手引き

 サラトバの街を出てパロシナの街へと向かっている間の三日間、夜々はなんともむずがゆい表情を浮かべていた。

 いつも特に用事がない時は主さま主さまと引っついて離れないのが、サラトバを出てからというものつかず離れずの一定の距離を保っている。今だって私の後ろに控えるように街道を歩いてはいるものの、重たい感情がまるで私の背にじわりじわりと這っているような感じがした。

 まぁ、こうなるかもしれないということは予想の範囲内だったと言えば範囲内だった。

 前に一応のわだかまりは溶けていたから、そこまで切羽詰まったものではないというのはなんとなくわかるのだけれど、だからと言って全ての感情が綺麗に片づけられるほど生き物というのは便利に作られてはいない。それこそ、自分の大切なものを誰かに取られるかもしれないという危機感は人間を悪魔にだって変えてしまう感情のひとつである。

 夜々と王女。比べられるものじゃないと言ってやっても、「それならわかりました」と納得がいくものでもないだろう。夜々にとって王女は今やライバルとでも言うべき存在になっているのかもしれない。

 そうやって考えてみれば、私だって姉さまを何度も困らせていたように思う。

 小国ながら、歴史と伝統のあった格調高い公国の第一公女。病弱で床に臥していることが珍しくなかった父上に代わって政治の表舞台に立つことの多かった姉さまは、身内ということを除いて考えても人気者だったように思う。

 麗しいブロンドの髪と、透き通る海を閉じ籠めたかのような青い瞳。公族として気高き魂を宿した姿に見惚れた者は数知れず。軍事力や経済力は大国に遠く及ばなかったけれど、各国の王族や皇族から縁談の話は絶えなかった。

 そして、まだ幼かったと言える私はその度に腹を立てていた。腹を立てながらも、結局は全てを断り、常に自分の傍にいてくれる姉さまがたまらなく大好きだった。

 そういったことを含めて思えば、「パロシナに行く」と言った私の言葉は、夜々にとっては決して嬉しい言葉じゃなかっただろう。表立って不機嫌にならないだけまだ彼女は幼かった私より大人びていると言えるかもしれない。



 パロシナの街は大きさということで言えばサラトバの街ほど大きな街とは言えなかった。

 しかし、街をぐるりと囲んだ塀の外からも先端をのぞかせている中央の教会は今までに見たこの世界の教会のどれよりも高く、いくつもの尖塔が天へ向かっているのが見えた。流石ツェミダー神教の総本山、といったところだろうか?

 中へと通じる大きな門ではサラトバで聞いた通りしっかりとした検問が行われていた。


「どういたしますか?」


 まだ検問所にいる兵士らの目に入らない場所で止まり、夜々が私にそう問うてくる。

 流石にこういう状況では真正面から中には入れない。夜々が人ならざる者である、ということを除いて考えても、中に入るのは相当に難しいだろう。私がどこかの街の教会に属している術師を装ったところで何の証明もなければ、突っ込まれればすぐにボロが出てしまう。かと言ってハグレとして出向いたらどんな歓迎のされ方をされるかわからない。


「ひとまず、暗くなるのを待ちましょう」

「それで良いのですか? 王女がどのような状態にあるのかわからないのですから、なるべく早く中に入った方が良いのでは?」


 その言葉に私はきょとんとしてしまう。夜々からそのような言葉が出てくるとは到底思っていなかった。一体どんな心境の変化かと思って彼女の顔を見ていると、


「……主さまにとって意義のある人は、私にとっても意義のある人です」そう言った。


 なるほど、そういう方向で彼女自身、自分の気持ちを納得させることにしたらしい。思わず笑いがこぼれて、私は夜々の頭をぐしぐしと撫でた。なんとも聡い子だ。


「あまり急いても事を仕損じるわ。あと少ししたら日も沈む。それから行動を起こしても、遅すぎるということはないでしょう」


 地平線の向こうに日が消えて、辺りが紅蓮から紺色に包まれてからゆっくりと動き始める。門は閉められたが、見張りの兵士が二人が立っている。まぁ、正面から行く必要はどこにもない。

