すいがん

藤村 綾

 すいがん

「右目がさ、海の中にいるいるんだよ」

 駅にお迎えに来てもらい、助手席に乗ったせつな、あたしの方を一瞥したのち、首をかしげるようなことを口にした。

 最近パートの時間をずらしてもらい、ちょうどなおちゃんの仕事が終わる時間にあわせて帰って来るようにしている。なので社長出勤なあたし。なおちゃんは、「いいね」

 とだけ言ったけれど、ちっともいいねなどとは思ってはいない。なんでも「いいね」「そうだね」「あっそ」「ごめんね」の少数の単語を言っておけばことが済むと思っている。

 なおちゃんの方を向き、「なにそれ」語尾を上げ問うた。

 なにそれ。なおちゃんが繰り返し、なにそれって、俺こそなにそれだよ。

 ふふふ。質問に応えずに含み笑いをした。

 闇に飲まれる時間がだんだんと早くなった。時計は19時半。夏だったら、まだ薄明るい時間だ。耳を済ますと鈴虫が鳴いている。あたりの人も半袖の人が減少して長袖人口が増幅しつつある。そんなあたしもサーモンピンクのカーディガンにブラウス。下は最近流行っているようなガチョウパンツだ。ガチョウパンツなんて変んてこな呼称だけれどとんでもなく楽だ。ゴムだしで。

「早く家に帰ってアイボンをしたい」

 窓の外に目を落とす。ガラスに映るなおちゃんは目をパチパチさせていた。

 コンタクトを毎日外さないからよ。

 あたしは口が酸っぱくなるほど何度も注意をしたけれど、なにせ直ぐに酔ってしまうのでこのセリフをいうのは不毛に感じ最近あまり言わなかった。

「今日は先に外してね。そうして」

 なおちゃんは、うん、とだけいい、肩をすくめた。

「腹減ったな」

「うん、なにかあったかな」

 冷蔵庫の中にあるものが全く思い出せない。

 ま、いっか。

 なおちゃんは、コンビニに寄った。

「おでんと肉まんでいいわ」

 一緒に行く? と聞かれたけれど、首を横にふった。

「わかった」

 きっと。あたしは考える。おでんの種類が何かを。何を買ってくるか手に取るようにわかる。なので一緒に行かないのだ。なおちゃんの行動パターンがすっかりあたしの中にインストールされている。

 クスクス。

 あたしはおもしろくてクスクスと笑った。

 

 3日前の朝。なおちゃんは、あたしの隣にはおらず、ソファーでピールを片手にしたままうたた寝をしてしまい、もう、しょうがないわね、などとひとりごちながら、ソファーにいるなおちゃんに毛布をふんわりと掛けた。きっと、夜中に起きてあたしの横に来るものだと思っていた。いつもそうだから。

 しかし、その日はとうとう来なかった。すっかり寝ちまったよ。はぁあ。大あくびをしたのち、口をぽかんと開けたまま、ぼーっとしていたと思ったら、ああ! と、せつな大きな声を張り上げて、見えない、見えない、と、ワーワーと騒ぎだしたのだった。

「どうしたの」

 あたしは眠たい目を擦りながら、なおちゃんの側に駆け寄ろうとしたところで、

「ああ!来ちゃダメ!」

 なおちゃんらしくない取り乱した声であたしの方に目を向けた。焦点がまるであってはいない。なおちゃんどこ見てるの? そう言いそうになる。

「コンタクトがね、落ちたんだよ。目が乾燥をして剥がれたんだ」

 やや落ち着いた物言いになり、半径1メール圏内をゆったりとした様子で小さな薄いなおちゃんの第2の目を探し始めた。

 あんな薄くて脆くて、儚いものなどそうも簡単に見つかるわけなどはない。コンタクトってある種なくてはならない大事なものだけれど、薄くて儚くて脆い。扱いに注意しないと事後が大変なありさまになる。

 恋も結構儚くて脆い。コンタクトみたいに。

「あった」

 ぼんやりとしていたら、少し喜びを含んだ声を出し、あった、あった、と2回ほど嬉々たる顔であったろうコンタクトをそうっとつまんだ。

 なおちゃんが、あたしの方に視線をうつし、手をクイクイとさせ、おいで、という仕草を見せる。

 ん? あたしは首を傾げながら、なおちゃんの方に近ずいた。

「ほうら」

 ほうら。ほうら? なおちゃんの横顔を覗きこんでから、手のひらの物に目を落とした。

 もの至極干からびたコンタクトが2つ手のひらに乗っていた。

「え? こんなに干からびて大丈夫なの?」

 まるで、乾燥キクラゲみたいね、クスクスと笑いながら付け足した。

「そう。水に浸けるとね、きちんと戻るんだよ」

 クスクス。なおちゃんも同じように笑った。

「へー」

 コンタクトにそのような出来事があるなんて初めて知った。普通ならこんなことはないんだよね、なおちゃんは、さらに言葉を上乗せした。

「へー」

 もはや、へー、とだけしか言葉は出なかったけれど、

「コンタクトは外して寝てください」

 ちょっとだけ呆れた口調で告げた。

 なおちゃんは、はーい、と間延びの返事をし、背筋をのばす。きちんと羅列をした背骨が朝日に乗っかり綺麗だと思った。なおちゃん、肌が綺麗。触りたかったけれど、儚くて脆くて。

