第2話
「ハナ、もう慣れたか?」
「はい!アオイくんやヒミちゃんが色々教えてくれるから、大丈夫です。」
「そうか。それならいいんだ。仲良くな。」
「はい。」
任を解かれる時には、何でも願い事を二つ叶えられる。二つの願を叶えられた者は、瞳の色も黒に戻り、多くの者は里を出て新たな生活を始める。 深い緑色だった椿の瞳はすでに黒くなっていたが、後継ぎ達を心配して未だ人里に留まっていた。
任期は個人差があり、短いものもあれば、長いものもある。平均すると十年前後といったところだ。
濃い橙色の瞳をしていた凪も、ハナが来たすぐ後に琥珀色の目をしたキナリという少女が来たことで黒い瞳が戻っていた。背丈は高く、切れ長の目が涼し気だが、長く艶やかな髪が女性らしさを損なわせない。椿と同じように彼女もまた街へは行かず、人里へ留まっていた。
「ヒミ、おかえり!大丈夫だった?」
祓いを終えて戻ってきたヒミを、人里へ引っ越していた凪が迎えた。
「はい、しっかり消してきました。」
「おつかれさま。椿がケーキ作ったの、一緒に食べましょう?」
「椿さんが?」
「あんな顔して男のくせに器用なのよー?さ、いきましょ。」
「はい!」
巴が里を去った時に既に祓い子となっていた椿と凪は、巴を止められなかったことに責任を感じて、とりわけヒミに目を掛けていた。
「皆とはどう?仲良くしてる?」
パウンドケーキを切り分けながら、凪がつとめて自然に聞いた。
「椿さんが何か言ってたんですか?」
「ええ。あなたが、心配だって。」
「そうですか。…心配いらないと伝えてください。」
「本当に?何か辛いことがあるんじゃないの?ヒミは、ここに来た頃からずっと頑張ってきた。それは皆知ってる。でも、たまには誰かを頼っても、甘えてもいいのよ?」
「…誰を、頼ったら良いんですか。」
「私達でも、アオイ達だって…」
「できません。」
きっぱりと良い放ったヒミに、凪は押し黙った。
「凪さんや椿さんにこれ以上迷惑をかけたくありません。アオイは自分とハナのことで手いっぱいです…私なんかのことで煩わせたくない。」
「迷惑だなんて思わないわよ。」
「ここに来たばかりの私を育ててくれたのは、凪さんと椿さんです。本当に感謝してるんです。だから、もうこれ以上甘えるなんて、出来ません。」
「ヒミ…、」
凪がまだ何か言おうとしているのを察したヒミは、7つほどに切り分けられたケーキに手を伸ばした。
「いただきます。」
「え、ええ。たくさん食べて。」
椿が作ったパウンドケーキは、優しくて甘かった。
「美味しいです。」
「それは良かったわ。」
美味しそうにケーキを頬張るヒミを見て、凪も顔の強張りが解けた。
「ヒミ、何かあったら必ず相談してね。私も椿も、あなたのことを妹だと思ってるんだから。ね?」
「ありがとうございます。」
「じゃあ、他の皆にもよろしくね。これ、よかったら渡しといてね。」
「はい。あとで持っていきます。」
「…そうだ!禊滝の紅葉がすごく綺麗よ。アオイでも誘って行って来たら?」
「紅葉…」
「それがいいわ。たまには綺麗な景色でも観て、リフレッシュしないと。ね?」
人里へ帰った凪は、その足で自宅へは戻らずにある所へ向かった。
「椿、居る?」
玄関から声をかけると、奥の方からパタパタと足音が近づいてきた。
「はいはーい。…凪か。渡してきてくれたか。」
「いま行ってきたとこ。」
「ヒミは元気だったか?」
「一昨日会いに行ったんでしょ?心配し過ぎよ。」
「いや、祓い子としては心配していないんだが、不器用なところがあるだろ?誰かに甘えたり頼ったり出来ずに、あいつまで巴みたいになるんじゃないかってな。巴の前任も失踪しただろ?同じことを繰り返すのは見たくない。」
「…まぁ、それはそうね。しっかりしてるみたいだけど、女の子だから。過保護にもなっちゃうわよね。それに、わざと孤立しようとしてるみたい。」
「…そうだな。なにやってんだ、アオイのやつは。」
「アオイもよくわからないのよきっと、なんでヒミが変わってしまったのか。だからどう接したら良いかわからない…みたいな?」
「せっかく新しい世代が5人揃ったっていうのにな…なんなんだこの不安は。」
「トキワ、キナリ。」
「あれ?ヒミ。」
「これ、さっき凪さんが来て、椿さんが作ったケーキ持ってきてくれたの。トキワとキナリの分。」
「ありがとー。わ、美味しそう。」
「トキワはさっき出かけたところなの。変な穢れがあったんだって、確かめに行ったの。」
「変な穢れ?」
「そう。なんか変なんだって。あ、ちょっと上がって行ってよ。お話ししよう?」
「うん…。」
「凪さん、元気だった?」
「うん、すごく元気そうだった。」