 門から離れた場所で周囲をうかがい、誰もいないことを確認してから大きく跳躍。塀の上に一度降りてから、態勢を低くしたまま街全体を見渡す。

 あちらこちらで灯された灯りは穏やかなものだった。まだ眠りに落ちるには早い時間で、所々人の動きも見受けられたが、喧騒はなく、実にひっそりとしたものだった。教会の関係者と言っても、サラトバにいたチンピラのような輩はいないのだろう。

 宗教街らしいと言えばらしいが、どこかのっぺりとした顔のない人間のような印象も受ける。皆が皆、ツェミダーという神の名の元に同じ方向を向いているからかもしれない。元来、人間というものは似たような考えの元に協力する生き物のように思えるが、その実、一枚皮をめくってみればてんでバラバラなものだ。宗教などによって過度に思想を統一された集団は本来の人間らしさを捨てた存在と言っても良いかもしれない。


「あそこでしょうか?」


 夜々がそう言って街の中央を指し示した。

 中央にある教会。壮麗な造りをしているが遠目にもわかる。精緻な彫刻が施され、窓の一つにいたるまで装飾がされている。この街に牢にあたるような場所が他にあるかどうかはわからないが、立場が立場の人間だ。あそこに軟禁させられている可能性は十分にあるだろう。

 塀から民家の屋根に移り、そのまま屋根から屋根に飛び移って中央の教会を目指す。少し行けばその全様がわかるようになった。

 遠くからでは聖堂部分の建物しか目につかなかったが、敷地自体かなり大きい。尖塔の目立つ聖堂に加えて、隣にはドーム屋根の建物がくっついている。修道院かもしれない。そしてそれらの建物を囲むように整えられた庭園が広がり、その内側に背の低い木々が植えられていた。

 警備にあたっていると思しき兵がちらほらといたが、特別近寄るのを拒むような何かがあるわけではなかった。街の中に入ることが出来た者であればさほど制限されないのだろう。巡礼者と思しき信者の姿も少なくはない。

 暗くなった今は想像しにくいが、明るい陽の元に照らされていたらなんとも壮麗なれど穏やかな場所に思えたことだろう。よもや自ら好きこのんで戦いを起こすような存在には思えないかもしれない。が、それはあくまでも人間から見たら、の話である。神術をツェミダーの神より与えられた、世を統べる術だと心の底から信じ、人ならざる者を片端から殺してきた連中だ。人間以外の存在から見たら、この一見どんな小さな羽虫さえも殺さないような世界が地獄のそれに思えるのかもしれない。


「王女はどこに捕らえられているんでしょうか?」


 夜々がすんすんと鼻を鳴らしながら言う。彼女の鼻ならある程度場所を突き止められるかもしれないと思ったが、様子を見るにそれは難しいようだった。まぁ、王女がここに連れて来られてどのくらい経つのか……そもそも、本当に連れて来られているのかさえ確証はないのだ、そう都合良く物事が進むものじゃない。

 ぐるりと外観を見て回るが、外から見てそうぱっとわかるような造りでもない。少し考えて、出来れば穏やかな方法を取りたかったのだけれど……と思うが、ここでああでもないこうでもないと言っていたところでどうなるものでもない。


「夜々。少しここで待っていて」

「それは構いませんが、どうするのですか?」

「適当な情報提供者を連れて来るわ」


 肩にしょっていた弓と矢筒を降ろす。武装した平和の使者はいない。いつ、どこの国の言葉だったか、そんな言葉があったように思う。警戒される可能性をみすみす高める必要はないだろう。

 すたりと人気のない裏路地に降り、辺りを見渡す。家々の窓から光がもれているが、この街の治安というものに誰もが信頼を置いているのだろう。疑心の空気は微塵もなかった。

 私は表の通りに出て、堂々と中央の教会を目指し歩き始め、すれ違う人が同じ巡礼者か何かと勘違いして軽く会釈をすれば、私もそれを返した。

 歩きながら、さてどのくらいの人間であれば王女の居所を知っているだろうか、と思案する。一応の警備として外回りをしている兵でも知っているのか、それとももっと深くに食い込んでいる人間でなければ知らされていないのか。どちらとも考えられるが、この教会に王女を軟禁しておける場所がいくつもあるとは思えない。正確な位置はわからずとも、その辺の警備兵でも大体の場所は想像がつくかもしれない。

