短篇集)虹を見たから
早藤 祐
虹を見たから
2016年8月 呉
呉の峠道、春海の実家にほど近いバス停。ここは道路から張り出した小さなバス停留所があって夜は涼みながら眼下の光景を楽しめる絶好のポイントにもなっていた。そこには浴衣姿の母子三人が月明かりの中で長椅子に座って夜景を楽しんでいた。
ふと長女で高校1年生のミフユが母親の春海に以前少し聞いた話について気になっていた事を切り出した。
「お母さん、何故お父さんと結婚したの。この場所がどうとか言ってたっけ」
次女のミアキもまだ小学生のくせに
「それ、私も知りたい」
と天真爛漫に言い出して母親の方を見た。
「そんな事を知ってどうするの?……ま、いいわ。虹を二人で見たから。そしてその時に行った喫茶店とこの場所のおかげかな」
団扇で娘達に風を送りながら春海は20年ほど前の事を思い出していた。
1998年4月
3回生になった俺は火曜日昼から自分で選んだ選択科目の先週1回目の講義を受けたがあまり期待できない内容だったので2回目からの受講を放棄した。その後のマスに必修科目が入っていたので時間が空いてしまう。すると今年度から講師が変わった日本近現代史の講義が面白いという噂が聞こえてきた。卒論でやりたいと思っている米国史とも接点があるので一度モグリ受講してみる事にした。
今年から来られた非常勤講師の講義のせいか割り当てられた教室はあまり広くはない。それでも50人教室の2/3程度が埋まっていて前の方からちゃんと詰まっていたので後ろの方へ陣取った。
ほどなく講師が入ってきた。少し長めの髪でクリーム色のブラウスに黒のパンツルック、すらりとした清楚な感じの人だった。
講義内容は明治〜大正期の出来事がどう昭和に入って影響を与えたのか分析したもので興味深く話を聞いた。
その日の講義が終わるとカリキュラムで講師の名前を確認した。図書館に行くとその名前「
こうしてまた来週もモグリ受講しようと決めた。
1998年5月 春海
連休明け。まだ梅雨入りには早い時期の水曜日。昼過ぎからの1回生向けの講義を終えた春海は帰ろうと大学を出た。雨が降り始めていた。傘を差して駅へ向かった。
途中の交差点が赤信号に変わった。周りを見ると手前の角あったシャッターが閉まっている商店の軒下で雨宿り出来そうだったので入った。空を見上げると低い空をグレーの濃淡の雨雲が早く流れていた。案外早く止みそうだ。
そこに少し年下、30歳前後の青いワイシャツにチノパン姿の男性が傘を畳みながら軒下に入って来た。空を見上げる彼。ふと私に目が合うと会釈してきたので頭を軽く下げて信号の方に視線を向けた。
信号が青になった。傘を再び開いて外に出ようとした時に一緒に雨宿りしていた彼に声を掛けられた。
「先生、もう雨は止みましたよ。虹がとてもきれいです。こんなの初めて見たなあ」
私は傘を開こうとした動きを止めて空を見上げた。ちょうど雨が止んで雲間から太陽が出てきて大きな虹が広がっていた。思わず彼と一緒に見入ってしまった。
「虹か。こんなに円弧が見事な虹を見たのはいつ以来かしら。とってもきれい」
しばらくして彼が私に会釈して立ち去ろうとした。私は思わず呼び止めた。
「待って」
そして私はじっと彼の顔を見た。どうも見た記憶がある。どこで?
