彼女の黒

三角海域

第1話

 重い。

 目をあけると、彼女が僕の身体に覆いかぶさるようにして眠っていた。

 彼女をおしのけ、ベッドから抜け出る。水を飲み、脱ぎ捨てられた下着を拾い、はいた。

 こめかみのあたりがジンジンと痛む。軽い耳鳴りもした。下半身が重いのは、昨晩の行為のせいだろう。

 カーテンの隙間から日が差している。少し開けてみると、太陽は高々とのぼっていた。時計を見ると、もう昼過ぎだった。

 冷蔵庫を開け、ビールの缶を取り出すと、頭痛薬を二錠ビールで喉に流し込んだ。

 ベッドに腰かけながら、ビールを飲む。シーツに触れてみると、少し湿っていた。二人の汗やら「液」やらがしみ込んでいるのだろう。あまりいいものではない。あとで洗濯したほうがいい。

 彼女がかすかな吐息と共に、寝返りをうった。

 胸や腹があらわになる。昨晩のことを思えば、何を今さらという話だが、そんな彼女の姿に恥ずかしさを覚えもする。昼間だからなのか、もしくは自分の中の性欲が昨晩の絡み合いの中ですべて吐き出されてしまったのかもしれない。

 僕は彼女の頬に触れる。瞼がぴくっと揺れ、ゆっくりと目が開かれた。

「おはよう」

 僕は言った。

 彼女は何も言わなかった。


 彼女は服も着ずに、裸のままでベッドの上に座っている。

「コーヒーと紅茶どっちがいい?」

 そう問うてみるが、彼女は僕のほうを見つめるだけで、返答しなかった。

 僕は二人分のコーヒーを淹れ、ひとつを彼女に渡した。

「ミルクと砂糖は?」

 訊くと、今度は頷いた。シュガーポットとミルクピッチャーを彼女の前に置く。僕は少しの砂糖とたっぷりのミルクを入れて飲むのがすきなのだが、彼女は砂糖もミルクも大量に入れ、何度もスプーンでかき回してからゆっくりとコーヒーを口に運んだ。

 ひとつひとつの動作が、妙にゆっくりだなと感じた。僕の感覚がおかしくなっているだけなのかもしれないが。

 僕もコーヒーを口に運ぶ。

 思えば、彼女を見つけた時から、なんとなく日常が緩慢に感じる。一日中行為にふけっていたからそう思うだけなのだろうか。

「そろそろ着替えたほうがいいんじゃないかな」

 やはり、彼女は何も言わなかった。

 空になったコーヒーカップを洗い、シーツを洗濯機に突っ込んだ。彼女はやっと服を着て、窓辺に立って外を眺めている。

「僕はこれから仕事なんだ。シャワーを浴びた後は隣の部屋で作業してるから、なにかあったら声をかけてくれ。シャワーも勝手に使っていいから。服は……乾燥機にかけて渡すから、申し訳ないけど昨日渡したその服で過ごしてくれるかな? 家に帰ったらそのまま捨てるなりしてくれてかまわないから」

 彼女は聞いているのいないのか、ちらりとこちらを見てからまた視線を外に戻した。

 寝室を出て、リビングに設けた作業用のスペースに腰かけた。

 挿絵画家が僕の職業なのだが、それだけで食っていくことはできないから、デザイン会社からの依頼でいくつかイラストを描いたりしている。絵しか取柄はないが、自己というものが希薄な僕は、自分で何かを描くより、他人の作品のイメージを絵という媒体で形にする方が性に合っている。

 幸いにして、ここ数年は挿絵やデザインの仕事だけで生活していけるようになった。

 その分、外に出ることは極端に減り、打ち合わせ以外ではずっと家にこもりきりだった。

 静かな部屋に、線を引く音だけが響く。

 だが、いつもと違うのは、隣の部屋に一夜を共にした女性がいるということ。

 線を重ね、重なった線が形を作っていく。

 連なる線を見つめながら、昨日のことを思い出す。まるで、映画のようなシチュエーションだった。


 昨日、打ち合わせを終えると雨が降り出した。天気予報で雨だと言っていたので折り畳み傘を持ってきていたが、思っていたより雨が強く、身体半分はびっしょりと濡れていた。

 雨は無駄に体力も精神力も奪う。ただでさえ打ち合わせで疲れているのに。

 何度もため息を吐きだしながら、家までの道を歩く。ここ最近睡眠時間が減ったせいか、時々意識が遠のくことがあった。歩いていることは分かっているが、意識が自分の頭の上で浮いているような感覚。目の前のものがすべてゆっくりと動いるような錯覚。

