わたしを捨てた人へ

 落ち葉のわたしが、あんなに迎えの車を待っていたのは、おとうさんとおかあさんの元に帰りたかったからだけでは、ありませんでした。


 それに、気がつくのに、わたしは、ずいぶん、時間がかかりました。

 小犬の時のカラスに、

 木の葉の時のナナフシに、

 落ち葉の時の秋風に、

 そして、わたしをセンターに連れてきたカラスに言われて、だんだん、わたしは、気がついていきました。


 わたしは、おとうさんとおかあさんに会ったのなら、どれだけ置き去りにされた小犬のわたしがつらくて悲しくてさみしかったのかを、わかってもらいたかったのです。

 その中には、怒りや恨みも、ありました。

 きっと、わたしが、おとうさんとおかあさんに会うことになったのなら、始めはうれしくてなつかしくても、そのうちにだんだん怒りや恨みが爆発して、わたしはそれで狂ってしまったことでしょう。


 でも、今は、わたしは、怒ったり恨んだりはしていません。

 おとうさんとおかあさんを責め立てる気持ちもありません。

 わたしのおとうさんとおかあさんは身勝手にはちがいないけど、

 人間だって、

 わたしと同じ、

 カラスと同じ、

 子猫と同じ、

 生きているだけなんだと、今のわたしは、思います。


 センターに連れてきてくれたカラスの言った通り、わたしは、ここでたくさんのことを見て、考えました。

 わたしのおとうさんとおかあさんは、知らなかっただけなのです。

 自分たちの生活にかまけて、知ろうとしなかったのです。

 犬にしろ、猫にしろ、動物を飼うということは、その命をあずかること。

 犬や猫の一生をあずかること。

 犬や猫は、人間に比べると、その一生は短いけれど、それでも、十年以上は生きるのです。あるいは二十年生きるかもしれません。

 だから、飼い始める時には、そのことをじゅうぶんに考え、知らなければならないのです。それができずに、ただ可愛いからだけだと、動物も人間も、結局、不幸になってしまいます。


 動物のことだからと軽く考えても、無責任な行動のしわ寄せを被るのは、結局は人間なのです。何度も繰り返すけれど、人間の無責任な行動のツケは、人間が被ることになるのです。


 今、わたしが、おとうさんとおかあさんに会ったのなら、そのことを知ってくださいと言いたいです。


 わたしは、あんなに悲しかったことが、つらかったことが、いつの間にか悲しくなくなって、つらくなくなっていることに気がつきました。

 わたしは、もし、また生まれかわったら、何に生まれ変わるとしても、今度は、目印の木の周りにいたみんなみたいに、いっしょうけんめい、生きていくことができそうな気がしました。

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