 コンタクトみたいに感じてしまい手を引っ込めた。

 触れたら消えてしまいそうと。思ったから。


「おでんさ、あまりいいのなくて、焼き鳥にした」

 車に乗り込んだせつな口にした。

「え? ふーちゃんが運転してくの?」

 ええそうよ。だって、海の中にいるのにあぶないわ。

 もう、5分も走ればうちにつく。なので、そうした。実に車の運転は何年ぶり。なにせペーパードライバーなのだ。

「こわいな」

 なおちゃんは、短くいい、助手席に乗った。うわ、こわい、こわい、何回もいう。

「海の中にいる人に言われたくないし」

 口を尖らせるも、カローラワゴンの運転は容赦なくあたしを緊張させた。アクセルとブレーキは間違えなかった。

 なんだか、少しだけ大人染みた感じがして、あたしは横にいるなおちゃんの横顔を見つめた。いつもは左の横顔。今宵は右の横顔。あ、目元にホクロがある。少し違う角度からみると発見することもあるな。

 焼き鳥の匂いと、なおちゃんの作業服の匂い。せめぎ合う匂いはあたしとなおちゃんだけの空間におもしろいほど似合っていた。

「焼き鳥はモモとタレ」

「そう」

 モモとタレ。モモのタレの言い間違いだとは思ったが、緊張の面持ちのなおちゃんの目は真剣に見開いていた。


 うちに入るや否や、真っ先にコンタクトを外し、うがいや手洗いの前に目をうがいした。よっぽど見えづらかったんだね、あたしは、なおちゃんの横に立ち背中を撫ぜた。

「おおげさだったかな」

 目を洗ったなおちゃんは、その流れで作業服を脱いで、シャワーを浴びた。一緒にする? 妙なことを言われ、あたしは、ブルブルと首を横に振った。

 たまたま浴室にいたからだと思うけれど、酔っていなくて、シラフのときのなおちゃんとは一緒にシャワーなんできない。恥ずかしいもの。


 あたしは、コンビニで買ってきたものを食卓に並べた。サトウのご飯をチンして。

 焼き鳥を開け確認すること数秒。

 あたしはたちまち途方にくれる。

 モモとタレではなく、皮のタレだったのだ。なおちゃんは言い間違いの言い間違いをしたらしい。けれど、皮のタレ2本と、ネギマの塩2本が入っていたので、どうでもよくなった。海の中にいたんだよ。そういって、一蹴される。なおちゃんはいつもあたしを悩ませる。

 爽やかにシャワーから出てきたなおちゃんは瓶底メガネをかけている。

「うふふ」

 思わず含み笑いを浮かべてしまった。

「のび太くん誕生」

「ふふふ、そうね」

 あたしとなおちゃんは焼き鳥とサトウのご飯でお腹を満たした。なおちゃんだけはそれプラス缶ビール500㎜3本。

「酔ったな」

 目が座っている。酔眼を向けられあたしは目を逸らした。

「シャワーしてきて」

 テーブルを片していたら、背中に声をかけられた。

「え、」

 変な声が出た。待って、片したいの。そう、いうも、なおちゃんは食い下がる。

「後でいいから、早く」

「なんで」

 メガネの奥の酔眼があたしを動かせなくする。

「早く」

 サトウのご飯や、焼き鳥の串たちを残し、あたしはシャワーをしに浴室にいった。

「どうしたんだろう」

 ぼそっとつぶやく。浴室の中の声はシャワーの音でもみ消されないものになる。シャワーから出ると身体がひんやりとした。

 部屋の明かりはすっかり消えていて、なおちゃんは布団にいた。

 気配がしない。

 あたしはそうっと、心もとない常夜灯の明かりの中、布団に入った。

「え?」

 なおちゃんが、あたしの上に乗りかかって唇をふさいだ。頬を持ち、何度も何度も唇を吸う。そうしてからあたしを座らせ、なおちゃんは立ち上がった。

 な、なおちゃん?

 声にしようとしたけれど、あたしの口の中はなおちゃんのもので精一杯になった。髪の毛をつかまれ、頭をくいぐいと動かし、あたしの喉を突いた。

「おぇ、おぇ、」

 寡黙に手だけ乱暴に動く。どうして、なんで、あたしは泣いていた。なおちゃんどうしたの? 何度も心の中で唱える。唱えても無駄なのに。喉からどろっとした液体が出てきたと思ったら、あたしは結構な勢いで滂沱していた。

 髪の毛を引っ張ったままあたしを布団に倒し、勢いよくあたしの中に入ってきた。

 下準備がまるで出来ていないと思ったけれど、あたしの中はすっかりと潤っていた。

 お互いの息の乱れる音。

 シーツの擦れる音。

 なおちゃんの心臓の音。

 それだけで形容された布団の上はいつにない戦場だった。メガネがきちんと所在いなく布団の上に置いてあった。

 あたしは頬を濡らして、泣いていた。不明瞭な涙は自分でさえもわからない。けれど、あたしはおそろしいほど、感じていたのだから。



「行くよ」

 朝は容赦なくやってくる。昨夜のなおちゃんは一体誰だったのだろう。コンタクトを装着したなおちゃんは子どもみたいな形相であたしの着替えを見ている。

「うん」

 今日は少し早く上がるから、駅で時間を潰してるわ

「わかった」

 おもてはすっかり秋の風で、おもてはとっても澄んでいて。

「空気が秋の味ね」

 深呼吸をしたあと、なおちゃんに声をかける。

 はー、と息を吸い、

 ふー、と吐いたあと、

「よくわからないな」

「早く紅葉がみたいわ」

 そういうと、なおちゃんはあたしを一瞥し、こうようね、まださきだよ。

 クスッと苦笑いを浮かべる。

 

 また数時間は会えない。あたしは天を仰ぐ。水色に染まった秋の空を。

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すいがん 藤村 綾 @aya1228

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