狼の尻尾亭 13

 深い夢の中で、少女が微笑んだ。

 光に満ちた世界で微笑む少女は、満天の星空の下で歌い始める。地には光る花が満ち、天に星の光が満ち、そのどれにも負けぬ彼女の笑顔を、ある時は舞台袖から、またある時は真正面から、俯瞰するように、渦のようにうねり回り込むように、少女の姿を追い続けた。

――じゃあ、私は先にいくね。

 そんな言葉と共に、少女の姿は破裂する。破裂と同時に少女は細かな光の粒子となってその場を満たすと、天に向かって上っていった。その光は間もなく星の光と見分けがつかなくなる。

「待ってくれ、いかないでくれ!」

 消えた少女を追いかけようと手を伸べたその瞬間、辺りは突然、水でいっぱいになった。指先にかかる抵抗は重く、かき分けてもかき分けても少女のいた場所にたどり着く様子はない。

 少女が消えたその場所に、ガラスの靴が片方だけ残っている。

「いかないでくれ!」

 水中にいるはずなのに、涙が頬を伝うのが分かった。なぜ俺は呼吸が出来るのか、と考えた瞬間に、口の中に水がうねるように侵入してきた。危機を察知するよりも先に息を飲む。しかし気道を満たしたのは空気ではなく水だ。排出するように息を吐くも既に遅く、体を呼吸の出来ない苦しみが襲う。

 苦しい……。

 しかしその体は死を許さない。気道に達した水は肺を侵そうとしている。目の奥がジンジンと痛み、脳は考えることを止め、手足に激痛が走ってまともに動くことさえままならない。

――追いかけてきて、また一緒になろうね。

 水面に浮かぶ夜空の星が微笑むように瞬いた。激痛に苦しむ四肢を無理やりに動かして、星を掴もうと手を伸ばす。

 一つ掴んだ。

 グイと引き寄せようとすると、強い抵抗がある。むしろ掴んだ星に持ち上げられているようにさえ感じた。

「……ジさ……ん。……う、か」

 水の入った耳の奥から、何かが聞こえてきた。

「だい……ぶ、すか?」

 掴んだ星が温かく、柔らかく、膨らんでいく。

 そこでタジは目が覚めた。上半身をガバリと起こして、激しく咳き込む。気道に侵入したはずの水は、そこに無かった。

「大丈夫ですか、タジさん」

 体を折り曲げるようしばらく咳き込んでいたタジを、不安そうにトーイが見つめていた。手に持った水差しを渡されると、タジはややためらったものの、意を決して一口含んだ。

 冷水が食道を流れて胃に到達する様子がはっきりと分かるようだった。

「酷く苦しそうな顔で何かを掴もうと手を振り上げていたので、思わず手を取ってしまいました」

「……そうか。ありがとう」

 いくらか正気を取り戻して、もう一杯水を飲む。

「悪い夢でも見ましたか?」

「溺れる夢を見たよ。全く、とんでもない夢だ」

 夢と言うにはあまりにリアリティのある夢を見た、とタジは思う。ガルドとの戦いで、タジは確かに水中で溺れるかと思うような体験をした。それが二十日以上経った今になって夢で見るとは思ってもみなかった。戦闘の時は覚悟をして体内に留める空気を出来るだけ抜いた結果、地獄のような苦しみを味わったが、夢の中では自分の意思とは関係のない、突発的な出来事だった。

 計画的に溺れるなどということがそもそも無茶なのだから、その経験が尾をひいていたとしても無理からぬことだ。

「溺れる夢ですか……火に注意ですね」

 羊毛で作られたふかふかの毛布をタジの下半身にかけ直しながら、トーイがそんな事を言った。意外な言葉に思わずタジが目を丸くすると、トーイは微笑んだ。

「水の災難が起こった夢は、近く火の災難が起こる暗示なのだと、都でモノ拾いをしていた時に聞いたことがあります、路上の占星術師の人から」

「占星術」

「知りませんか?星の運行と誕生日でその人を占う秘術のことですよ」

 この世界にも星を見て占うという風習があることを知って、タジはどこか安心した。

 どんな世界でも、人は天に浮かぶ星に意味を見出し、そこに願いや思いを託すものなのだろう。星の瞬きによって何か特別な感情を呼び起こされるのはこの世界でも変わらない。同じものに心を動かされるのならば、分かり合えることもある。

「それは占いというよりも迷信に近いけどな」

「占星術が、ですか?」

「違う違う、水の災難の夢が火の災難の先触れっていう話が、だ」

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