潰え

 通常の事態ではなかった。

 あの鐘はたぶん神殿のものだろう。


 神殿の鐘はたいてい祝福を上げるために鳴らされる。だがそれは調和の取れた美しいもので、やたらめっぽうに鳴らしている今の鐘とは違う。


「なにかあったのかしら」


 ナツは冷静に言った。


「ちょっと外を見てこようか」

「そうして」


 雪人はテーブルから立ち上がり、扉のところに向かった。粗末な扉に手を掛けると、それは軋んだ音とともに開いた。


 彼の家の前に左右に伸びる往来には、同じく様子を見に外へ出ている人々が見える。みな同じことを考えているのだろう。


 空に月はない。星明かりだけが頼りだった。

 人々の顔は闇に紛れあまりはっきりと判別はできなかった。


「何があったんですか?」


 雪人は隣家の玄関先に立っていた人に尋ねる。シルエットからして隣の家の主人だろう。四十代くらいで、あごひげを生やした小太りの男だ。

 引っ越しをするときに手伝いをしてくれ、それから親しい関係を続けている。


「いや、俺にも分からない」


 男は首振りながら言った。


 雪人が周りを見渡してみると皆同じ様子だった。誰かが誰かに様子を尋ねている。そしてそれを聞かれた人が分からないと首を傾げる。


「誰も知らないようですね」

「そうみたいだ」


 往来はしばらくがやがやとしていた。しかしやがて誰もこの事態を理解していないと分かると、誰に言われたでもなく道の真ん中に人だかりが出来ていった。


「誰か神殿へ行って聞いてこい!」

「嫌だよ。怖いよ」

「俺が行こうか」

「あんたは信用ならないよ。間違った情報を伝えられちゃこまる」


 人だかりからはそんな声が聞こえてくる。そこには老若男女問わず意見を言い合い、論議する姿があった。


 雪人も混じろうかと思ったとき、遠くから声が聞こえた。


「――!」


 なにか緊迫しているということは伝わったが、その内容ははっきりと聞き取れない。論議の声もうるさい。


「あの! 皆さんちょっと黙りませんか! なにか聞こえているようなので」


 雪人が集団に話しかける。

 集団は雪人の声を聞きつけると一斉に雪人の方を向いた。


「なにか聞こえたのか?」


 集団の中の一人が尋ねる。


「ええ」

「――!!」


 さっきよりもさらに大きく声が聞こえた。しかしまだ内容は把握出来なかった。


「みんな静かになってるけど、何かあったの?」


 後ろから声がしたかと思うと、雪人の背後にはナツが立っていた。いきなり外から声が聞こえなくなったから、外の様子を見に来たのだろう。彼女の顔には心配そうな表情が浮かんでいた。


「遠くから声が聞こえてきてね。みんな今、その内容を聞こうとしている」

「そう……」


 ナツの声は不安そうだった。

 また三回目の声が聞こえる。今度はかなりはっきりとしたものだ。


「敵襲! 住民は避難されたし!」


 瞬間、場がざわめいた。


「敵襲?」

「街が襲われたってこと?」

「なんてこった」

「なにかの間違いじゃないのか?」


 随所からそんな声が聞こえてくる。なかには大慌てで家へ戻る者もいた。だが大半は道の真ん中にとどまっていた。


「今から俺が警備兵に詳しいことを聞いてくる! だからみんなは家々に戻って逃げる準備をして待ってろ!」


 集団の中から声が聞こえた。皆は一斉にそちらの方を向く。声を出したのは屈強な、肩幅の広い男だった。


 混乱をしていた住民は、男の言葉に口々に同意の言葉を述べると散り散りに自分の家へ向かって戻っていった。

 雪人もナツに声をかけ、それに従った。




 事態が動いたのはそれから十分もしない頃だった。


 ドオオオーーーン!


 思い切り太鼓を打ち付けるような音がして、それからすぐに何かが崩れる音がした。


 騒ぐ人の声が聞こえる。


 何か重大な事態が起きたのは明らかだった。


 雪人とナツは、騒ぎを聞いて大急ぎで扉を開けた。すると横から隣の家の主人が転がり込んでくる。


「お二人さんも今すぐ逃げろ! いきなり海から誰かが大砲を撃って来やがったんだ!」


 そう言うと男は挨拶も言わずに自分の家へと戻っていた。


 ドオオオーーーン!


 二回目の太鼓のような音が聞こえた。


 それはさっきよりもさらに大きな音だった。

 雪人が音のした方へ目をやると、砲弾が建物に当たって炸裂し、煉瓦が飛び散るのが見えた。


 雪人は呆然とした。

 新たに、第三の、第四の音が聞こえ、次から次へと家が消えていく。

 瓦礫となった家の前で叫ぶ人々。顔が血だらけになりながらも近くにいた人に支えられて走って逃げる人々。そんな人々が彼の視界を占領する。まるで地獄絵図だった。


「雪人、行くよ!」


 いきなり声がしたかと思うと、いつの間にかナツが荷物を携え、雪人の隣に立っていた。彼女は雪人の手をしっかりと握っていた。


「う、うん」

「ぼんやりしてないで! 今からでも逃げればなんとかなるんだから!」

「うん」


 雪人が頷くとナツは雪人に背中を向け、彼を先導しながら走る。


 ナツはまだ砲撃がされていない方へと向かっていった。周りには、同じく砲撃から逃げようとする人々の流れがある。


 背後は地獄だ。血、灼熱、鉄の破片。地獄という言葉とぴったりとあう品々が実際に満ち溢れた世界だ。


 助けを呼ぶ声も聞こえる。助けようとして砲撃の餌食になる人の声も。


「きゃっ」


 突然、雪人の前にいたナツの姿が消える。

 見るとナツは道の上で尻もちをついていた。重い荷物を背負っていたからだろう、道の段差で転んだのだ。


「ナツ、大丈夫!?」


 雪人はナツの横に座る。

 打ち方が悪かったのか、ナツは、なかなか立ち上がれない。


「私は大丈夫。雪人は早く行って!」

「大丈夫じゃないよ! 俺が背負って行くから!」

「行って!」


 ナツはこれまで見たこともない激しい形相で言った。それは雪人に対する必死の主張の現れだった。

 だが雪人は怯まなかった。


「ナツをおいて行けるわけがない! そんなことしたら俺は絶対、一生後悔する!」


 雪人もナツに同じくらい必死に言い返した。

 ナツも雪人の珍しく感情を昂ぶらせている姿に驚いているようだった。

 ナツは強く唇を結ぶ。

 そして言った。


「わかったわ。私を背負って。荷物は捨てていくわ」

「もちろん!」


 雪人がナツに背中を向けようと横を向いた。

 だがそのとき、視界に黒い鉄の玉が入った。


(砲弾……!)


 それはゆっくりとした速度で近づいているように見える。ただし、雪人がそれを避けようと体を動かす速度は、それよりも遥かに遅いものだった。


 咄嗟に雪人はナツに覆いかぶさる。その動きだけで精一杯だった。


 瞬間、鼓膜がはちきれそうなほどの爆音がして、体に熱風を感じる。


 すぐに全身を刃物で突き刺されるような痛みを感じた。その後体が地面を何回か転がった。そして頭に金槌で殴られたかのような衝撃を感じると、雪人の意識は闇に消えた。

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