「えーと。君……思い出した。私の講義で一度質問してくれてるよね。時間があるなら、向こう側にあるあの喫茶店に行かない?用事があるなら仕方ないけど。ちょっと話を聞きたいのよね」
彼も驚きながら応じた。
「いや、今日はもう用事はないので。折角のお誘いですから先生に付き合いますよ」
私と彼は次の青信号のタイミングで交差点の向こう側にあった喫茶店へと向かった。春海がドアを押して開けるとカウベルが2度ほど鳴った。カウンターに7席、4人掛けのテーブルが3つほどある小さなお店。薄くジャズが店内に流れていた。
「いらっしゃい。席はどちらでもどうぞ」
店内にいたのは初老のマスター一人だけだった。夕方近く突如の夕立のせいか店内に他の客はいなかった。二人は一番奥のテーブル席につくとマスターがグラスとおしぼりをテーブルに置いた。
私達はマスターにアイスコーヒーを2つ頼んだ。
「あらためまして一条守雄といいます。西洋史学専攻の三回生でアメリカ史を勉強してます」
「私の名前は知ってるって事ね。あなた、私の講義のモグリ受講しているよね?質問してきた際に名前が分かったから一度あの講義の登録名簿はチェックしたのよ。そうしたら、あなたの名前がなかったのよね」
苦笑する守雄くん。バレてないつもりだったらしい。この大学の出欠は端末が回ってきて学生証を通して行う。潜り受講だと通したふりをして次に回せばいいだけだった。
「はい。同じ時間帯の選択科目があまり面白くない内容だったので次の時間までどうしようかなと思っていたら先生の講義の評判を聞いてつい潜り込んでしまいました。申し訳ありません。古城先生」
彼は頭を下げて謝ってきた。
「別に私の薄給がそれで減ったりしないから気にしないで。質問自体は話を良い方に転がしてくれて助かったし」
「じゃあ、また潜り込んでも良いですね、古城先生」
私は怒ったふりをした。
「そんな事を私に聞くな、っていうか言わないで」
エッとなって謝りそうになった守雄くん。私はニヤリとして声を潜めていった。
「……そういう事は私に黙ってやってよ。私、今の話を聞いてないから教務課に不良学生が勝手に受講してますとかなんとか言ったりはしません」
エヘンと偉そうにしてみせた。
「あ、そういう事ですか。じゃあまた勝手にまた潜り込みますけど、これは独り言なので気にしないで」
小声でさも大事な秘密のように語る守雄くん。私達の笑い声が響きマスターが目を細めながらアイスコーヒーを淹れていた。
マスターが静かにアイスコーヒーの真空マグを私達の前に置いた。
「ごゆっくり」
そういうと静かにカウンターの向こうへと戻っていった。
私はマグカップを手にしてストローからアイスコーヒーを飲んだ。
「一条くんはもともと何をしていた人?年齢は私とそう違わないよね?」
「お察しの通り一度高卒で就職してました。何やかんやで10年ほど勤務して辞めて大学に入ったんです」
「珍しいね。それもアメリカ史専攻って」
「駐在で1年ほど向こうの西海岸にいたんですよ。その時、現代アメリカ文化は過去の影響、歴史の影響が強いなと思って、その事を調べたくなって96年ここの大学に入りました」
「古城先生こそ、日本近現代史は高校とか中々辿り着かない分野を何故?」
「うん。私の実家は呉にあるのよね。で、お祖母ちゃんは広島市の出身だし、母は呉で生まれ育った人。広島は原爆が落ちたし、呉も度々空襲を受けている。父は神戸出身だけど戦後の紆余曲折で呉で就職した。何故そうなったのか、それが知りたくて図書館で調べるようになって史学科に入って修士、博士号と論文を書いていたら一生の仕事になっちゃったという感じかな」
「古城先生は1965年生まれですよね」
「そう。昭和40年生まれだけど」
「俺は昭和42年なので先生の方が2歳上……アイタタタ」
「あまり女性の前でそういう年齢の話はしない方が良いよ。守雄くん」
私は守雄くんの頬を軽くつねった後で笑った。