 流石に教会の敷地が近くなると人の数が減る。夜にここを訪れるような人間はいないのだろう。目立ちやすいが、逆に人目につきにくいということで言えばありがたかった。聖堂の側面の方に素早く回り込むと、ちょうど女の兵が一人、周囲に目を配っているところだった。おそらく術師なのだろう。

 私はわざと彼女に見つかるように出ていった。すぐに彼女が気づく。私はその様子に、あからさまにほっとした表情を浮かべて見せて駆け足で近づいた。


「あの、すみません」

「どうしましたか、このような時間に」


 彼女は十近くは年下に見えるだろう私に小さく微笑みかけながらそう問いかけて来た。案の定、街に入っている人間には警戒心がかなり薄いらしい。私が女子供ということもあるのかもしれない。


「あの茂みの向こうに、なんだか奇妙な物が落ちているのです」

「奇妙な物?」

「はい。最初は動物の死骸か何かに思えたんですけれど、どうやらそういう類のものじゃなくて……近づくと鼻を刺すような臭いがしますし、嫌な予感がして……」

「それはどこですか?」


 彼女の顔つきが変わる。こちらです、と私は彼女を先導するように茂みに向かい、どこからも死角になる場所へと行くと、


「あそこです。あの茂みの向こうに……」と指差した。

「わかりました。……貴女は下がっていて」


 そう言って私の前に出て、そっと茂みに近づいて行った彼女の背後を取る。

 茂みを覗き込む兵士。もちろんそこには何もない。そして、その事実を私に伝えようとして彼女が振り返った所を私は首側面目がけて強く打撃を与えた。殺さない程度、しかしきちんと意識を奪える程度の力加減というのが難しかったけれど、幸いなことに一撃で彼女は倒れ込むように昏倒してくれた。呼吸を確認して生きていることを確認する。ここで殺しては意味がない。

 気を失った女を抱えて教会の敷地を離れ、誰にも見つからないように建物の屋根に跳ぶ。持ち運びのことを考えると、男じゃなくて良かった。別に運ぶ労力自体はそう大差あるものじゃないが、大男だったりしたら屋根の上で動くに少し大きすぎるような気がする。


「それが情報提供者ですか?」


 帰ると、夜々はさして関心のなさそうに女の兵士を覗き込んだ。


「そうなると良いな、っていう感じね。知っていれば良いんだけど」


 とりあえず、女が目を覚ますまでさらに人目のつきにくい場所へと移動する。傍ら、突然大声を出されたり暴れられたりすることを考えて、手布で猿ぐつわをして、手足を縛りあげた。

 十五分、二十分。

 なかなか目を覚まさず、打撃が強すぎただろうかと思い始めた頃に女はようやく目を覚ました。

 すぐには状況を呑みこめないようで、ただただ戸惑った様子で私と夜々の顔をみるばかり。考えてみれば外見的に言えば私は小娘だし、外套をかぶった夜々は幼子である。そんな二人に拉致されるというのはなかなか発想としてないかもしれない。


「大きな声を出したり、暴れた場合にはすぐに殺します」


 言って、ナイフを彼女の前に掲げて見せる。それでも彼女の顔はまだよくわからないようなので、少し面倒くささが頭をもたげる。仕方なく女の腕にナイフを一突き。


「――っ!」


 猿ぐつわのおかげで声はあげられないが、痛みに女が大きく呻いて体をよじった。


「今から質問をします。それに答えてください。もう一度言いますが、大きな声を出したり、暴れた場合には命の保証はしません。もちろん、神術を紡ごうとした場合も同様です。わかれば首を縦に振ってください」