 自分が自分でないように思えてくる。

 自分は、他の意識に操られている傀儡にすぎないのではということまで考えてしまう。

 そんな時、彼女を見つけた。

 彼女は、家の近くの公園で、雨に打たれながら、ぼんやりと空を見つめていた。

「風邪ひきますよ」

 彼女は無視して空を見つめている。何人か声をかけ、こんな風に無視されたのかもしれない。

 僕は傘を差しだした。彼女はそれも無視したので、僕は自分の傘に彼女をいれた。密着しないように少し体を離していたから、僕の体は完全にびしょ濡れになってしまった。

 ずぶ濡れになると、不思議と不快感は消えた。体温のせいか、ぬるま湯につかっているような感覚だった。ぼんやりとした意識が、さらに深くまどろみのなかに沈んでいく。自分はいま眠っていて、夢を見ているんじゃないかとすら感じる。

 彼女の目が、こちらを見た気がした。

 気が付くと、僕は彼女の手を引いていた。


 部屋に帰ると、我に返った。

 無理やり女性を連れ込むなんて、これでは犯罪ではないか。

 だが、彼女は怯えもせずに、ずぶ濡れのままリビングに立っていた。

「今タオル持ってくるから」

 声が裏返る。寝室に行き、タオルを二人分取り出しリビングに戻ると、彼女は作業場の前に立ち、僕の描いた絵をじっと見つめていた。

「タオル……」

 声をかけても絵から目を離さない。

「そんなに気になる? まだ色を塗ってないから、完成じゃないんだけど」

 彼女の手にタオルを握らせ、寝室に戻り着替えを用意した。自分の分と、彼女の分。女物の服なんて持っていないので、部屋着のシャツとズボンを彼女に渡すことにした。

 彼女はまだ絵を見つめていた。

「これ、着替え。僕はここで着替えるから、君は洗面所を使って」

 彼女はタオルを使っていなかった。髪の先から雫がぽつりぽつりと落ち、無機質なフローリングの床に小さな水たまりを作っている。

 あとで掃除しないと。でも、それより先に、この子をどうするべきか。質問してもなにも返してくれないし、警察に行ったほうがいいのだろうか。

 彼女はまだ絵を見ている。

「この絵さ、初めて描いた自分のための絵なんだ」

 彼女は何も訊かないし、答えない。

 だから、これは独り言のようなものだ。

「僕は絵を描くのが好きなんだけど、自己表現は得意じゃないんだ。創作畑にいるのにそれは矛盾してるって言われることもあるけど、僕の創作意欲は、誰かのイメージをそれ以上の形で描き出すことなんだよ」

 彼女は黙って絵を見続けている。足元の水たまりが大きさを増していく。

「でも、お世話になってるデザイン会社の人から、宣材ってわけじゃないけど、こういうものが描けますっていうのを一作くらい作ったほうがいいって言われて。いつも仕事をまわしてもらってるから断りきれなくてね。なんとかここまでは形にしたんだけど、色がね、つけられないんだ」

 線と線を重ね、組み合わせ、絵は形を成していく。線ひとつひとつがイメージの断片だから、どの線も欠かすことはできない。

 自己表現が苦手と言っても、これまでたくさんの絵を描いてきたから、そういうイメージを線にすることはできる。

 だけど、どうしても色のイメージだけが出来なかった。どんなに絵のイメージを膨らませても、絵はモノクロだった。

 いっそ、モノクロのままで完成としてしまおうかとも思った。でも、それも違う気がした。何かが足りない。色を加えるには、何かが。それはスキルなのかもしれないし、もっと感情的な部分なのかもしれない。

 自己表現から逃げてきたから、こんなに苦戦するのだろうか。それとも、この感覚は僕の勘違いなのだろうか。

「どうすればいいのかわからなくてね。ろくに寝ないであれこれ考えて、でも結局形にできない。そのせいか最近は頭痛も酷いし、酒と薬でいろいろ誤魔化しながら生活してるよ」

