マイスイートデビル


 俺の女は、めっぽう酒が強い。


 この一文で最も気になるところに、線を引きましょう。


 授業の終わりに、俺はふざけてこんな文を板書きして、学生たちに問うてみた。みんな「は?」って顔をして、俺を見ている。


 特に答えはない。気まぐれで出しただけ。もう残り時間少ないから余興だ。


「『めっぽう』ですかね、使い方が間違っているとか」

 真面目な顔して、木崎が眼鏡を上げて答える。いや、合ってるだろ。


「『女は』なのか、『酒が』なのか、主語が曖昧!」

 なるほど、「俺の女は強い」にね。なんねーよ、大野。「酒が強い」は形容詞的扱いだろ。ある意味では、確かにあいつは強いが。


「『俺の女』がそもそもいない!」

 山川、てめぇ、そこか! 正解だよ。


 6限終業のチャイムが鳴ったので、じゃあな、と手を振って教室を出る。

 なんだ、答えは何なんだという声が聞こえるが、あまり気にせんでくれ。


 さ、これから電車に揺られて、その女とバーで待ち合わせだ。



 相手は酒に強く、だが、酒癖が悪い女。

「俺の女」と言いたいところだが、残念ながら「俺の親友の女」だ。

 先月、「つき合いはじめたからよろしく」と二人で言いやがった。


 もう知り合って何年経つかな。元々は大学の同期で、今も続く飲み友。

 今夜も嬉しそうにカウンターで目を輝かせている。


「遅いよ、優人ゆうと。待ちかねたよ」

 武士の果し合いじゃないんだから、なんだ、その表現は。それでも国語教師か。

 

 俺たちはよく三人で仕事帰りに飲みに出かけて、教師という職業の悲哀を語り合った。三人とも別の学校だったけど、自然と学生の頃から通っていた大学の界隈に集まった。働くようになって、大人が入れる店に少しランクアップ。


 でも先月からは俺は遠慮して、別の街に一人で飲みに行っていたんだ。つき合いはじめた二人と一緒なんて、ごめんだっつーの。


 で、なぜ親友の彼女と二人で飲む約束をしているかって? 

 それは現在、親友が長い長いアメリカ研修に行っているからだ。さみしいんだってさ。ついでに「留守の間、彼女を頼むよ」だと。ちっ。


 あー。日々の晩酌を欠かせない、酒場通いをやめられない彼女に毎晩付き合わされて、もう今日で1週間。なんなんだ、女ともだちとかいねーのか、お前は。


 酒強い癖に、ここんとこ限界酒量超えてるだろ。なんかあったのかな。ストレス抱えているせいなのか、前はこんな酔い方していなかったのに。

 でも、聞いても「何でもなーい」って、愚痴とか言わないからな。彼氏にしか言わない悩みかな。


 しっかし、なんで俺が毎晩ベロベロに酔っぱらったお前を送っていかなくちゃならん羽目になってるんだ。

 知らないぞ、もうそろそろ限界だ。襲うぞ、もう。ほんとだぞ。


 まったくそんなことを疑ってもいない瞳で、紗英さえはグラスの氷をカラカラ振っている。

 律儀なのか何なのか、俺が来るまでは1杯目を飲まないと決めているので、今夜もずっと水をちびちび飲んでいたようだ。


「ね、今夜は赤ワインにしようよ。あの看板に書いてあるやつ」

 おかしなやつだな。どうせお前が選ぶのに、さっさと頼んで先に始めていればいいものを。

 もうつまみも決めてあったみたいで、メニューを見なくてもさっさか5品程注文している。正確に暗記してるなぁ。お前が選ぶものはどれも正解だから、いつもお任せだけどね。


 お前が選ぶのは、選んだのは、亮介りょうすけだった。

 あれは、いい男だ。正解だろ。



 こいつは赤ワインを飲み始めると、だんだん悪魔になる。


 というのは、ワインの飲み方が下手なので、上唇の両端にワインの赤い色素がついて、それがだんだん重なっていくからだ。

 時間を追う毎に、笑ったデビルみたいに邪悪な顔になっていく。生き血を吸い終わった吸血鬼でもいいんだが、俺はその顔を見るのがおかしくて仕方ない。

 

 検証してみるが、なぜそうなるかわからない。口が小さくて零し気味に飲んでいるのかな。落ち着けよ。

 じっと観察してると、変な癖でワイングラスを少しずつ指先で回して飲んでいる。これが原因だろうか。グラスの縁にどんどん痕がついてしまう。まったくお行儀が悪い。今夜もいつのまにか1周してるじゃないか。

 それはまるでグラスに押したキスマークみたいで、俺はそんな悪癖すら愛しく思えてしまうほどに、お前を見てる。え、俺今、変なこと考えたな。


 あーあ、いくら何でも今日のワインはタンニンが強いのか、どんどんデビル化が進んでるな。おしぼりで拭いてやるか。


 彼女の顎をくいっとこっち向かせて、口の端を拭いてやってたら、紗英のやつ、目を閉じてキスを待ってるように見えた。

 思わず条件反射でくちびるを重ねる。


 はっ、やばい。一瞬ちょんと触れただけだが、こんな公共の場で。しかも親友の彼女に!

