宵闇花里

連野純也

宵闇花里

前編

 桜の盛りも過ぎたころ、ときおり強く吹く風が残った花を容赦なく散らしていく。

 少しの間だけ自由に舞った花びらは堀に落ち、さざ波に揺れながら水面を尽くしている。


 ここは吉原、艶やかな色街である。入相いりあいの鐘もとうに鳴り、軒提灯のきぢょうちんに火がともる。

 大門を入って右に左に引手茶屋が並ぶ中、与七よしちはきらびやかな大店おおだなを通り過ぎ、一見いちげんの客は寄らぬような路地裏の、早蕨さわらび屋という小さな店に入った。

 呼び込みをしていた若いが、すっと近寄ってくる。

贔屓ひいきはおりますかい、旦那」

「すまないな。紅皿べにざら欠皿かけざらに逢わせてもらえないか」

 ぴくり、と若い衆の肩が震える。

「失礼は承知ですが、その名はどちらからお聞きなすった」

「相模屋の長次郎は昔からの馴染みでね」

「ああ、どこかで見た顔だと思ったら井崎屋の若旦那。成程成程、少々お待ちを」

 奥に通されると、年増の遣手やりてが与七に頭を下げた。

「本当に二人に逢いたいので? 洒落や酔狂で済むものでも御座いませんが」

「何を言う。本気でなければここには来ないよ。相模屋さんは言っていた、――早蕨さわらびの店は化生けしょうを飼っていると」

「相模屋さんもお口が軽い」

 と遣手の女は大きく息を吐く。

「ならば二つ約定やくじょうをしてくださいまし。一つ、ここで見たことは他言無用にお願いいたします。二つ、お客様の身の保証まではいたしかねます」

「くどいな」と与七は懐から五両を取り出す。

 女がこれは聞く気なしとみて、「……わかりました。辰次。案内してさしあげて」と人を呼ぶ。

「へぇ」

 先程の若い衆が、龕灯がんどうに火をつけると、「こちらへ」と与七を案内する。

 店のものしか使わぬ布団部屋につながる廊下、辰次はどこかを押すと床の一部が持ち上がる。隠し階段であった。

「ずいぶん仰々しいねえ」

「お上に目をつけられてはいけませんので」

 暗く急な階段を下りていくと蔵のそれのような分厚い扉がついていた。擦れて消えかけた、刃物で刻み付けられたような、漢文が――入此门者このもんをくぐるもの当放弃一切希望いっさいのきぼうをすてよ


 くぐった先は、座敷牢――というにはあまりにも豪華すぎた。

 木の格子は漆で塗られていた。中は南蛮渡りの緻密な床敷きが敷き詰められ、上等の絹が窓の無い壁を彩る。

 そして、大店持ちの花魁もかくやの、派手で美しい衣装をまとった女が二人。

 異人の血が入っているのか、目鼻立ちがはっきりした浅黒い顔。髪色のやや茶色がかった、紅皿べにざら。金糸を贅沢に使った鳳凰ほうおう柄の打掛うちかけを引きずるほどに着崩した、太陽がこぼれるような美しさ。

 対して欠皿かけざらの肌はあくまで白く、髪はからすの濡れ羽の如く。王朝復古の格調高い重ねを着、切れ長の目を伏した顔は小町に比すべきか。紅皿が陽ならば欠皿は陰の月、性質の全く異なる美が並び立ち、蝋燭ろうそくの炎にゆうらゆうらと揺れる。

 与七は頭の芯が痺れたような心持であった。かろうじて言葉を吐く。

「――ここに闇を見通すものがいると聞いた」

「易が聞きたきゃあ占いうら屋に行きな」と紅皿が乱暴にいった。

「まあ姉様、そう邪険にしなさんな。久しぶりの客じゃあないかえ。さあ主様、入りなんし。話を聞かせてくりゃんせ」

「き、今日は顔見せのつもりだったのだが」

「異なことを。吉原へ来なんしてただで帰るおつもりかえ」と欠皿が笑う。ここはいわば裏吉原。表のきまりなど気にしないらしい。

 辰次が檻の鍵を開けた。与七は二人の足が鎖で壁に繋がれているのを見た。あれでは火事の際にも逃げられぬ。それほどに執着するか。

 ふらりふらりと与七は牢の中へと入る。

 欠皿が着物を脱ぐ。襦袢じゅばんさえ着けずにいたらしい――闇に白く浮かぶその裸身には驚くことにがなかった。するりと落とした着物と共に転がるのは生き人形の手か。欠皿は妖しく笑う、蛇の化身と見違うほどに。

「成程、いておりなんすねえ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る