 言葉にすると、少しだけすっきりした。一方的に話しを聞かされた方はたまったものではないだろうが。

「ごめんね長々と。早く着替え……」

 彼女の目が、こちらを見ていた。

 公園の時と同じだ。

「君は、どうしてあんな所にいたの?」

 彼女がこちらに近づいてくる。濡れた足が床を踏むたび、ぴちゃ、ぴちゃっと音がする。

 手が。

 彼女の手が、僕の手を握った。

「冷たい……」

 つい声が出る。雨で濡れたというのもあるのかもしれないが、その冷たさは、氷のようだった。

 手を引かれる。彼女の目が、近づく。

 彼女の口元が、動いた気がした。

 笑った、のか?

 そんな僕の思考は、ゆっくりと押し付けられた彼女の唇と、僕の舌に絡みつく柔らかい彼女の舌に塗りつぶされた。

 熱い。体が熱い。

 彼女は濡れた服を脱ぐ。大きくはないが、形の良い胸だった。透明にすら感じる白い肌が、照明の光を吸収する。

 夢中だった。服を脱ぎ捨て、寝室に向かい、二人でベッドに倒れこんだ。

 彼女の冷たい手が、僕の背中を、脇腹を撫でるたび、柔らかい心地よさが体を包んだ。

 乳房を撫で、首筋に唇を推しつける。彼女は吐息を漏らすだけで、声をあげることはなかった。シーツの擦れる音と、窓の外からわずかに聞こえる雨音だけが部屋の中に広がっていく。

 熱い。体が熱い。どんどん熱が増していく。このまま溶けてしまいそうだ。

 彼女が足を広げた。僕は彼女の目を見た。

 吸い込まれそうな、あの瞳。

 体を重ねると、ベッドが軋んだ。

 彼女はやはり息を軽くもらすだけだった。

 腰を動かしながら、僕はじっと彼女の目を見ていた。

 快感というよりは、心地よいというほうが正しいように思える。

 彼女の目をじっと見つめる。深い。吸い込まれそうな、独特な色彩の目。

 そして、僕は果てた。


 線がずれ、同時に僕の意識も昨日から今日へ戻ってきた。

 あの後、何度体を重ねただろう。

 思い出すと、恥ずかしくなる。

 夜が更け、外が少し明るくなっていた記憶がある。

 ため息を吐き、途中の絵を脇にどけ、あの絵を取り出す。

 色。この絵に必要な色。

 背後でかたりと音がした。

 振り返ると、彼女が立っていた。

「どうしたの?」

 僕がそう訊くと、彼女は何も言わず歩き出した。

 シャワーを浴びるんだろうと思ったが、彼女はなかなか戻ってこなかった。

 心配になったので風呂場のほうに向かうが、シャワーの音はしなかった。

 玄関の鍵が開いていた。

 彼女は出ていった。自分の服だけを残して。

 僕はしばらく玄関の前で彼女が戻ってくるのを待ったが、しばらくすると作業場に戻り、あの絵を見た。

 色。この絵に必要な色は。



 あれから何週間たっただろう。あいかわらず僕は家にこもりっきりの生活をしている。

 デザイン会社に提出した絵は、黒をベースに色を塗った。

 画材屋で片っ端から黒を買いあさり、ひとつひとつ試し、混ぜ合わせ、ようやく納得のいく黒を見つけてからは、絵はすぐに完成した。

 デザイン会社側は色遣いが地味ではあるが、独特の黒の使い方は面白いし、僕らしいと言ってくれた。これからもこうして自分のカラーをだしてみてはどうかとも言ってくれたが、これはやはり自己表現の作品ではないと思う。

 この作品は、彼女がいなければ生まれなかった。この黒を僕に与えてくれたのは彼女だ。この黒は、彼女そのものなのだ。

 僕の家にはまだ、彼女の服が置いてある。

 もしかしたら、また彼女に出会えるかもしれない。その時に返そうと考えている。

 あの出会いは、彼女はいったいなんだったのか。白昼夢のようにも思える。だが、あの日のぬるま湯につかったような柔らかい心地よさは、しっかりと覚えている。

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