 俺、酔ってる。心臓がバクバクしてきた。

 紗英の目がとろんとしてるが、こいつ、酔っててわかってないのでは。



 今夜も足取りが怪しいな。肩を貸しながら、俺自身も今夜はすごい酔ってる。

 まったく教師がこんなんでどうするよ? めったにこの辺りにいるとは思わないが、万が一生徒に見られたら、しめしがつかないって。


「ほら、鍵、どこ?」

「バッグの奥」

 手探りで探ると、スマホが光ってるのが見えた。新着のメッセージが見えてしまう。亮介からだ。

▷どう? 作戦うまくいった?

 ふぅ、なかよく連絡とってるみたいだな。今は海の向こうか。


 亮介、すまん。俺、紗英にキスしちゃった。本人わかってないと思うから、悪いけどなしにしてくれ。心の中で謝る。


 鍵を開けて、紗英をベッドまで運んでから水を汲んできた。

「優人。もっかい」

 紗英が俺の首に腕を回してきて、キスをねだってくる。

 え? え? だめだって。

「さっきはしてくれたのにぃ?」

「紗英、酔ってるだろ。わかってる? 俺はお前の彼氏の親友なんだよ?」


「優人は、それでいいの?」

「いいも何も、お前らがつき合うって言ってきたんじゃないか。俺のきもちなんて」

「俺のきもちなんて?」

「好き合ってるとこに、割り込めるわけないじゃないか」

「割り込みたいきもちはあるの?」

「三人でいるの楽しかったし、何より壊したくなかった」

「ちゃんと言って?」

「紗英がすきだったよ」

「過去形?」

「紗英がすきだ」


 やったぁー。ひょっこり紗英が飛び上がって、スマホで電話をかけてる。

 は? え?

「亮介、作戦、成功しました! 私のことすきって言わせたよ」

 え、何それ、お前、あーーーーー。バラスなよ、友情壊れるじゃん。いや、男らしく謝らなきゃか。


「代わって」

 一息置いて、俺は電話に出た。

「すまん、亮介。邪魔するつもりじゃなくて、でも気持ちを伝えてしまった」

 電話の向こうで亮介が笑い転げてる。な、なに、時差?

「お前、まだ気づかないの? 俺と紗英がつき合ってるってとこから、嘘なんだけど」

 え、どーゆーことだ。


「優人の気持ちがわかんなくて。だから、亮介と相談して気持ちを引き出す作戦、決行しました。ごめんなさい」

「お前たち、俺で遊んでたんだな」

「ちがうよ。私がすきなのは、優人だったから。だから」


 正直言うと、二人が付き合うって言うまで、俺はこのまま三人でずっといられたら最高だと思っていた。

 すごくいいバランスで、紗英のことを女として見てない訳じゃないんだけど、亮介も大事で、もしこいつが紗英をすきだったら俺が奪っちゃいかんよな、なんて勝手なことも考えてた。

 なのに、二人は遠慮なく、二人でいることを選んだ。

 急に一人になって、うらめしかったよ。俺は二人にとってそんな程度の存在だったんだなって。

 そして同時に、紗英への強い想いに気づいた。


「勇気でなかったの。『お前に恋愛感情なんかねーよ』の一言で終わっちゃう気がして。ごめんなさい、許して」

 彼女が俺のワイシャツの背中に指を這わす。胸に息がかかって生温かい。

 確かにまともに告白されてたら、瞬時に拒否してたような気がする。ほんとよくわかってるな。


 俺は思いきりぎゅっと、紗英を抱きしめた。もごもご文句を言われても構わずに。

 はぁ。俺がどんだけ落ち込んだのか知らないだろ。もうこの世に未練はないって思うくらいだった。比喩だが、それくらいには絶望した。


「一生、許さねえ」

 俺はデビルの口の端を丹念に舐めてから、息ができないくらいに唇を吸った。




 俺の女は、めっぽう酒が強い。


 本物の文章になっちまった。

 

 こんなデレタ姿、とても生徒たちには見せられないな。


 


 

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