秋の夜長に千代の子の声を
久環紫久
第1話
最悪だ。最悪だ。最悪だ。
泣きたいくらい最悪だ。
ありえないくらい最悪だ。
なんにもわからなかった。なんにも思い出せなかった。
たまらず教室から逃げ出した。後ろから教師のヨネヤマが追いかけてきたがなりふり構わず廊下を全力で駆け抜けた。
カトウは自分にがっかりしていた。英単語帳を見ただけで、さらりと目を通して単語が視界に入ってきたからってそれで満足してしまったなんて。そのまま覚えられなくちゃ意味なんてないのに。
いつからだろう。勉強が出来なくなったのは。物事の理解に納得がいかなくなったのは。ああでもないこうでもないと悩んだところで無駄なことはわかっている。自分がつけようとしているのは謂わば難癖だ。”A"は何をしたって”A"なのに、それはどうなんだろうと引っかかって先に進めない。
走ってはいけませんと口酸っぱく言われ続けてもう十年近い廊下を暗黙の了解を無視して走り続けている。階段を一段飛ばしで駆けあがり、手すりを利用して踊り場をショートカットして、ぐんぐん上っていく。四階建ての校舎の屋上まであと少し。気付けばヨネヤマの声も聞こえなくなった。授業はまだ終わっていないから、優先順位でそちらが勝ったのだろう。カトウはそのままの勢いで屋上へのドアを押し開けた。一歩踏み出して、二歩踏み出して、三歩目で止まった。そして感じた。妙な違和感だ。知り合いが髪を切ったとか、雰囲気変わったねえなんてものではなくて、下手をすれば命に関わるのではないだろうかと思ってしまうような不安を覚えるような違和感。
よく見ればここは屋上じゃあない。よく見れば風景はすべて色あせてセピア色だ。曇っているのだと思って見上げたが、空はなく、天井のようだった。
「あれえ? なんでえ、お前」
へんてこな声が背中の方からして振り向くと、そこにはその声に合った見た目の妙な生物がいた。マスコットキャラクターのようなふざけた姿をしていた。見る人が見たらかわいらしいと思うのだろうが、ささくれだった今の心境では、カトウにとって和むどころか逆効果だった。
「こんなところでお前何してんだあ?」
ましてや呑気な物言いとは対照的に如何にも何者でも斬り伏せると見える大剣の切っ先をこちらに向けられてしまっては、理不尽さになお腹が立ってくる。
「……意味わかんねえ」
ぼそりと吐き捨てたカトウの声はへんてこな生物は聞き取れなかったようで、愛らしく小首を傾げた。
「侵入者は即斬なんだけっどお、お前、弱えなあ。なんでここに来たんだあ?」
大剣の切っ先を地に向けて、なお小首を傾げ続けながら生物はカトウに尋ねた。
「知らねえよ。気付いたらここにいたんだから」
カトウがぶっきらぼうに返すと、傾げ続けた小首を時計の秒針のように戻して、大剣を背に収めた。身の丈五十センチほどの背の向こうにまるで異次元があるように見る見るうちに大剣が消えていく。呆然とその様子を眺めていたカトウにまたその生物は小首を傾げていく。
「お前、”むちびと”だなあ」
「は?」
「そうだろう? だって普通はオレを見たら襲い掛かってくるもんなあ」
てくてくと生物がカトウに近づいてくる。
「な、なんだよ」
てくてくと生物がそのままカトウの周りを歩きながら品定めをするようにつま先から頭頂まで視線を行ったり来たりさせる。それから二度ほど頷いて、「やっぱり”むちびと”だ」と言った。
「どっからここに来たんだあ?」
生物が小首を傾げてカトウに問いかけた。
「どっから、って。そこのドアから——」
とカトウが視線をドアのあった方向に向けた。絶句した。ドアがない。何度か瞬きを繰り返して眉間に皺を寄せる。
「なんで」
生物がカトウの様子を見てさらに小首を傾げていく。
「なんでないんだよ。え?」
カトウがドアがあったはずの場所へ走り寄る。だが、本当にそこにドアがあったか確信が持てなくなった。まったくなんの跡形もない。もしかしたらもっと先だったかもしれないとカトウが走った。走ったが、その目にドアが見えることはなく、息が切れ始めた。おかしい。疑問符がカトウの脳内で間欠泉のように勢いよく湧き出てきた。
立ち止まって、切れ始めた息を整えながら辺りを見渡す。
「間違ったんだなあ、お前」
いつの間にか謎の生物はカトウのすぐそばにいた。ぎょっとしてカトウが仰け反って謎の生物から距離を取る。
「なんか間違って、逃げてきたんだろお?」
九十度ほど小首を傾げて謎の生物はカトウに尋ねた。
「なんなんだよお前」
「なんなんだよって言われてもなあ。オレはモリビトだあ」
「モリビト?」今度はカトウが小首を傾げた。
「そうだあ。オレはこの世界の秩序を守る守り人の一人」