 ようやく目に恐怖の色が浮かび、小さく何度か首を縦に振った。


「一つ目です。教会にフェリーユ王女は軟禁されていますか?」


 女が目を開き、瞳孔が僅かに広がった。驚きと著しい緊張。その反応でそれが事実らしいということはわかったが、あえて彼女の反応を待った。

 少しして、ふるふると首を横に振る。なるほど。中央の教会の警備をしているような兵士なだけあって、教会に対する忠誠心が高いと見える。


「こういった場合、嘘は許されるものじゃありません。そんな単純なことも知りませんか?」

「ぅっ――っ!!」


 縛っている片方の手の指を開かせ、肉と爪の間にナイフを突き刺す。そして、そのまま一気に爪を剥ぐと女が腰を跳ねさせた。強烈な痛みに体を暴れさせようとするが、夜々がそれを抑え込む。


「二度目があると思わない方が身のためです。もう一度聞きます。フェリーユ王女が、あの教会に軟禁されていますね?」


 今度は素直に首を縦に振った。目にじんわりと涙が浮かんでいる。ここまでくれば、ちょっとやそっとでは嘘を吐こうとは思わないはずだ。


「二つ目。あなたは、その場所を知っていますか?」


 ふー、ふーと粗い呼吸をさせて女が私を見る。敵意は見られず、すがるような視線で微かに震えているところを見ると、いくつもの修羅場をくぐって来た兵というわけじゃないようだ。おそらく術の類は上手に使えるのだろうが……良くも悪くも箱入りなのだろう。

 少しの沈黙。嬲るということにあまり興味はないのか、夜々は彼女を抑えつけながらふわりと欠伸をした。

 ややあって、私がナイフをちらつかせたところで彼女は小さく一度首を縦に振った。


「良いですよ。素直なのはとても大切なことだと思います」


 怯え方から見てやはり嘘を吐いている様子はない。

 このまま脅して協力させ教会内部まで案内させることも考えたが、少しでも冷静になられると良からぬことを考えるかもしれない。仲間内で通じるサインなんかがあった場合はひと悶着は免れない。それに、死の恐怖がピッタリと背後に張りついている時が人間というものを一番素直にさせるというものでもある。


「今から猿ぐつわを外しますが、先ほど言ったことを覚えていますね? 無用な声を出そうとした場合、貴女が声を発するより早くこれが喉笛を切り裂くと思ってください。わかったら、首を縦に」


 素直に何度か首を縦に振る。

 夜々に視線を送ると、彼女は結んでいた猿ぐつわを外した。


「それでは、三つ目の質問です。その場所はどこですか? 大体の場所で構いません」


 女の視線が泳ぐ。

 短気は損気。少し待ってやるが、口を僅かに開けては閉じるような仕草をさせるだけで答える気配がいまいち見られない。


「もう一度質問しましょうか? それとも、もう少し爪の数を減らしますか?」

「さ、三階ですっ……修道院の」


 慌てた様子で彼女が言った。


「修道院の三階の? 場所は?」

「一番東のきゃ、客室に……な、何も危害は加えていません」

「軟禁は危害を加えていることにはならない、と?」

「い、一時的なものだと聞いています。国内の混乱が収まるまで表舞台に出ないようにするだけで、少しすれば解放すると……し、信じてください! フェリーユ王女殿下に危害を加えるつもりは全くありませんっ」


 早口でそうまくしたててくる。死が突きつけられた今、とにかく助かりたい気持ちが口を回しているに違いない。もっとも、それは私にとってどうでも良いことであったが。


「それではこれが最後の質問です。部屋に見張りは? いるのであれば、人数を」

「お、おりません。ただ、鍵がかけてあります」


 なるほど。部屋を見張っている者がいないというのは幸いなことだ。修道院の中に入ってからガタガタと騒ぎを立てるのはどうしても人目につく。大立ち回りをするのは避けたいところだった。


「なるほど、よくわかりました。夜々、お願い」


 指示すると、夜々は手布を巻いた小さな手で女の顔を覆った。


「んぅっ!」


 突然のことに顔を振って振りほどこうとするが、幼子と言っても妖怪である。純粋な力で人間が敵うはずもなく、女はすぐに手布に染み込ませた薬を吸い込んで眠りに落ちた。いくつか携行している薬の一つで、普段は動物の警戒心を解いたり、軽い自白剤のような使い方をするものなのだが、少し術で強化してやれば強力な催眠薬になる。

