💘01 過保護な出会い
それは半月前のこと。
月のない夜空の下を、コンビニ帰りにぶらぶらと歩いている時だった。
ばさり、と大きな翼の羽ばたく音に驚いて見上げると、あたしの目の前に闇夜の
それが、翼の生えた人の形だと認識するまでに三秒。
息を飲むほどに美しい微笑みをたたえてこちらを眼差していることに気づくまで、さらに三秒ほどかかったかと思う。
大学からの帰り道。お酒を飲んだわけでもないし、寝ぼけるような深夜でもない。
ならば、この世のものとは思えない存在と対峙しているこの状況を誰がどう説明できただろう。
『あなたが藤ヶ谷ちえり、ですね?』
黒い燕尾服の背中に艶やかな黒い翼を折りたたんだ異形のものが、伸びやかなテノールボイスで、澱みのない日本語で話しかけてくる。
「はあ」
状況のまったく飲み込めないあたしは、あんぐりと口を開けたまま、なんとなく肯定の意に取れる声を出した。
『私の名は堕天使リュカ。今宵、この刹那より、あなたを守護しあなたに幸福をもたらすことで主に背きし我が罪を
街灯の下、周囲の闇に溶け込む黒い髪と黒い翼、黒い服。
それらと対照的に陶器のように白く滑らかな肌をした顔は、ちらちらと揺れる蛍光灯の光の下でその美しさを惜しげもなく晒していた。
森を水面に映す深い湖の色をした瞳が細められ、淡い桜色の唇は親愛を表すかのように弧を描く。
胸に手をあて
「えっと……。言ってる意味がよくわからないんで、すみません」
いくら超絶的な美形でも、変質者ならばスルーに限る。
愛想笑いを顔に貼り付けて、できるだけ相手を刺激しないようにと通り過ぎたのだけれど、その変質者は足音も立てずにあたしのすぐ後ろをぴったりとついてくる。
コンビニに避難したくても、踵を返した瞬間に向かい合うのは怖すぎる。
あたしは激しく打ちつける鼓動を早足の靴音でごまかしながら、震える手でバッグをまさぐり携帯を取り出した。
「あ、もしもし! 不審者に後をつけられてるんですけど……。
……はい。身長は180センチくらい、痩せ型で、欧米人風の二十代半ばくらいの男です」
警察に通報している最中でも、後ろから感じる気配が離れていくことはない。
程なくして、近づいてきたバイクのライトが正面で止まったかと思うと、警察官のおじさんが走り寄ってきた。
頼もしい制服姿を見た途端、全身から汗と安堵がどっと吹き出した。
「110番したの、あなた?」
「はいっ! すぐ後ろの黒づくめの人が突然現れて後をつけてきて……」
「すぐ後ろ? 誰もいないようだけど」
「えっ!? そんなはずは……」
バッと後ろを振り向くと、胸がぶつかりそうなほどの至近距離に黒づくめの男がにこにこと立っている。
「きゃあっ! ほら! この人! この人ですって!」
「この人って、どの人よ? 一本道だし、隠れている人影もなさそうだけど」
まさか、警察官のおじさんには見えていない──!?
「お酒飲んだ帰りなのかな? 一応この辺見回ってから戻るけど、幻覚見るほど飲んじゃあダメだよ!」
あからさまに迷惑そうな表情を向けて、警察官は再びバイクに乗り込むとブルルンとあっさり去ってしまった。
『僕の姿はちえりにしか見えないようになっています。僕の贖罪はあなたを幸せにすることで成し得るのですから、あなたに危害を加えることは一切ありません。なのでご安心を』
はっきりと聞こえるテノールボイス。
はっきりと見える美しい姿。
これが幻覚、幻聴だとしたら、あたしの頭はどうかしちゃったの!?
それともこれは夢の中!?
