第5話 二〇〇三年八月――蛹へ


 大桑に電話した。第一次世界大戦の話しを聞くなんて思わなかったと告げると、神妙なようすで昭和恐慌と二度の大戦は我が国の養蚕業にとって重大な危機でしたからとこたえられた。どうやらそらとぼけられたようだった。大桑の大伯父と祖母はおそらく近親者なのであろう。それを問い詰めようと口をひらきかけると、お店の若いお嬢さんから電話がありましたよと大桑が続けた。ぐぐると言っていた舞衣が大桑に教えを乞うたのを知った。

「大変に勉強熱心で感心しました」

 褒められれば素直にうれしいものだ。うちの秘蔵っ子ですものと鼻高々で自慢した。

「それとベテランのパートさんからもお便りいただきました。来月の半期決算セールのちらし見本が入ってました」

 綾子はそれには吹き出して、さすが京子さんと内心手を叩いた。こんなだから敬遠されるのだと言われたらそのとおりだが、御用聞きで表玄関からあがるのが許されたのは呉服屋だけだ。

「一週間たったら繭をとりだしても平気ですよね」

「そうですね。もし産卵させるおつもりならさらに一週間ほどで蛾になります。尿を出すのでご注意を。雌雄を見分けて交尾させたら雌をよけて紙を下にひいて卵を産ませるといいです」

「やっぱり和紙がいいのかしら」

「あればもちろん、そのほうが」

 大桑が、繭から糸を引かないんですかと聞いてきた。でなければ飾り物にするとか、と。綾子もそれは考えた。繭ならディスプレイ品として店に置いても映えるだろう。繭細工で可愛いらしい置物をつくってもいい。たとえ蚕種をとったとしてもそれを育てられるはずもない。桑の木がないのだから。ただ、

「どうしても蛹を殺すにしのびなくて……」

 綾子の言葉に、ああ、と声を出した大桑は電話の向こうでしばらく無言だった。

「大桑さんに蚕種をお渡ししたらお邪魔になる?」

「いや、それは頂戴しますよ。大学の先生のところに持っていきます」

 それには綾子が恐縮した。ところが大桑は威勢よくこたえた。

「いいお蚕さまをお渡ししました。ひとの手がなくても生きられる天蚕と違い、お蚕さまは二代三代と続くと病気がちになって弱りますから、『継代作業』はどうしたって必要なものなので」

 養蚕業自体はかつての勢いを失っていても、それを引き継ごうとするひとびとは後を絶たないのだ。綾子はふと、この男はどうして養蚕教師になったのだろうと考えた。けれどそれを聞いてもこたえるとは思えなかったので口をつぐんだ。祖母の血筋についてはもちろんだ。恐らくこの男と自分にも何らかの血の繋がりがあるのだろう。

 綾子はじぶんの十三歳の夢見式をとりはからってくれた夢使いの顔をすっかり忘れてしまっていた。吉夢を見せてくれたなら腕はよかったに違いない。電話の向こうの男とあの夢使いが似ていたかどうか思い出そうと目を閉じたところで大桑がたずねた。

「二十五日は大丈夫そうですか」

「ええ、月曜日だし、わたしより売上をあげるベテランさんに交代してもらったわ」

 そりゃよかったと大桑は屈託なく笑った。


 その後、義母からの電話は頻繁にあった。仕事中にかけてくるのでないので無碍にも出来ず、繰り言を一時間も二時間も聞くはめになった。じぶんが苛立っている状態に気づかないわけではなかったが、さめざめと泣く声を耳にして無理やり切っては後悔が尾を引くのは目に見えていた。

 夫はどうしているのだろうと考えた。若い女のところにいるのか。それともまだあの家に住んでいるのか。どうであれ、母親を慰めにいってやればいいのに。いや、それが出来るようならこんなことにはならなかっただろう。

 それとも、子どもでもいればそもそもこうではなかったのかもしれない。そう考えると息苦しくなった。夫は結婚してすぐに子どもを望んだが、綾子は仕事が面白くなっていた。そうこうする間に三十歳を越し、生理痛がどんどん重くなった。治療に通うと子宮内膜症だという。妊娠しづらいというのはそのときに知った。生理の痛みが内膜症によるものだとも知らなかった。そのくらい、じぶんの肉体に無知だったのだ。


 いまは離婚について夫と話し合うつもりはなかった。姓を変えてしまっている都合上、面倒くさくもあった。正式に離婚となれば会社にも報告しなければならない。それだけならまだしも、お客様の信頼も失うかもしれないと想像すると胸が苦しくなった。 

 綾子は離婚について考えはじめると、自分はとても弱い人間だと嘆くことしかできなかった。いまどき珍しくもない、たかだか離婚じゃないかと頭では思うくせに、話し合いをするための段取りすらつけられない。仕事では難しいお客様相手に数千万円の反物を販売したこともある。または夜討ち朝駆けの勢いで著名な染色作家を口説き落とし幾つもの業者を巻き込んで新しい商品を企画したこともあったのに、じぶんの暮らしひとつまともに変えることが出来ないのだ。

 ひとりで泣いていても自分の世界は変わらない。誰も、なにも、どうにかはしてくれない。いい年をして、そんなことを考えること自体どうかしている。自分はこんなに甘えた人間だっただろうかと悩ましくなる。

 それなら何故じぶんは夫に電話することが出来ないのだろう。連絡をくれるのを待っているのかと考えて、それは違うと否定した。許してくれと頭をさげられて許せるものではなかった。

 母親がはじめに口にした嘆き声が思い出される。むかしと違って今は自由だと言っても女のひとが独りで生きていくのは大変でしょうに。子どももいなくてさびしくないの。

 

 さびしくはなかった。

 許すこともできなかった。

 だからといって、別れて清々したとまでは思えない。


 新聞紙の筒から取り出した繭は清らかに白く、おおぶりで、とても綺麗なかたちをしていた。綾子はそれを掌においてそっと、そうっと撫でてみた。このなかに、蛹がいる。蛾になってしまったら交尾をするだけで眠ることもせず食べることもない。もちろん、飛ぶことすらないまま一週間で死んでしまう。

 ひとに飼われ、もうどうやっても自然にはかえることのできない生き物が、ひとが愛してやまない美しい絹糸を吐く。

 綾子はその不思議を切なく、いとおしく眺めて涙した。

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