第129話 ヒラサカの扉 其ノ陸

 それから私は力の限り走った。


 元来、杖をついているから、走ったことなどなかったのだが……私自身の本能が走って逃げなければいけないということを感じ取っていた。


 手には一応、伊勢崎の手を握っている感触がある。しかし、伊勢崎が今どんな表情をしているかはわからない。振り返る余裕などないからだ。


 少なくとも、異形の軍勢は私達のすぐ後ろにまで迫ってきている……それだけは私にもわかることだった。


 そして、扉を過ぎてからあまり歩いていないことは幸いだった。前方にはうっすらと明るい光が見える。


 私は全速力でその光に向かって走る。そして、そのまま開きっぱなしになっている扉の間を抜けて、最初の場所……不思議な文様が書かれている扉の間に戻ってきた。


「はぁ……はぁ……と、とにかく! 扉を閉めるぞ!」


 私は伊勢崎の方を見る。伊勢崎は完全に放心状態のようで何か呟いている。


「なんで……あれが……そんな……あんな化物……どうしようも……」


「伊勢崎!」


 私は伊勢崎の方を掴む。伊勢崎は私の方を見るが、その視線は未だに焦点が定まっていない。


「若旦那……私は……ただ……お父様の名誉を取り戻そうと……伊勢崎家の復興のために……」


「しっかりしろ! 伊勢崎彩乃!」


 私が叫ぶと、流石に伊勢崎はようやく我に返ったようだった。


「若旦那……そうだ……このままじゃ……」


 そういって、伊勢崎は慌てて扉の方に近づいていく。そして、困り顔で自身消した紋様を見る。


「……駄目だ。僕には……わからない……」


「わからないって……まさか……閉じ方か?」


 最悪の返事をしないでほしいと思ったが、怯えた様子で伊勢崎は小さく頷いた。


 私は大きくため息を付きたかったが、そんなことをしている場合ではない。


 扉の間の闇の向こうからは、異形のものたちのうめき声が聞こえてくる……一刻も早く扉を閉める必要がある。


 こういう時どうする……考えろ。私は古い物には詳しい……こういう時……そうだ。古い家の扉なんかはどうやって開ける……どうやって――


「……閉めるしかない」


 私は最終的な答えにたどり着いた。


 そうだ。答えは簡単。開けた扉は閉めるしかないのだ。たとえどんなに固くて古びている扉でも、力の限りを振り絞って閉めるしかないのだ。


「え?」


「伊勢崎! 例の薬……持っているよな!?」


「薬……人体活性化薬のことか? 一応持っているが……」


「それを全部寄越せ!」


 伊勢崎は困惑していたが、すでに時間はなかった。異形たちの気配は直ぐ側まで迫っている……それこそ、扉のこちら側からでもわかるほどに。


 伊勢崎は懐から小瓶を取り出す。私はそれをひったくると、蓋を開け……それをそのまま口の中に全て放り込んだ。


「お、おい! そ、そんなことしたら、君は……!」


「……これには副作用はないのだろう? 一粒で歩けない人間が歩けるようになるんだ。これだけ飲めば、数十人分……いや、数百人分の力を出せるはずだ。これで扉を閉める……!」


「し、しかし、だからといって命の保証は――」


「黙れ!」


 私は思わず怒鳴ってしまった。伊勢崎は怯えた様子で私のことを見ている。


「……あんな化物共を……外の世界に……佳乃が暮らしている世界に解き放つわけにはいないんだ! そのためならば、私は死んだっていい!」


 それ以上私は伊勢崎の相手はしなかった。そのまま扉に向かって進んでいく。


 そして、左右の手で扉を押す……びくともしない。おそらく何トン、何十トンかはあるであろう石の扉……人間一人の力で動かせるわけがないのだ。


「それでも……ここで諦めるわけには……いかない!」


 私は渾身の力を振り絞って扉を押した。自分の身体がミシミシと悲鳴をあげているのがわかる。


 しかし……それと同時に、扉が少しずつ動き出した。私はそれでも力を込めるのをやめなかった。


「閉まれ……閉まってくれぇぇぇ!」


 そう叫ぶと同時に、私は最後の力を振り絞った。ボキッ、と腕の骨が折れるのがわかったが……扉を押すのはやめなかった。


「う……うぉぉぉぉぉ!」


 そして……扉の隙間は徐々に小さくなっていき……そのまま隙間はなくなった。


「……はぁ……はぁ」


 扉の向こうからは異形達が恨めしそうに扉を叩く音がまだ聞こえてくる……だが、もう扉は閉まった。


 私はその瞬間、全身の力が抜け……その場に崩れ落ちた。


「若旦那!」


 伊勢崎の声が聞こえてくる……しかし、すでに意識が朦朧としてきた。


 脳裏の浮かぶのは……佳乃のあの穏やかでのんびりとした笑顔……


「佳乃……」


 最後にもう一度、ひと目、会いたかった……


「若旦那? 若旦那……おい! 死なないでくれ! 若旦那ぁ!」

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