第二羽 色欲のアスモデウス

2-1

 不安とは裏腹に日曜を何事もなく過ごし、明けた月曜日。

 春の陽気に眠気を誘われながらも、湊は校門をくぐった。校舎へ続く道の脇には、新入生を歓迎するようにまだ桜が大手を広げている。

 私立黒楼学園。

 周囲を森に囲まれた、生徒数およそ八百人を有する全日制の学校だ。家から近いという理由だけで、姉弟ともに選択した。

 不規則な人の波に乗りながら、湊はあくびを噛み殺す。朝も早くからみっともない顔を誰かに見られたくはない。

 それというのも、登校途中の通学路でさんざんそのことを注意されたからだ。


『またあくびしてるの?』

「うるさいな、少し黙っててくれ」


 思わず湊は口を塞ぐ。

 そうだった、今は他人の目に触れる外なんだった。ましてやルシファーは霊体化していて、契約者である自分以外には目視できない。傍から見たら、独り言を喋っているように思うだろう。


『何度も言ったでしょ。私の主人になったのだから、みっともない顔を外で晒すんじゃないって』


 そんなこと言ったって……。湊は不満を込めて堕天使をジト目で睨む。

 彼女はまるで借りてきた猫のように大人しく、肩口で浮遊していた。


『なによ、その目は?』


 反抗的な目付きを咎めるように、少女は少しムッとする。

 なぜ家ではじっとしていられないのだろう。家中羽根まみれにされてそれの後片付けに追われ、貴重な休みを無駄にした。

 結局この二日でゴミ袋が四袋も増えた。勝手に焼却炉で燃やすのも、環境への配慮からもう出来ない。次の可燃ゴミの収集日まで袋をキープしておかなければならないのだ。

 しかもなぜか彼女は棺で眠らず、湊の布団の上で安らぐ。寝返りを打つたびに羽根が舞い散り、呼吸するたびにそれが鼻を塞ぐ。むず痒くて夜も落ち着いて寝られやしない。おかげで寝不足だ。それらが悩みの種だった。

 肩口を浮遊する、無自覚な堕天使様の耳元へ口をそっと近づけ、


「お前さ、家の中で羽ばたくのやめてくれない?」


 出来うる限りの小声で注意を促した。が――


『やん、くすぐったいわね。って何するのよ!』

「いてっ」


 聞く耳を持たれるどころか、耳たぶを抓られてしまった。手の一部分の霊体化を解いて反撃したらしい。次の瞬間には、ルシファーの手の感触は綺麗さっぱりと無くなっていた。


「はぁー……」


 噛み殺したあくびのせいで溜まった目尻の涙をぬぐい、ため息をついたその時――


「キャー!! 」


 湊の後方で、女性の黄色い悲鳴がどっと沸き起こった。

 振り返ると、そこには女子からの注目を一身に受ける、制服を着崩した茶髪の男子生徒がいた。百七十センチある湊よりも背が高く、モデルのように整った顔立ちをしている。

 立花英嗣たちばなえいじ、三年生の先輩だった。女生徒を両脇に侍らせ、羨む取り巻きにウインクを振りまく姿はキザとしか言えない。両の手がさり気なく胸に添えられているところが厭らしい。


『ずいぶんと人気みたいね』


 まるで興味なさそうな口ぶりで少女は言った。

 湊も別段関心はなかったから、「そうだな」とそれ相応に返す。

 聞いた話によると、立花英嗣は特定の彼女を作らずに、言い寄る女を囲いハーレムを作っているらしい。休日ともなると日がな一日、性交に費やすという。

 非モテの連中曰く、『盛ったモンキー』だそうだ。

 性欲の権化か……そう心の中で唾棄し、校舎へ向けて再び歩き出そうとした時。

 湊は見てしまった。

 立花英嗣の開かれたカッターシャツの胸元に光る、悪の意匠。

 見開いた目のまま固まる湊の横を、両手に花状態の英嗣が通り過ぎる。すれ違いざまに見せた英嗣の顔は、新しいおもちゃを見つけた無邪気な子供みたいに笑っていた。

 ――まさかバレてるのか?

 衣替えまではまだ少し早い。湊はブレザーをきっちり着こなし、ネクタイもしている。他人から逆十字のネックレスが見えることは、まずない。他の契約者から、湊も同じであるとは認識できないはずだ。

 にもかかわらず、英嗣の表情はどこか確信めいて見えた。


『アスモデウスが彼にくっ付いているからよ。私みたいにね。大方、耳打ちでもしたんでしょ』


 疑問を汲んだように、そんな答えが返ってくる。


「アスモデウス」


 湊が名を呟いた時、校舎へ消えていく英嗣の肩が、僅かに上下したような気がした。



 頼まれごとは基本断らない性格の湊だが、幸いなことにクラス委員をやる羽目にはならなかった。二年C組には、進んで面倒ごとをやりたがる酔狂な人間がいたからだ。

 神代音遠、二年C組のクラス委員。委員長をしているからといって、決して地味で目立たない女子じゃない。むしろ容姿は学年でも一、二を争うくらいに可憐だ。

 しかし、休み時間はクラスの仕事をしているか、静かに本を読んでいるようなタイプで、あまりぱっとしない。そのため、友達と遊んでいるところなんかは、ほとんど見たことがなかった。