 その強力さゆえに薬の効果が切れてもこの数時間ほどの記憶はひどく曖昧になるか、全く失われる可能性も高い。夢を見ていたのと似ているとでも言えば良いだろうか? 後から思い出そうとしても、それはもやに包まれた亡霊を捕まえようとするようなもので、私や夜々の顔や声をはっきりと覚えているのはまず無理だろう。


「それで、これはどうしますか?」

「別にわざわざ寝所まで用意してやる必要はないでしょう。その辺に転がしておけば良いわ。薬が切れるまで数時間は持つし、この辺ならなかなか見つからないでしょう」


 それでも、見張りの一人がいなくなったとわかったら騒ぎになるのは違いない。急いだ方が良い。

 夜々を連れて教会に付属した修道院を、植え込みで身を隠すようにして大きく回り込み、兵の言っていた場所に大体の目星をつける。と、一部屋だけカーテンの隙間から微かに光がもれている部屋があった。おそらくあそこで間違いないだろう。

 こういった時、凝った造りの建物はありがたいものだ。装飾の凸凹を足場として跳ねるようにして三階まで一気に登り、光のもれている窓の傍に寄る。小さく息を吸い込んで、右手に力を込める。必要なのは全体ではなく一極に集中させた瞬間的な圧力。カツン、と力を入れてガラスを叩くと、ガラスはパキリと小さな音を立てて割れた。そのまま、あまり音が立たないように残りのガラスを破るように室内へと飛び込む。


「っ! 誰だっ!」


 降り立つと同時に、ガタリと椅子が動く音に加えて声が聞こえてきた。

 フェリーユ王女はベッドの傍らに置いてあった椅子に座っていたらしい。私たちの姿を見ると、流石に驚いたのか呆気にとられたように目を点にした。


「貴女は……」

「お迎えにあがりました、姫さま」


 ガラスの破片をパツパツと軽く払って事実をその通り伝える。すると、こんな状況にあって彼女はひどく奇抜で可笑しいものを見たのかのように笑いをこぼし、くっくとお腹を抱えるようにした。

 その笑顔は私が初めて見た、彼女の年齢相応の表情と言えたかもしれない。箸が転げただけで笑ってしまうくらいの年頃の女子の……なんの気負いもなく、手に届く範囲だけが自分の世界である、ごくごく普通の女の子の表情だ。

 まるで遠い日に見た姉がそこによみがえったかのような錯覚を受ける。表舞台では凛々しい表情を作っていた姉も、私と二人の時はああやって笑ってくれたものだ。私もある程度大きくなり、公人の一人として公務をするようになってからは機会もたんと減ってしまったように思うけれど、それでもたまの休みに二人でいたりすると姉は変わらない笑顔を見せてくれた。

 そんなことをぼんやりとフェリーユ王女の笑顔に重ねていたが、彼女はすぐに王族としての自分を取り戻したらしい。口から出てくる笑いを小さな咳き込みと共に抑えて、


「いや、すまない。別に貴女を笑ったわけじゃないのだ」言った。

「ここは三階だ。まさか、窓の外から助け来るとは思ってもいなかった。リザス……ああ、リザスというのは、私によくしてくれている宰相なのだが、彼が何かしら手を打って内々に誰かが手引きしてくれる可能性などは考えていたのだがな」


 少し疲れの色が見てとれたが、兵の言ったように直接危害を加えられた様子はない。それに、私はあからさまに安堵の気持ちが浮かび上がるのがわかった。

 再びこう相対してわかる。私は彼女を欲しているのだ。それが例え姉の代替としてであったとしてもその事実は変わらない。

 と、傍にいた夜々が「主さま」と私を呼んだ。


「何者かがこの部屋に近づいています。音は一つ。一人です」


 王女の表情が真剣なものに変わる。

 そんな気配はなかったが、ここに侵入したことが露見しただろうか? であるなら、今すぐに彼女を抱えて窓の外から出た方が良いかもしれないが……いや、それではここを訪れた者からすぐに王女が逃げたことが知れ渡ってしまう。逃げ切るのは容易くとも、今後のことを考えると少しでも時間を稼いでおいた方が得策かもしれない。