「い……いやぁーーーーっっ!!」
幻覚を振り払おうと、お腹の底から声を絞り出し、パンプスが脱げそうになるくらい全力で走ってアパートに駆け込んだ。
👼
「はぁ……。なんだったんだろ。さっきの」
部屋の明かりをつけ、息を切らしたままベッドに倒れ込む。
「いたっ!」
お腹に硬い突起が当たり体を起こすと、昨日つけていたベルトがベッドの上で蛇の抜け殻のようにだらしなく伸びていた。
合わせて履いていたプリーツスカートはヘッドレストの方にくしゃくしゃに押しやられ、繊細なひだがくたびれて張りを失っている。
あー、めんどくさ。
私はベッドに無造作に脱ぎ捨てられていたベルトとスカート、それから一昨日履いたデニムパンツと部屋着のジャージを床に薙ぎ払うと、外出着のまま寝転がって目を閉じた。
これは悪い夢に違いない。
目が覚めたら、この感覚が現実のものじゃなかったって思えるはず。
今日はこのまま寝てしま──
『うわぁ! これが汚部屋ってやつですか……! 新聞記事で読んで知ってはいましたが、実際に見たのは初めてです』
耳に飛び込んできたテノールボイスにぎょっとして飛び起きると、あの黒づくめの自称堕天使がカーペットの上に散乱する雑誌や服の上から数センチ浮いて立っている。
「い……いやぁーーーーっっ!!」
再び絶叫しながらスマホを探すけれど、帰宅するまで握りしめていたはずなのに見つからない!
「いやぁーっ! いやぁーっ!」
叫びながら床やテーブルに散乱するものをどけながら、スマホを必死で探していると、自称堕天使が呆れたような声を出した。
『携帯を探してるんですか? そんな風に散らかったものを別の場所に移動するだけではますます埋もれてしまいますよ。とりあえず散らばった物を元の場所に戻していかないと』
そう言いながら、あたしの脱ぎ捨てた何着もの服を拾い上げ、洗濯できる物とできない物へと手際よく分けていく。
ハンガーへ掛けておくべきものは形を整えてきっちりとクローゼットへしまい、アイロンが必要なものは畳んで部屋の隅へ積み上げる。
『ちえり。ファブ〇ーズはありますか?』
「ふぁ? ……え、あっ、どっかに転がってるとは思うんだけど……」
『あ、ありました!テーブルの下に!服が片付くと少しは物が見えてきますね。ちえりはここにまとめた雑誌を捨てるものと取っておくものに分けてください』
「あ、はい……」
あまりにテキパキと指示を出されたものだから、思わず彼の声に従ってしまった。
二人で黙々と片付けること小一時間。
気がつくと、足の踏み場のなかった汚部屋が掃除機をかけられるほどにまで片付いていた。
『ああ~。部屋が綺麗になると心まで浄化されるようですね!
そう言えばちえりは夕食を食べていないんじゃないですか? お腹空いてませんか?』
「そう言えば……空いてる、かも」
『さっきはコンビニで何を買ってきたんですか?』
「〇トウのご飯と納豆だけど」
『今日はもうスーパーに行くような時間でもないですし、仕方ない、それで夕食をすませましょう。冷蔵庫に何か入ってますか? 開けますね。……あー、この卵、賞味期限切れてるじゃないですか! 生で食べるのは心配ですから目玉焼きにでもしましょう』
すっきりと片付いた部屋のベッドに呆然と座るうちに、黒い翼の生えた黒づくめの人は大学入学時に揃えたきり一度も使ったことのないフライパンを使って廊下のキッキンで調理を始めた。
『そう言えば冷蔵庫の中、すっからかんですね。明日からは僕がもっとちゃんとしたご飯を作りますから、明日の帰りはスーパーに買い物に寄りましょうね?』
テーブルの上に置かれたつやつやの目玉焼き、レンチンされたほかほかご飯に納豆、一度も使ったことのない急須で入れたお茶。
それが手際よくテーブルの上に並べられた時には、もはやこれが幻覚だとか夢だとか、判断をつけることすらどうでもよくなっていた。
結局ベッドの下から見つかった携帯もテーブルの隅に置かれてはいるけれど、警察に通報しても無駄に違いないし、それももはやめんどくさい。
幻覚でも夢でも、たとえ現実でももういいや。
そんなこんなで、過保護な堕天使とズボラな私の奇妙な共同生活が有耶無耶のうちに始まったのだった。
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