「守雄くんは水曜日はいつもこんな時間なの?」
「水曜日だけ最後のマスが上手くはまらなかったので。あとはみっちり入れてます」
「ふーん。守雄くんというより真面目くんなんだ」
「いや、いや、そういう渾名は勘弁して下さい。先生。でも先生は水曜日って何か講義持ってるのですか?てっきり火曜日だけだと思ってましたけど」
「1コマ、1回生向けの西洋史学概要を持っていてね。ここの学校は火曜日は2コマあるから効率良いんだけど、水曜日はこれだけなのよね。で帰ろうとして虹を見てモグリ受講の学生さんにも会えたって訳」
1時間以上話し込んだ二人はきれいな夕焼けの中を駅へと向かった。そして駅で二人は「じゃあ、また次の講義で会いましょう。」といって別れた。
翌週の火曜日。教室に入った私は守雄くんを目敏く見つけた。来てるな。うん。どこか高揚する気分で講義に入った。
「今日は明治憲法が政治に与えた影響を論じてみます。……」
翌日の水曜日。西洋史学概要の講義を終えた私はあの交差点の喫茶店に近付くと足が何故か速くなった。そして喫茶店のカウベルを再び鳴らしたがマスターしかいなかった。何故か知らないけど来ていると思ったのに。そう期待していただけだったのかな、私。
するとマスターが微笑みながら不思議な事を言った。
「いらっしゃい、お二人さん。先週の席も空いているけど、どこでもご自由にどうぞ」
後ろから「春海先生」と弾んだ声で呼びかけられた。守雄くんだった。
私は笑顔になりそうだったのを隠して「偶然ね」と言った。
わざと真面目そうな顔をした守雄くんも「そうですね。偶然です」と返した。
二人で大笑いすると先週と同じ奥の席に陣取った。
この水曜日からどちらがと言う事もなくこの喫茶店で相手を偶然の体を装って待つようになった。講義の内容について守雄くんが感想を言ったり、私が米国での生活と歴史の絡み合いについて守雄くんに質問したりした。楽しい一時だった。
1998年6月 春海
私はストローでアイスコーヒーをかき回した。
「前期の講義が終わっちゃうわね」
「先生がたの夏休みの間の仕事ってどんな感じなんですか」
「そうねえ。受け持っている科目のテストの採点と成績提出でしょ。アウトリーチ活動とか会議とか片付けつつ集めてきた資料をつつき回して論文書いたり、史料を探しに行ったり、卒論の指導をしたり。そんな感じね。お盆には呉の実家に帰るけど。総じてビジネスマンの人達と大差はないわ」
「そんなものですか」
「そんなものよ。学生と違って別に研究が休みになる訳じゃないから」
私はコーヒーをストローで一口飲んだ。
「守雄くんはどうするの?」
「夏休みはアルバイト。貯金でやりくりはしてますけど、まあ、お金はあって困りませんから」
「後期の講義が始まるまでしばらく会えそうにないね」
「そうなりますか」
「じゃあ、」
私は守雄くんに連絡先を伝えようとした。
守雄くんが何かに気付くと、さっとバッグとグラスを持って席を離れてカウンターに座わり変えた。
「えっ?」
私は何事かと驚いた。
するとカウベルが鳴って、珍しくお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ。」というマスターの声が聞こえる。
「学校への途中にこんな洒落たカフェがあるとはねえ。暑すぎるよ、一休みしてから学校へ戻ろうや。ん、古城さん?」
守雄くんの大学の史学科の教授二人だった。私は慌てて調子を合わせた。
「あら、先生方。暑いですよね。こちらの仕事が終わったので帰る途中、涼んでました。」
三人で話している間に守雄くんはマスターに代金を支払って店を出ていった。カウベルが寂しく音を奏でた。
1998年7月 春海
あの日を境に私は守雄くんと会う事がなくなった。何かの意思が働いて嫌がらせをされているみたいだった。
