帰還

 雪人は気づくと真っ暗闇の世界に立っていた。


(ここは俺たちの世界じゃないよなぁ? アケにはもとの世界へ返すっていわれたんだけど……)


 辺りを見回す。

 まるで宇宙の中にでもいるようだった。暗闇の世界が四方を覆っている。

 不思議なことに、自分の体だけはなにか淡い光に照らされているのか、輪郭がぼんやりと見えていた。


 ――ふふふふっ。


 闇の奥から複数の人が笑っている声が聞こえた。

 雰囲気は楽しげだった。


(何だろう)


 雪人は声がした方へつま先を向ける。

 その時だった。


「そちらへ行ってはだめです」


 誰かが雪人の腕を掴んだ。

 見ると白く華奢な手だった。声から察するに十歳くらいの少年だろうか。暗くて姿がよく見えなかった。


「そっちへ行っては駄目です。それに僕はあなたを弟から任されてますから。ちゃんと正しい道に帰れるようにしないと」

「弟?」

「行きましょう! ついてきてください」


 少年は雪人の質問には答えずに、彼の手をぐいっと引っ張って、反対方向へ連れて行った。

 するとだんだんと、ぼんやりとした白い光が見えていた。

 それは近づくにつれ、だんだんと大きくなり、やがて扉のような形になる。

 扉の前まで来て少年は立ち止まった。


「ここを通り抜けて下さい。そうすればあなたの居た世界へ帰れます」

「そう」


 その時雪人は、少年の方へ目を向けたが、そこでも少年の姿はよく見えなかった。扉からの強い光で逆光になる位置に居たからだ。


「ねえ、君はなんて名前なの?」


 雪人はたずねる。

 少年は一瞬戸惑ったが、やがて艷やかな声で言った。


「ヨイと言います」


(ヨイ……)


 彼の言葉を心の中で繰り返す。なにか聞き覚えのある名前だった。


「雪人さん、早く扉へ入ってください。この扉は時間が経つと場所がずれてしまうので」


 雪人が考えていると、ヨイが急かしてきた。


「う、うん、分かった」


 雪人は言われたとおり、扉へ足を踏み入れる。その時、体が扉に吸い込まれる感覚がした。

 まるで誰かが手を掴んで引っ張っているかのように体が持っていかれる。


 雪人は咄嗟にヨイの方へ顔を向ける。

 これが彼の姿を見る最後のチャンスだと思ったからだ。


「もしかして君も……」


 ヨイの姿は、白いワイシャツに黒いズボンで、瞳は橙色だがアケやクレとそっくりな顔だった。


「ええ。僕はアケとクレの兄です」


 ヨイがそう言ったとき、雪人の視界は紙に黒い絵の具を垂らしたように闇に覆われていった。


   ***


 雪人が気づいたときには、目の前に白い天井が広がっていた。耳元では規則的な電子音が響いている。それは一秒に一回くらいの間隔で、ポッ、という音を響かせていた。


(ここは?)


 雪人は眼球が動く範囲で辺りを見回した。体を動かそうとしたら、やけに重く、指先くらいしか動かせなかったからだ。

 彼の周はカーテンでぐるりと取り囲まれていた。それを見て、雪人はここが病室なのだとわかった。


(ああ、あの事故のあと搬送されたのか)


 彼の方へ向かって突っ込んできた列車は彼にぶつかり、彼を数メートルほど飛ばしてから止まった。

 幸い彼は列車の下敷きになることはなかったが、飛ばされたときに頭をぶつけて意識を失っていらしい。


(さっきまで夢を見ていた気がするなぁ)


 人が透明な街、美しい湖畔、海辺の街での生活、それはまるで夢のような体験だった。感覚はしっかりと残っているが、本当に現実かと言われるとはっきりとは答えられない。


「雪人!」


 突然、女性の声がした。

 雪人は声のした方へ眼球を向ける。全身は見えなかったが、その声の主が誰かすぐにわかった。なにせ何年もの間聞いてきた声だから。


「母さん……」


 声の主は無言せ雪人に抱きつく。

 雪人は少し申し訳ない気持ちになった。自分があのとき逆方向の列車に乗っていなければこんなことにはならなかった。彼女も今こうして病床の横に座っているということもなかっただろうに。


「母さん、ごめん、俺――」

「いいの」


 その声は涙声だった。


「分かった」


 しばらくの間、母は彼を抱いたままだった。しかしはっと何かを思い出すと、雪人から手を離し、彼に言った。

「母さんそういえば、雪人が起きたらお医者さんを呼んで来なくちゃ行けないんだった」


 そう言って母は立ち上がる。


「行ってらっしゃい」


 雪人はそう言って病室から出ていく母の後ろ姿を見送っていた。


 ***


 それから二週間ほど経った日のことだった。

 それまでの日々は、鉄道の重大事故というのもあり、マスコミの取材が頻繁にあって、バブルのような状態になっていた。


 それがここ二、三日になってようやく収まり、世間の注目も他のものへ移ったころ。


「白河さん、少し良いですか?」


 一人の看護婦が雪人の病床へとやってきた。


「病院宛に届いていたのですが、宛先が白河さんだったので」


 看護婦はそう言い、白い封筒に包まれた手紙を手渡す。

 封筒の正面には彼の名前と病院の住所が書いてあった。

 その字体にはどこか見覚えがある。


 雪人は封筒を開けた。中には手紙が一枚入っていた。



 久しぶりです。覚えていますか。

  連絡先は ☓☓☓−☓☓☓☓−☓☓☓☓ です。

 もし覚えがなかったら、裁断機にかけておいてください。

               青山 ナツ



 内容は至って簡素だった。が、それでも雪人には十分だった。

 雪人はベッドから飛び起きる。そしてベッドの隣の棚においてあった小銭を乱暴に取り出し、まだ少しぎこちない足取りで病室を出て行く。

 彼はエレベーターで二階へ降り、公衆電話のもとへと向かった。彼は気負う手で公衆電話の受話器をとり、とりあえず百円玉を入れる。

 今持っている小銭では時間が足りないかもしれないが、それでも構わない。


 電話機のコールが五回鳴った。それと同時に受話器が取られる音がする。雪人は一気に緊張した。


「もしもし、青山です」


 それはとても聞き慣れた声だった。

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