ep.53 お仕舞いのプレリュード
三月。
あたしは無事、大学を卒業する。
「それにしても良かったね、卒業式までにギプスとれて」
「まーねー」
母が、袴の着付けをしながらつぶやいた。
「なんか、色々と心配おかけしました」
「最初の三年間は何事もなかったのに、最後の一年で二回も入院するなんて……社会人生活が思いやられるわ」
「本当にすんません」
いや、もう、そのことについてはなんも言えんわ。ひたすら頭を下げるしかねえ。
「しっかりしなさいよね。……さて」
「さて?」
「……いや、あんたも社会人になるしさ、
「あー」
弟の博己とは、五才ほど年が離れていることもあり、いつも家事のあれこれはあたしにしわ寄せが来ていた。でも、その役目もそろそろ御免ってところか。
「それはそれとして……そこそこ色々あったけど、大学生活、楽しかったよ」
「そう」
母はまるで興味無さそうに、帯を締める。興味無いことはないのだろうけど。
「ありがとう」
まるで、着付けをしてくれたことに対して言っているような体で、つぶやいた。――確かにそれもあるのだが、大学四年間、そしてそれまでの学生生活を支えてくれた両親には本当に感謝している。
「ところであんた、結局卒業旅行とか全然行かなかったじゃない。その辺、大丈夫なの」
「んー、まあ別に?」
旅行ね。電車のホームからの転落事故で、ゼミ同期との国内旅行が中止になってしまったけれど、そこまで悔いはないかな。
端から見たら、あたしの学生生活って充実してるのかな。ふと思った。どうなんだろうね、面倒なサークルに時間を費やした二年間に、人との接触を絶った一年間、そして、一年生を巻き込んでひたすら迷走しまくった一年間。まあ、アホな時間の使い方だよな、客観的に見ればね。
でも、今、あたしの手の中に残ったものを眺めてみると、アホなことをしていた割には、そこそこの収穫があったんじゃないかなって思うんだよね。
キラキラと光る想い出の欠片。
他人に対して心を開く勇気。
小さな後悔。
経済学部次席卒業。
そして、――カッコいい彼氏。何これウケるな。
そして、四月からあたしは社会人になる。学生のうちが華だ、社会人生活は地獄だ、人生は二十代までで終わり。そんな話をしょっちゅう聞かされている割に、あたしはそこまで将来を悲観していない。それはあたしがまだ、世間知らずなガキだからかもしれない。
でも、今はそれでいい。現実を知ることなんて、あとからいくらでもできる。――ただひとつ、確かにいえることがある。
人生は、ここまでなんかじゃない。むしろこれからだ。
卒業式会場では、会社から直行してきた父親と合流して、写真を撮ってもらった。なんか、すごい楽しそうだった。父がこんなに楽しそうなの、あたしの小学校の運動会ぶりなんじゃないかな。娘としては、悪い気はしない。今日のあたしは、萌葱色の着物に身を包んで、サイコーのメイクをして、サイコーのヘアアレンジが綺麗だしね。
「優里乃ー」
声がした方へ振り返ると、ひよりと、志歩がいた。
「おお」
「おおって何、雑なリアクションねー」
だって、別に驚きもしなかったからさ。二人とも、最後の数ヵ月でそこそこお世話になったと思っているし、なんなら入院先に何度も来てくれたし。つまり、あたしの学生生活圏内に堂々と鎮座している二人だから、声かけてくれて当然でしょ? みたいな。あたしが先に彼女たちを見つけたとしたら、絶対に、絶対に声をかけるから。
「一緒に写真とるでしょ」
「うん」
はい、チーズ。
式が始まり、あたしは予定どおりしっかり表彰されて、一部の学生から「嘘だろ、あのぶりっ子が? 」みたいな視線を受けながら、にこにことしていた。まだ十分に動かない右手が、表彰状を受けとるときに震えた。
大学の卒業式とは、なんともドライなものだ。小中高の卒業式のように、最後の校歌を歌いながら泣く学生なんていない。あたしに至っては、大学の校歌を覚えていない。
でも、みんなが弾けるような笑顔で、この学舎から巣だっていく。それでよくない? 学生生活最後の瞬間は、笑顔でいいよ。だって、別に何かを失うわけでも、何かを終えるわけでもないんだからさ。節目だよ、節目。
式の後、ひよりと、志歩とあたしの三人で、近所のカフェに入った。そろそろ袴が苦しい。……とか言いながらも、しっかりとパンケーキを注文してしまった。
「志歩はこのまま院に進学でしょ。どうよ、今の気持ちは」
「どうもこうも……ぶっちゃけ、『卒業』感はないよね、四月からもほとんど変わらない生活を送るんだからさ。綺麗な着物を着られて楽しいなー、くらいな感じ」
まあ、そうでしょうね。ああ、確かに志歩は今日も綺麗だ。濃紺の着物がよく似合っている。
「私は、結構感慨深いなー。ほら、やっぱり、私たちは就職するでしょ。学生生活最後な訳じゃん」
ひよりの言葉に、軽く頷いた。ぶっちゃけ、どちらの気持ちも分かる。
「しかし、優里乃が次席とってたのはびっくりしたわ。めっちゃおめでとう」
「ありがとう。やっぱり驚いた? 同じ学科の人も、なんでやねんみたいな顔してこっち見てくるから、よほど意外なんだろうね」
「優里乃って、絶対に努力しているそぶりを見せないじゃん。……なんというか、『らしい』よね」
誉められては――いないよな。
「私なんかは、頑張っていたら『頑張っています、邪魔しないでください』って言ってしまう。言わないにしても、態度で示してしまう。優里乃は――そういう意味では絶対に、人に迷惑をかけない」
「そういう考え方もあるかー」
志歩の意見に相づちを打ちながら、そこまでの善人じゃないんだよなあ、ただのプライドの問題なんだよなあ、と思っていた。わざわざ否定はしない。そんな必要もないし、少しずつ勘違いがあるくらいの方が、人間関係面白いよね、と感じるから。
日はとっくに落ちていた。カフェを出たあたしたちは、タクシーを捕まえようと躍起になっていた。
「疲れたし、早く袴を脱いでしまいたいね」
「わかる、メイクも崩れまくってるー」
他愛もない話をしながら、通りすがりのタクシーに向かって手を振っていた。
この瞬間が惜しい、とまでは思わなかった。確かに楽しい一日だったけれど、この二人には今後、いくらでも会えるから。勇気を出して、半歩歩み寄れば、絶対にあたしのことを受け入れてくれる子たちだからさ。
お仕舞い、なんてものは、ここにはない。確かに学生としては最後だけれど、それはあくまで
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