迷い人 5

 裏切り。

 それは、必ずどこかで思考に入れておかなければならないことだった。月の箱舟があのような甘言を弄している以上、それに乗るものが出てきてもおかしくないからだ。

 人類全体の意思の統一による戦争の抑止、恒久的平和の実現。

 これは永遠のテーマだった。たしかに、地球のシリンの力をもってすればそんなことはたやすいことだろう。しかしなぜアースが今までそれをやってこなかったか。それは、地球のシリンの存在そのものが、自然界の法則を守るものであるからだ。

 自然界の法則、それは形あるものすべては滅びゆく、という真理をもとに構築されたものだ。戦争を起こして滅びるのならばそれもまた自然の法則に基づいて行われたもの。人類は自然を利用しているのではない。自然によって生かされ、自然によって滅ぼされるのだから。文明も自然の一部。人類は自然にあるものから文明を作って、その文明のもとで戦争をしている。だから、戦争も自然の法則にのっとって人類が行っている自傷行為なのだ。それで滅びるのならば人類もそこまでだったというだけのことだ。

 そしていま、その自然のあるべき姿を崩そうとしている者がいる。

 それが、月の箱舟だ。

「伯父さんは、何一つ間違っちゃいない。シリンの身である浩然たちだってそんなことは承知のはずなのに、どうして?」

 輝の部屋で、輝と町子、そしてクチャナの三人は、朝美の淹れてくれたお茶を部屋に持ち込んで話し合いをしていた。アースは容体が安定しないクローディアをずっと診ていた。三人とも、表情が硬い。

「町子、恒久的な平和、それが本当に実現している場所があったとすれば、どうする?」

 クチャナが突然、突拍子もないことを言ってきたので、町子は驚いてティーカップを取り落としそうになった。

「そんなものはないって、今話したばかりじゃないですか!」

 すると、クチャナはうっすらと笑みを浮かべた。

「あるんだよ、それがな」

「恒久的な平和が、実現した場所が?」

 輝も、ティーカップを取り落としそうになった。クチャナは、頷いて、ふと、輝の部屋の窓から、外の風景を見た。

 クチャナの表情はいまだに硬い。

「お前の伯父が若い頃にいた故郷、暁の星。その原住民の文明が、恒久的な平和を維持していた。アースもそのことは承知だろう。暁の星にいて、そのことを知らない者はいない」

「そんな」

 町子は、ゆっくりとティーカップをテーブルの上に置いた。恒久的な平和、もしそれを実現した文明のことを茶樹やコーヒーノキのシリンが知っていたのなら?

「アースは、暁の星のことについて、親しいもの以外に話すことはめったにない。それに、コーヒーノキのシリンや茶樹のシリンが暁の星の原住民のことまで調べ上げたとは考えにくい。考えられるのは、暁の星から盗まれたというジョゼフの文書からの漏洩だ。だが、地球の惑星間渡航者のドロシーはそのようなことをしていないし、向こうの惑星間渡航者も、そのようなことをする人物ではない。残された移動手段であるアースやメティスがやらない以上、ジョゼフの文書が暁の星から持ち出されることはないはずだ。もちろん、アースはそのようなことをするはずがない。それはお前たちも承知のはずだ」

 町子と輝は、強く頷いた。クチャナは続けた。

「惑星間渡航者と両方の惑星のシリン以外に、暁の星にたどり着くことができる、そんな人物がいたとしたら、町子、輝、お前たちはどう思う?」

「どう思うって」

 町子と輝は、困惑した。まさかこんな話題になるとは思ってもみなかったからだ。二人は、顔を見合わせた。答えが思いつかない。

 クチャナは、そんな二人を見て、表情をやわらげた。少なくともこの二人は大丈夫だ。そう思って安心した。

「タイムマシンを作ったものがいる」

 クチャナは、そう言って二人の顔を見た。町子も輝も、まだピンとこないのか、訳が分からない、そう言う表情をしている。

「タイムマシンは理論上、作ることができない。それは、超ひも理論によって予言されている。しかし、その理論を無視して、惑星のシリンの持てる能力を最大限に引き出したうえですべてを曲げてしまえるのなら? 超ひも理論すらゆがめてしまえる大きな力があったのなら?」