 近寄りがたい、そんなある種の独特な雰囲気を纏っているのだ。


 昼休み。提出し忘れていた世界史のノートを持って職員室へ向かったところ、ちょうど廊下を歩く神代音遠に出くわした。

 その細腕には、クラス全員分の数学と化学のノートが抱えられている。


「神代さん、手伝うよ」


 早足で音遠の元へ歩み寄ると、湊は進んで山を受け持った。


「あっ。ありがとう、桐嶋君」


 六十冊分のノートの重みから開放されて、音遠は少し安堵したように吐息を漏らす。肩口まで伸びる蜂蜜色の髪を耳にかけてから、やわらかく湊に微笑んだ。

 その仕草が妙に大人びていて、心臓がドキリと跳ねる。


「た、大変だったんじゃない、ここまで?」


 動揺を悟られないよう顔を背け、話題を振った。

 そして並んで歩き出す。


「ううん、そんなことないよ。慣れてるから」


 そう言う割には腕をぷらぷらさせて、筋肉疲労を分散させているようにしか見えない仕草をする。

 本来、課題のノート回収は日直がやるものだ。しかしC組では委員長がやっている。正確にはやらされているのだが……。

 だからそんな不公平を放っておけなくて、湊は出来る限り音遠を手伝うようにしていた。


「言ってくれれば、いつでも手伝うのに」

「そんな、悪いよ。桐嶋君もいろいろ大変そうじゃない」


 気遣ったつもりが、逆に気を遣われてしまった。

 彼女の言ういろいろが、普段している他人に対しての差し障りない愛想だと湊は分かっている。だから少しバツが悪くなった。


「別に……。俺も、もう慣れてるから」


 思わず湊は苦笑を漏らす。

 自嘲するように嘯く横顔に、音遠の複雑な視線を感じた。


『ふうん、なかなか可愛らしい子ね』

「うわっ!? 」


 黒い堕天使に突然話しかけられ、湊は大層驚いた。危うくノートを取り落としそうになる。

 それに釣られたのか、音遠も小さな悲鳴を漏らした。


「ど、どうしたの急に?」


 目を点にして唖然とする音遠に、「い、いや、なんでもないんだ」と挙動不審な反応を返す。彼女に見えないように体を向けて、中空に睨みを利かせた。


『あら、意外と怖い顔するのね』


 まるで珍しいものを見たように歓心する少女。

 湊は無言のまま人差し指を立てて、「静かにしていろ」と表現する。


「ねえ、大丈夫?」

「うわっ!? 」


 唐突に肩口から顔を出され、再び湊は驚きの声を上げた。


「ご、ごめんなさい。びっくりさせちゃって」

「い、いや、別に平気だよこれくらい」


 おかしな人間だと思われないか内心ヒヤリとしたが、そこは虚勢を張って誤魔化しておく。

 そんな主人の反応が面白いのか、霊体化しているルシファーは他人から見えないことをいいことに、さも愉快気に笑い転げた。

 ひとしきり笑っていたルシファーだったが、突然その美貌から笑みが消える。

 そして、湊の後方を、すうっと目を細め鋭く睨み付けた。眼光だけでも人を殺せそうなほど、研ぎ澄まされた殺意の眼差し。

 そのあまりの烈しさに、湊は畏怖を禁じえない。


「ど、どうしたんだよ、一体……?」


 至近距離からの視線があるのも厭わずに、思わず声を上げてしまった。


『黙ってそのままで聞きなさい。アスモデウスの契約者が、廊下の角からジッとこっちを睨んでるわ』


 アスモデウスの契約者――立花英嗣か。


『それはもう不愉快そうに顔を歪めて……。あれじゃまるで嫉妬ね』


 低い声で堕天使は言う。

 でもなんで……。湊には、嫉妬から睨まれる理由が皆目見当もつかなかった。

 眉間に皺を深く刻んで考え込んでいると、いきなり音遠が顔を覗き込んできた。


「ねえ。もしかして、桐嶋君って視える人なの?」


 眼前に現れた顔。目鼻立ちは整い、桜色の唇は艶めいていて瑞々しい。綺麗な蜂蜜色をした髪がシンプルな髪留めで留められ、分けられた前髪の隙間からはエメラルドみたいな翠瞳が覗いている。

 好奇心から輝く翠の視線が、真っ直ぐに湊の瞳を射抜いてきた。


「そそ、そんなことない! なにもいない、ここにはなにもいないから!」


 いきなりの出来事に、慌てふためきながら言い訳を繰り出したが。

 よく考えれば、「ここにはいない」というのはいささか返答に間違ったと湊は後悔した。

 これでは視える人を否定したことにはならない。

 案の定、音遠の眼差しがさらに期待を帯びるようになってしまったことは、言うまでもない。


「ねぇ桐嶋君!」

「は、はい!」


 急に大声で呼ばれ、思わず元気よく返事してしまった。


「放課後って時間ある?」

「放課後? 別に特に用事はないけど――」

「じゃあ、わたしに付き合って!」


 あまりの剣幕に気押され、じゃっかん引き気味で首肯した。いや、させられてしまった。

 返答が期待通りだったのだろう。音遠は湊が受け持ったノートの山半分を取り上げて、上機嫌に鼻歌なんか口ずさみながら先を歩いていった。


「なんなんだ一体」


 呟いたところで肩口から、聞こえよがしな溜息が聞こえる。


『はぁ。緊張感ないわね、あなた』


 呆れたような言に、湊ははたと思い出す。そして振り返った。


『もういないわよ』


 自分を睨んでいたという立花英嗣の姿は、言葉通りもうどこにもなかった。

 大罪の悪魔アスモデウスの主人になった男、か。湊は、避けて通れぬ戦闘を予感した。

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