迷い人 6

 アニラは、菩提樹のシリンだ。菩提樹と言うと、有名なのがブッダ、ゴータマ・シッダールタだ。彼が悟りを開いて『目覚めた人』となったのがこの木の下だと言われている。その信仰をもとに生まれてきたのがアニラだった。いま、インドに仏教は普及していない。なのにインドに生まれた彼女が菩提樹のシリンだというのは皮肉な話だ。ゆえに、インドで生まれたアニラは、南にあるスリランカに移住していた。

 そんなアニラの能力は、真実の守護者だった。何が正しくて何が間違っているのか、それを、瞬時に見分けることができた。だから、決して月の箱舟に転ぶことがない、皆、アニラに対してはそう思っていた。

「地球のシリンが正しいというわけではない。しかし、自然界の真理が地球のシリンとともにこちらにある以上、それに基づいて行動するアニラがこちらを裏切るはずはないんだよ。それを曲げてまで洗脳することができる月の箱舟は、相当恐ろしい相手だ」

 セインが、状況を説明してくれた。アースはあの時ああ言ったが、焦ってはいないのだろうか。アースは、アニラの様子を注視しながらこちらの話を聞いてくれている。

「それで、ラウラとは?」

 輝の問いに、今度はクチャナが答えた。

「私と同じ南アメリカ大陸に住むシリンだ。コーヒーノキのシリンで、勝気な女だ。身体能力も高いから、私たちにとっては厄介な相手になるな」

 みんなは、クチャナがそう言った後、黙ってしまった。今ここにいるのはセイン、クチャナ、輝に町子、そしてシリウスとアースだった。

 みんながそれぞれ考え事をしていると、誰かがドアをノックした。アースが開けてもいいというので、輝が開けに行った。すると、そこには朝美と友子がいた。その手には、心を落ち着かせる効果のあるミックスハーブティーと、マルコの焼いたパンを持っていた。人数分あるので、差し入れに来たのだろう。

「皆さん、思いつめないでね」

 空いているテーブルの上にそれを置いていくと、友子がそっと、町子の肩を叩いていった。友子と朝美がそっと出ていくと、部屋の雰囲気ががらりと変わった。シリウスが大きく深呼吸をして背伸びをする。アースも、少し笑って皆を見ていた。それを見ていたセインとクチャナがため息をついて笑顔を見せると、町子も輝も心に安堵が降り立つのを感じた。

「まあ、どうにかなるさ。アニラの洗脳は解けそうなんだろ?」

 シリウスが、首を回しながらアースに話を振った。アースは、アニラの手を握りながら、その優し気な瑠璃色の瞳でアニラを見た。

「洗脳は深層意識にまで達していない。おそらくは一時的なものだろう。だが、ラウラや浩然が何を考えているのかは分からない。油断はできないな」

 アースは、そのままアニラの様子を見続けた。皆、何かを考えこんでいる。ここは誰がどう動くべきか、分からなかったからだ。

 そこで、町子が動いた。考え込んでいるだけというのも、どうしようもないので、皆の思考を転換させていこうと考えたからだ。

 町子は友子と朝美が持ってきたお茶とお菓子をみんなに配って回った。すると皆はいったん考えるのをやめ、町子に笑顔を向けて背伸びをした。

「まあ、なるようにしかならないか」

 シリウスが、いつもの調子を取り戻した。部屋に、明るさが戻ってきた。アースも、皆のほうを向いて安心した表情を見せた。この状態ならば話もしやすくなる。そう考えて、アースは深呼吸をして皆を見渡した。

「渡航者の件は、これから町子とクチャナに南米まで飛んでいってもらい、解決してもらう。俺は、クローディアの件があった以上、ここから動くことができない。外に出ても危険は増すばかりだ。ここでやれる精一杯のことをやっていくしかない。もし、月の箱舟に攻め入る日が来ても、十分に対応できるようにしておかなければな」

「月の箱舟に攻め入る? 可能なのか?」

 クチャナが手に持っていたティーカップをそっとテーブルの上に置いた。マルコのパンにはまだ手をつけていない。

 アースは答えた。

「可能だ。相手が因果律の中にいる人間と、その創造物である以上は」

 すると、今度は町子がアースに問いかけた。

「でも、隕石が含まれた金属で出来ているゴーレムはどうするの?」

「すでにその中身を知った人間がいるだろう。それにもし、強化されていたとしても、含有物質までは変えられない。破壊することは可能だ」

「破壊、それはおじさんがやるってことですか?」

 輝の問いに、アースは頷いて応えた。

 ここにアースがいて、皆の所にいつも存在する以上、彼の能力に頼るのは必然。それだけの力を持っているのだから。しかし、本当にそれでいいのだろうか。前回、アースがいない状態で皆、ゴーレムに対して苦戦を強いられた。全く歯が立たなかったと言ってもいい。なのに、アースがいるだけでここまで希望的観測ができてしまう。

「おじさん、その、ゴーレムを倒す方法は、おじさんが物質組成への関与をする以外、ないんですか?」

 輝が再び問いかけると、アースは少し嬉しそうに、笑った。

「町子の矛と、アーサーの剣は、ゴーレムの装甲を破る力がある。ひとたびその二つの武器で傷をつけてしまえば、他の人間の攻撃も効くだろう。だが、その方法をとるには、ここに住んでいる全員の戦闘能力を底上げする必要がある」

 そう言われて、輝は嬉しくなった。アースに頼り切ってきた今までの自分たちのやり方を変えられる。彼の負担を少しでも減らすことができる。

「やりましょう、戦闘能力の底上げ」

 輝は、意気込んで皆を見た。一人ひとり見ると、皆違う表情をしている。自分は関係ないと言った顔や、輝と同じく瞳を輝かせている者、苦笑いをしてる者もいた。輝は、そんな皆を見渡して何かを言おうとした。すると、視界の隅で何かが動いた。

 見ると、ベッドから起き上がったアニラが、悔しそうな顔をしてアースに両腕を掴まれていた。アニラは歯ぎしりをしている。

 そんなアニラのみぞおちをアースが打って、再び眠らせた。まだ、洗脳されたままで治療にまで至っていない。今のアニラは危険な存在だった。

 アースは、クローディアをナギに任せてこちらに来ていた。ナギがいるのなら心配はいらないが、それでもナギには対処できないこともある。二人の重症患者を抱えている状態のアースは事実上、この屋敷からは動けない状況にあった。

「仕方ないな」

 シリウスが、笑ってハーブティーを口に運んだ。飲み終わると、ひとつ、ため息をついた。

「俺たちも頑張るか。それとクチャナ、町子、頼んだぞ。暁の星とこの地球、そのつながりを解明してくれ」

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