「よかったー。でも珍しいよね、椿さんはよく来るけど。何か用事があったのかな?」
「…様子見に来てくれたんだよ、たぶん。」
「そっかー。…うわ、美味しー。」
「良かったね。」
微笑むヒミを確認したキナリは、パウンドケーキの優しさを飲み込んでからその甘さに力を借りるように声を出した。
「ねえヒミ、アオイと喧嘩したの?」
「してないよ?なんで?」
「あの…なんていうか、余所余所しいっていうか…。二人は幼なじみだって聞いてるけど、でも、なんだか…」
キナリは、思っていることをまっすぐに話した。
「気のせいだよ。」そう言ってヒミは立ち上がりキナリが気にしないよう柔い表情でその場を離れた。
ヒミ自身も気にはしていた。アオイとどう接したら良いかわからない。幼い頃は当たり前のように隣にいた。再会してからも自然と側にいた。だがハナが来てから、どうしても引け目を感じてしまって以前のようには振る舞えなかった。
そういえば、と凪が紅葉が綺麗だと言っていたことを思い出した。
誘ってみようか。
断られるかもしれないが、もしかしたら昔のように二人で一緒にいられるかもしれない。傍に居れば安心できたあの頃のように自然の中に存在できるかもしれない。
最近ではついぞ呼ぶことのなくなった名前を、面映ゆい気持ちで呼びかけた。
「アオイ、禊滝の紅葉が綺麗なんだって、見に行かない?」
「紅葉?ああ、明後日で良いか?天気も良さそうだ。」
「うん。じゃあ、十時に祠の前でね。」
「わかった。」
昔のように自然な会話ができたこと、拒絶されなかったことに安堵した。自分が気にしすぎていただけで、アオイは昔と変わっていないのかもしれない。ヒミは少しだけ浮上する心に手をあてた。
アオイと約束を交わして迎えた二日後、時間を過ぎ、水鏡の祠の前で待っていたヒミが、アオイに何かあったのかと心配になってきた頃、ザワリと穢れの気配を感じた。後ろを振り返っても何もいない。何かに見られている気はするが、その正体がわからないまま気づけば有に二時間が過ぎていた。このまま待っていても来ないかもしれない…ヒミはゆるりと帰ることにした。
辺りは夕焼け色に包まれていた。ただでさえ寂しい色に染まっているというのに、待ちぼうけなんていう自分の状況に情けなさまでも相まって、鼻の奥が痛んだ。
下を向き惰性で歩いていたヒミは、前方から誰かが駆けてくる足音に顔を上げた。
慌てた様子で走ってきたのは、アオイだった。
「ヒミ!悪い…!今からじゃ遅いか?」
息を切らせて走ってきたアオイは、ヒミの前まで来ると、心底すまなそうな顔に汗を滲ませながらも、見たところ元気そうだ。
「…忘れてた?」
「本当に悪かったよ、気づいたら時間過ぎてて。」
何か事件が起きていたとか、体調が悪かったとか、そういう事態が発生していたわけではないとわかり、ヒミは安心もした。だが、その程度の約束だったのか、と気づかされた瞬間に、忘れられてしまった原因にも思い当った。
「いいよ、もう。…ハナと一緒にいたんだよね?」
「ああ…。でも、待ってたんだろ?寒かっ…」
ヒミの腕に触れようと伸ばしたアオイの手は、届く前に払いのけられた。
「そんなに待ってない。気にしなくて、いいから。じゃあね。」
泣いてしまうわけにはいかない。あまりに惨めな上、アオイを困らせてしまう。そう思ったヒミは、声が震えてしまう前に、急いでこの場を離れなければならないと、くるりと背を向け早足で歩き出した。
会話を強制的に遮断されてしまったアオイは、早足で離れて行く背中を見送ることしかできなかった。
しばらく只管に歩き続けたヒミは、薄暗い中でも顔料で染めたような真っ赤な紅葉の元に着いていた。アオイと来るはずだった場所だ。
辺りに誰も居ないのを確認すると途端に、耳鳴りがするほどの静寂に包まれた。
簡単に防寒していたとはいえ、夕方の寒気の中やっと歩を止めた両足は、痛いほどに冷えている。感覚の鈍くなっていた両手も双方を擦り合わせることで少しでも暖をとろうとしたが、カサカサとした音が響くだけで、たいして温かくはならない。そのことが余計に空しさを募らせる。
こういう運命らしい。家族には捨てられた、巴もヒミと顔を合わせることもなく居なくなった、やっと再会できた幼なじみは可愛らしい後輩に付きっきりでヒミとの約束を忘れる始末だ。ヒミの心は枯葉と同じように、軽く乾いた音が響くだけだった。
見上げれば、毒々しい程に真っ赤な紅葉が蠢いている。自分の瞳も、こんなふうに毒々しい色をしているのかと思うと、ヒミは目を閉じた。
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