守雄くんが席を立ったのは私の事を慮っての行動だった事は分かっている。非常勤講師とは言え、相手が社会人入学とは言え、学生の立場の人と親しげにしていれば面倒な事を言う人が出てくる可能性は残る。守雄くんはあの瞬間、咄嗟にそう判断したのだろう。
自分が受け持っている科目の前期の試験問題を大学の学科事務室に渡しに行った際に史学科の校舎や図書館で出会えそうな所を回ってみた。一目でも会えれば連絡先ぐらい渡そうと思っていたが、そうそう上手く行かなかった。
そうしているうちに前期試験週間も終わった。
1998年7月 守雄
7月末の水曜日の午後。俺はバイトを休んで学校がないのに喫茶店に行った。扉は鍵が掛かっていて、マスターが倒れたとかで当分閉店するとの貼り紙が出ていた。9月から大学が再開した時、この喫茶店でまた逢えるのだろうか。あの日、まさか学校の教授連がやってくるとは思わなかった。そしてその後で春海先生を探したが大学で彼女の姿を見つける事は出来なかった。
店内で電話が鳴っていたがしばらくして止んだ。俺は諦めて帰った。
1998年7月 春海
7月末の水曜日の午後。私は常勤先の大学の方で会議があって行く事が出来なかった。ひょっとしたら守雄くんが喫茶店に行っているかも知れない。思い切って番号案内で喫茶店の電話番号を調べて掛けてみたが、呼び出し音が鳴るばかりで誰も出なかった。
「古城先生、そろそろ会議室に行かないと。」
開け放ってある講師室のドアをノックして隣の部屋の先生が声がけしてくれた。
諦めて受話器を降ろした。
「ありがとうございます。すぐ行きますから。」
1998年8月 守雄
お盆。俺は会社時代の同期からの誘いで呉へ旅をした。父親を早くに亡くし高校生の時に母親も亡くなっていて天涯孤独の身だったので帰省とか関係はなかった。その同期は今、呉事業所の勤務になっていた。会社を辞めてからもお盆の前後に勤務地に遊びに来いよと誘ってくれていた。
呉に着いた日の夜。ホテルにチェックインすると早々に出た。同期と会うのは翌日夜だったので近くの中華屋で軽く食べた後、繁華街の方へ出て一人で少し飲もうかと思って歩いていた。
アーケード街を歩く浴衣姿の女性たち。一次会を終えてお店を出たところだったが、その中で一人だけ目が据わっていた。酒に強いはずの人なのに絡み酒。一緒にいた人達はどうやって彼女を先に帰らせたればいいのかと頭を抱えていた。
すると彼女の眼が何かを見つけた。一瞬にして曇っていた表情が晴れやかになり、そして怒りの表情に変わり、更に笑顔になって少しフラフラながらも駆け出した。彼女の友達が声を上げた。
「ちょっと、春海、どこ行くの?」
俺は何か聞いた名前が聞こえた気がした。
すると突然、浴衣姿の女性が駆け寄ってきて後ろから不意打ちでまるで体当たりのように抱きついてきた。俺は振り向いてそれが誰だか知った。
「守雄くん、守雄くんだ。君、なんでここにいるの?」
「えーと、春海先生こそどうして?あと酔ってますか?」
「思いっきり酔ってまーす」
と最後の問いにだけグダグダに答える春海先生。そして崩れ落ちた。慌てて受け止めた。
「春海先生、大丈夫?」
「大丈夫、私は酒に強いんだから」
正直、今、この状況で春海先生のその言葉を信じろと言われてもなあ、そう俺は独りごちた。
春海さんは結婚だの子どもだの嫁姑紛争だの。友人たちからはそんな話ばかり聞かされて、すこぶる機嫌が悪かった。そのせいで生ビールのピッチが速かった。友人たちはそんな春海さんを止められず(下手に声を掛けると返り討ちにすると言わんばかりに飲ませた)結果として飲み過ぎたらしい。
春海さんの友人達の中から「なんだ、春海にもいい人がいるんじゃない。良かったあ」との声が聞こえてきた。
挙げ句に「きっと彼が春海を迎えに来たんだよ。もう春海、私たちの前で見せつけちゃって」とも言っているような。それは思いっきり誤解なんだけど。俺は頭を抱えた。そうしているうちに彼女らは俺に
「春海ちゃんの事,諸々よろしくお願いします」