 しかし、近づいてくる雰囲気にどことなく違和感を覚えた。小さな足音が私にも聞こえるようになったが、それでも極力足音を殺しているような歩き方だ。かと言って、完全に音を殺すような、戦いに慣れた者の歩き方でもない。素人が素人なりに足音を忍ばせている。そんな感じだ。


「夜々」


 彼女を呼んで扉の横の壁にピタリと張りつく。

 ノックの音。次いで、小声でまだ年若いとわかる男の声が聞こえてきた。


『フェリーユさま、いらっしゃいますか?』


 彼女が返事を返すと、かちり、と扉の鍵が開けられる。

 ゆっくりと開いた扉から入って来たのは、二十歳前後と思しき男だった。祭服について詳しく知っているわけではないが、一般的なものより豪華なものに思う。教会の中でもそれなりに高い地位にいるのだろうか? しかし、青年から敵意は感じられない。


「夜分に失礼します。脱出の助力に参りました」

「助力?」


 出てきた言葉に王女が顔を怪訝なものに変える。


「はい。国が混乱している最中、このような場所にただ身を置かれているだけというのはひどく不本意なものかと存じ上げます」

「貴方はリザスの手の内の者ですか?」

「リザス? ……ああ、リザス・ジャーチジェル宰相のことですか」


 男が納得いったように表情を変えた。


「いえ、生憎これは私の独断です。ジャーチジェル卿から何か救援がくる予定があるのでしょうか?」

「いや、そういうわけではないが……」

「それであれば、今の内にここを出た方が得策かと思います。ここは教会組織の中でもレグマン大主教に近い者で固められていますから、ジャーチジェル卿と言えど誰かを送ってくるのは難しいはずです」

「………………」

「私の後について来てください。この修道院には町の外へと通じる地下路がございます。町の外までとなってしまいますが、私がご案内いたします」

「お待ちください」


 王女に向かって一歩踏み出した青年に私は声をかけた。肩が跳ね、突然冷水を浴びせられたかのように振り返る。咄嗟の仕草にも訓練されたような動きはなく、敵意も感じられなかった。やはり戦闘を生業にしている人間ではなさそうだ。


「貴女は、一体……?」


 ただただ驚いた様子で青年が私に問う。


「信者の方、という雰囲気ではないように思いますが……」

「何者であるのかを問うのであれば、そちらから先に願えますか?」

「こ、これは失礼。私の名前はロエル・ウェザヒコーゼ。ツェミダー神教の主教を務めております」

「ツェミダー神教の主教? その主教さまが一体どんな心づもりがあってフェリーユ王女殿下を連れ出そうと言うのですか?」

「レイラ……」


 刺々しい私の物言いに王女が少し困ったような顔をする。まだ年若いが、王女はその年齢からすれば相当に人を見る目がある。目の前に現れたこのロエルなる男に敵意がなく、少なくとも自分に仇名すような相手ではないことがもうわかっているのだろう。

 けれど、どういった場面であれ立場が異なる相手の心は探っておくにこしたことはない。人間が人間を裏切る場合の半分以上は本人にその気がない上での無意識での裏切りであって、それをした時決まって人間は、そんなつもりはなかった、とのたまうのだ。


「確かに、教会の人間がこのようなことを言っても簡単には信じてもらえませんよね」


 そうロエルは苦笑した。


「しかし、これだけは信じてください。少なくとも私はフェリーユさまに危害を加えようと思ってはおりません。教会の主教という立場ではありますが、フェリーユさまの考えに共感する面も多々あるのです」

「………………」

「ともかく、ここではいつ誰の目に止まるともわかりません。フェリーユさまに……」

「レイラ・エールデレヒト。こちらの子は夜々です。フェリーユ王女殿下に多少の縁がある者、とお考えください」

「レイラさんにヤヤさんですね。貴女方もどうぞこちらに」


 王女と視線をかわす。少なくとも彼女はここで荒事を起こすことは望んでいないようだ。それであるなら、私だってロエルとやらの申し出を断り、彼女を抱えて窓から飛び出す道理もなかった。

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