 クチャナの問いかけに、町子はハッとした。そして、顎に手を当てて考えながら呟き始めた。

「ワームホールを利用したタイムマシンの場合、遠方への瞬間移動によって現在を未来に変える。もし、それを阻んでいる超ひも理論や相対性理論がゆがめられてしまったら、何でも自由にやりたい放題になってしまう。惑星間渡航者や惑星のシリンは、それを、自然界の法則のもとでやっている。たぶん、ワームホールとは違う方法で。でも、もし惑星のシリンを作るまでもなく、自然界の法則を歪めて、瞬間移動にだけ特化したシリンを作ってしまったら? つまり、惑星間渡航者がもう一人いるってこと?」

 町子が結論まで達すると、クチャナは、笑って町子の肩に手を置いた。

「そういうことだ。私も、その結論に至るまでだいぶかかったけどね。町子、アースがもし許可を出してくれたら、私と一緒に来てほしい場所がある。輝は、ここで劉姉弟を守ってやってほしい。町子に私が伝えたいことはシンプルなことだ。すぐに終わるから待っていてほしい」

 クチャナのその言葉に、町子と輝は強く頷いた。今まですべてをアースに任せてしまっていた分、今回は自分たちが主体となって動かなければならない時だ。そう感じていた。

 町子は、クチャナと一緒にアースのもとへ許可を取りに行くことにした。町子たちが部屋を出て輝一人になると、そこに、誰かがやってきた。シリンの気配がするが知らない感覚だ。

 輝は、警戒した。茶樹はすでに知っているがコーヒーノキと菩提樹は知らない。それに、まだこの世界には出会ったことのないシリンが沢山いる。輝は、ドアの前にはいかずにそのまま、扉の外の人間に尋ねた。

「誰です? ここに用なら他のシリンを通してください」

 すると、扉の前の人間は黙って、再び部屋のドアをノックした。輝は、怖くなってきて、思わず、心の中でアースの名を呼んだ。無意識に最も頼れる存在を呼んだのだが、おそらく彼は町子たちと話し込んでいるだろう。邪魔をしてはいけない。輝の理性がいったんアースへの救助を阻んだ。

 ここは、どんな相手が来ようと自分が出て対処しなければならない。無謀かもしれないが、今の輝に取れる選択肢はそれしかなかった。

 輝は、ドアに近づいてドアをゆっくりと開けた。すると、そこには褐色の肌の黒髪の女性がいた。彼女は張り詰めたような表情をしていたが、すぐに安心したような顔に戻ると、そのままそこにへたり込んでしまった。

「あなたは一体? どうしたんです?」

 女性は、何も言わずに輝の服を掴んで泣き始めた。輝の服を掴む手が震えている。怖い目にでもあったのだろうか。

「アニラ」

 女性は、息を深く吸って吐くと、一言そう言った。

「私はアニラ。助けてください。ラウラに追われているんです」

「ラウラ?」

 聞き返すと、アニラと名乗った女性は喉の奥に何かを飲み込んだように言葉を止めた。

 アニラとは、先程まで話題に上っていた菩提樹のシリンなのではないか? 輝はそれを思い出し、少し警戒した。行方不明だった菩提樹のシリンがなぜここにいるのだろう。

 輝がその態勢のまま戸惑っていると、突然アニラは立ち上がり、輝を押し倒して部屋の中に入った。

「何をするんだ!」

 不意を突かれた輝が訳の分からないまま呆然としていると、アニラはその辺の物の匂いを嗅ぎだした。そして、自分の目当てのものが見つからないとわかると、テーブルの上にあったフォークを握った。

 そして、素早く輝のほうへやってくると、そのフォークを輝のほうへ振り下ろした。輝はとっさに腕を掲げて顔を守った。しかし、そのフォークは輝の腕に刺さることはなかった。誰かが、アニラの腕をつかんだからだ。

「参ったな」

 輝が顔を上げると、アースがそこにいた。アニラの力は強かった。アースの顔が緊張する。

「シリンの特性まで歪めるとは。やるじゃないか」

 アースはその瑠璃色の瞳で、こちらを凝視するアニラをじっと見た。すると、アニラの瞳は次第に色を失っていき、体の力もなくなっていった。アースが手を離すと、アニラはアースの腕の中に倒れこんだ。

「これはどういうことなんです? アニラとかラウラとか、一体?」

 輝が混乱していると、アースは部屋の中にあったベッドにアニラを寝かせた。そして、ひとつ、大きなため息をつくと、こう言った。

「菩提樹は決して裏切ることのないシリン、それが彼女の特徴だった」

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