祈りの歌姫と紅き竜 15
それでもゴードの馬車の扱いは素晴らしく、彼の申告する時間よりもずっと早くに戦線に到着することができた。
「荷物が少なく、二頭立ての馬車であれば天候や路面が良好ならこのくらいには到着できますよ」
申告の時間には不慮の事態を見積もっておくのが当然だ、とゴードは言う。確かにその通りだ。タジ自身、チスイの荒野の前線に向かうにあたって、野盗と化した戦士や傭兵、あるいは戦線が押し下げられたことによって混乱する人間側の虚を突き、荒野を暴れまわる魔獣が出現しているのではないかと危惧していたが、そう言った人災の類も起こらなかった。
道中はニエの村から眠りの国へと向かう道のように平和であり、魔獣との戦によって前線が混乱に陥っているようにはついぞ感じられなかったのだ。
しかし、実際に前線に到着してみると、その様子は戦争そのものと感じられる。もっともタジは戦争の何たるかを創作物や歴史でしか知らないのであって、かつて味わった戦争の空気、などというものを肌で感じ取ったわけではない。
そこかしこに張られた天幕と、天幕を守るように拵えられた丸太づくりの柵。天幕の間には煮炊き用の窯があちこちに作られて、陣営は雑然としている。丸太の柵から戦場となっている荒野を睨むように見守っているのだろうか、多様な装備の傭兵たちがタジらに背を向けて立っている。二番目に大きな天幕の周りにはむしろが所狭しと並べられており、負傷者が安静にしている。横になっている者の中には全身の火傷によって皮膚が爛れて、かろうじて呼吸をしているのが見て取れるといった様子の者さえいた。
急使の報告から三日、紅き竜の襲撃から一週間。
戦場は未だ事態の収束には至っていなかった。
「タジ様、大丈夫ですか?」
タジの肘をイヨトンが支える。
血の気の引いた真っ青な顔をしていたタジは、ほとんど気絶しそうになっていたところをイヨトンによって支えられることでようやく自覚した。
「あ、ああ……。大丈夫だ」
「タジ殿は、戦場は初めてですか?」
ケムクが言う。彼は、謁見の間でのタジの演技を見ていないので、その実力のほどを真の意味で理解していない。戦場を眺めただけで顔を青くする男に対して、騎士の矜持を殊更にひけらかしたい時分のケムクの評価が低くなるのは当然の反応だった。
「あなたはガルドを倒した英傑としてこの戦場に派遣されたのですから、弱いところを見せれば味方の士気に関わります。どうか注意してください」
「ケムク」
諫めるのはイヨトンである。
「いや、それはケムクの言う通りだろう」
「タジ様」
イヨトンに文字通り肩を持たれているのだが、ひいきをされたい訳ではない。
「この戦場に俺が連れてこられた意味があるとしたら、ケムクの言った通り味方の士気を上げたいというのもあるはずだ。そんな俺が戦場の様子に青ざめていては、確かにここに派遣された意味がない」
タジが戦場にやってきた理由はそれだけではないが、余計なことは言わなかった。青ざめた顔を平手で二度三度挟むように叩いて、己を鼓舞する。
「ありがとう、イヨトン」
「いいえ。タジ様の弱点を発見したことはムヌーグ様に報告しておきますわ」
「やめてくれ、今度は頭痛で立ちくらみそうだ」
軽口が言えれば大丈夫と判断したのだろう、イヨトンはタジから体を離して微笑んだ。
「さあ、最も大きな天幕で荒野の指揮官がお待ちのようです。行ってきてください」
ゴードに言われて、三人は最大の天幕へと入っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます