんないわよ」

「これは失礼いたしました姫君」

 足の甲、脛、腹と一回ずつ蹴られて、ようやく渡された手綱を握り、タジは紅き竜の背中に乗っている。

「さあ、そろそろ本拠地に戻ろうか」

 竜の肩の辺り、だろうか。ゆっくりとさすって話しかける。

「ガアアァァ!」

 天高く吼える紅き竜。下方にはまだ恐怖に震える人間がいるのだろうか。

 タジが手繰る必要もなく、思った方向へと紅き竜は向かってくれる。

 この信頼感!

 強靭なつながりに頼もしさを感じつつ、タジはオルーロフたちの待つ本陣へと羽ばたくのだった。

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