と言って友人たちは「二次会に行こう!」と通りの人混みの中に消えていった。ひどい。
こうしてアーケード街のど真ん中で俺は春海さんと二人きりにされた。春海さんを肩に担いでなんとか東の広い通りまで引きずって行くとタクシーを捕まえた。とりあえず春海さんを後席奥に押し込む。
「春海先生、運転手さんに実家の住所言って、住所」
「ん。住所?実家の住所はねえ。灰ケ峰の県道上がっていったところの峠の手前のバス停。行けばその時言うわ」
眠ってしまう春海さん。運転手が酔っ払いを一人は困るよと言うし一人で帰すには心配だしと仕方ないので一緒に乗った。
「運転手さん、この人の言っている県道って分かりますか?」
「峠道の県道のバス停なら分かるよ」
「じゃあ、そちらへお願いします。あと途中コンビニがあったら寄りたいので」
「いいよ。あとこれいざとなったら使って」
と運転手から飛行機によくあるビニールで内張されている紙袋を渡された。いるような事態にならなきゃいいんだが。
途中見かけたコンビニで止めてもらうと水のペットボトルを2本買って1本は車内で春海に飲ませた。
「さあ、春海先生、飲んで」
「え、ビール?なんだ、水じゃないの」と言いつつもあっという間に1本空けるとまた眠りこけた。
こうして峠道の中腹の春海さんの実家の近くに辿り着いた。タクシーは奇跡的に起きた春海さんがバス停の前で止めてもらった。ハザードランプを点灯させてタクシーは停車した。
「ここ、結構交通量あるからあまり止まってられないんだ。まず料金を。あとこのお姉さんをそこの長椅子に降ろして、さあ」
と追い立てられた。料金を払い春海さんを長椅子に座らせるとタクシーは先の路地に車を突っ込んでUターンして県道を走り去って行った。
春海さんの家の人を呼びに行った。玄関のブザーを鳴らした。
「はい、はい。」
と声が聞こえて春海さんの母親らしき人が出てきたので頭を下げた。
「夜分、すいません。一条と言います。お嬢さんの春海さんが酔い潰れて。バス停のところまでタクシーで連れて来たので来て貰えますか」
「あの子が酔い潰れるとはなんとまあ。今から行くけ」
「じゃあ、俺は先に行ってますから」
先にバス停の春海の元へ駆け戻った。
春海さんはバス停の長椅子に腰掛けてもう1本の水のペットボトルを片手に月夜を眺めていた。水を飲んで車中で寝た事で少し酔いが覚めたらしい。
呉の町並みの灯り、月夜に浮かび上がる物憂げな春海さん。美しい光景の中に佇む彼女に心を奪われている事を自覚した。春海さんはこちらに気付いて溜息をつくと謝った。
「一条くん、ごめんね。醜態さらしちゃってさ。ちょっと呑まれちゃったな」
いや、そこはちょっとじゃないだろうと心の中ではつっこんだ。
「いや、気にしないで。どうせ今晩は暇だったし。というかまさか呉で会えるとは思わなかった。」
気のせいかここで春海さんの目の色が少し変わった。
え、なんで?怒りの色?あんなに苦労して介抱したのに。
「そうね。でも喫茶店で私の実家が呉にあるって言ったよね?」
「はい?」
春海さんが何を言わんとしているのか世界は知らんと欲す。
「私がこの時期に帰省する事ぐらいは想像できなかった?私、あの後、ずっとあなたの事を探してたのに」
「いや、俺だって探してましたよ。喫茶店に行っても閉まっていて。呉ならひょっとしてぐらいは思ったけど、まさか、あんな風に街の中で出会えるとは思ってなかった」
「この街は狭いから。同じ町にいるのなら、あの人に出会いたいと念じていたら出会える街なのよ。船乗りだったくせに知らなかったの?」
春海さんに変な断定をされて苦笑。そして春海さんの眼が長椅子の隣に座れと言っているような気がしたので、そっと横に座った。
「もうじれったいわね」
春海さんに視界が塞がれた。しばらくして春海さんが顔を離すと言った。
「ねえ。私は守雄くんが好きよ。君はどうなの?」
「俺も先生の事は好きですよ」
そういうとこちらが春海さんの視界をふさいだ。
顔を離すと春海さんは心からの安堵の表情になった。そして真顔の体裁で言った。
「よし。なら許す。あと今後二人の時は絶対に先生って言うな」
「はい。春海せ……イテテテテ。じゃあ、今後は春海さんで」
「それでよろしい」
チセ
その頃にはチセがおっとり刀で家から出てきていた。二人の一部始終を見てしまった上でわざとらしい咳をした。
どうやら一部始終を見られたと気付き赤面する二人。
「二人とももう遅いから家に入りんさい。一条さん、これからタクシー呼んでもあれじゃけ、今日は泊って行きんさい」
チセは月を見上げていった。
「春海にもいい人出来たんだねえ。勉強だけかと思っていたけど安心したけ。でもいきなり親に見せつけなくても」
とぼやきながら先に家の戻っていった。
顔を見合わせて苦笑する二人。
守雄
翌朝、チセさんと春海さんの手料理による朝食をご馳走になった上で春海産と二人で町へと降りた。夜に俺が同期と会うまで町を案内すると春海さんが主張して一緒に過ごす事になった。歴史研究者らしく町並みから戦前からある建築物などに詳しい(高校生時代にそういう事を根掘り葉掘り調べていたのよと言われた)。
そして夕方近くになって呉市美術館近くの旧呉鎮守府司令長官公邸を通って病院へと向かった。
「ちょっと父さんに声かけたいから」
そういう春海さんについていくとある病室へ入った。検査入院中の千裕さんは本を読んでいた。
「ああ、春海か。誰か一緒に来たのかい」
「うん。一条守雄くん。向こうで偶然知り合った人で昨夜街中で偶然会ったので今日は案内しているの」
と紹介されたので頭を下げた。
「一条守雄と申します。春海さんには色々とお世話になっています」
眼鏡を光らせた千裕。
「父の千裕です。娘こそお世話になっているようで」
と返された。そして春海さんに
「お前の話はやけに『偶然』が多いのお」
と容赦なく突っ込んだ上で微笑んだ。そして守雄には
「こんな不束な娘ですが仲良くしてやって下さい」
と言って頭を下げたのだった。
2016年8月 呉 春海
「ねえ、その喫茶店って今もあるの?」
「あるよ。マスターは今もお元気だし。年1回ぐらいだけど、お父さんとたまに待ち合わせてるから。何故かアイスコーヒー,美味しいのよね」
お母さんたちが行っているのは十中八九、5月連休明けじゃないかなとミフユは予想した。お母さんのコーヒーは下手なカフェより美味いけど、このお店がどの程度かはまた別問題かも知れない。味は何も水や豆、淹れ方だけで決まるわけじゃない。
「ところでお母さん、酔っ払ってお父さんに連れて帰ってきてもらってその場の勢いで告白なの?よくお父さんOKしたね」
とはミアキ。恋愛の事なんて知らない小学生のくせに親のなれそめに冷静な要約。
「流石は年の功。」
とミフユ。すかさず私はミフユの頬をつねった。
「イテテテテ」
「ミフユは人の歳を言わないの。そんなところお父さんに似てどうするの」
そして私は微笑みながら二人に言った。
「人の出会いなんて偶然のなせる技なんだと思うけど、それでも何か引力を持った関係ってあるのよ。二人ともそういう良い人を見つけたら機会を逃さない事。次の機会なんてないかも知れないんだから」
『はーい』
高校生と小学生の姉妹はハモって答えた。
そう、もし守雄くんが私の講義を選択科目として取っていたら、こんな関係になる事は考えもしなかっただろう。守雄くんのモグリ受講から始まる偶然の積み重ねがあって私達とこの子達がいる。
家の方から守雄くんの声が聞こえた。
「みんな、スイカ切ろうと思うけど、食べるか?」
「それもいいけど、缶ビールも持ってきて。私たち二人は飲みましょ」
「じゃあミフユとミアキにはスイカ持って行く。春海さんと俺はビールにしようか」
私達三人は声を揃えて返事した。
『はーい』
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