「意味わかんねえ」
「意味わかんねえかあ。わかんねえならわかんねえでもいい」
「は?」
「だってわかんねえんだろお? だったら仕方ねえよ。それより大事なのはわかろうとすることだあ」
てくてくと守り人は歩いていく。それからちょいとカトウに振り向いて、「送ってやる。ついてこい」と言った。
仕方なしにカトウは守り人のあとをついていった。
「お前名前は?」
「……カトウ」
「そうかあ。地球の日本人だな、多分」
「知ってんの」
「そりゃオレが守っているのは主に地球の知識だからなあ」
「知識?」
「そうだあ。この世でもっとも大切なものはなんだと思う?」
「命とか?」カトウの言葉に守り人はポンと手を打った。
「そうかあ、それもあったなあ。じゃあ二つだ。命と知識だあ」
「そんなに?」
「ああ、そんなにだあ。どこの世界でも学校なんて下らねえとかああだこうだいう連中はいるけれども、オレから言わせればそんな考えが下らねえって話だなあ。知識ってのはすごいんだあ。知っているだけで財産になるなんて普通ありえないことだからなあ。使い方を知っていれば立派な武器になる。あ、それを伝えるための言葉も大切だったなあ。大切なものは三つだったあ」
ははは、と守り人は笑った。
「さて、ほんじゃあここにドアを用意してやる。帰ったらよく学べえ」
「ありがと」
「感謝の言葉を知っていたあ。そしてそれを使うタイミングを知っていたあ。お礼を言われたオレは嬉しい。ほら、武器になったあ」
「当たり前のことだろ」
朗らかに笑う守り人から視線をそらしてカトウは頬を掻いた。
「当たり前のことだって、知っていなきゃ出来ないんだからなあ」
ズン、と音がして、重厚な扉が地下からせりあがってくる。扉の頭が地下から出てきたと思うと、そこから瞬間的に飛び出て、三メートルほどの石扉だとわかった。と、真ん中に縦の亀裂が入って、そこから罅が縦横無人に走っていく。ぼろぼろと崩れ去った石扉の中に、見慣れた鉄製の扉があった。
「見覚えあるだろお? きっとお前が通ってきた扉はあれだあ」
「ああ、あれだ。屋上への扉」
「あれを開けたらお前の世界だあ」
「なあ」カトウが扉に向かう足を止めて守り人に振り向いた。
「なんだあ?」
「なんで助けてくれるんだ?」
「そんなもん、それがオレの仕事だからだろお」
「そんなもんか」
「さあ、帰るんだあ。ここは本当は危険なところなんだからなあ」
「わかった、ありがと」
「二度と来ないように気をつけるんだぞお」
「んなこと言われても俺がここに来たのは——」
「たまたまじゃねえよお。お前は逃げ出したくなったんだあ。極限まで逃げ出したくなった結果この世界にやってこれたあ。なんせこの世界はそういうやつらにとってオアシスみたいなもんだからなあ。だけど、本当はこの世界はそんなものじゃあないんだあ。だから知識が必要なんだあよお」
「どういうことだよ?」
「わからねえならわからねえでいい。そのうちわかるときがくるかもしれねえからなあ」
「そんなもんか。じゃあ——」
ありがとう——とカトウが言葉を紡ぐはずだった。しかしそれは成らなかった。扉目掛けて電撃が飛んできた。何かが爆ぜる音がしてカトウが触れようとしたドアノブが砕け散った。
「今こそ好機」
風を切る音がしてカトウの背後に何かが忍び寄る。カトウが反応するより早く守り人がカトウを押し飛ばし、どこからともなく取り出した大剣でそれを斬った。
目にもとまらぬ速さで身を翻したそれは漆黒のフードの向こうで赤い眼光をほそめた。
「即斬、って言ったよなあ」
守り人が大剣を構えなおす。
「しかして即斬成らなかったな。知識の守り人よ」
フードの向こうで地を這うような声がした。
「お前はほんと、人が悪いなあ」
「悪巧みというのもまた、武器だよ、テディ」
「オレは嫌いだなあ、そういうの」
「しかして我は好んで使うのだ」
「だからお前も嫌いなんだあ」
両者はにらみ合い、お互いにじりじりと距離を保つ。
カトウはこの状況を理解できないでいた。意味がわからない。受け身を取れず痛む体で起き上がりながら少し離れたところに立つ二人(と呼んでいいものかわからないが)を見る。
テディベアみたいな風貌の守り人と、それとさして身の丈の変わらない黒いフードの何かが戦っている。一触即発の雰囲気で、互いに好機を待っている。何かきっかけが出来ればそれを狼煙に攻撃が始まる。
と、守り人が後ろへ身をかえした。
すかさずフードの何かが電撃を飛ばす。大剣でそれをいなし、守り人はカトウの手を掴んだ。
「悪いが、走ってくれえ」
切迫した雰囲気だというのになんとも間の抜けた声だった。
引っ張られるようにして立ち上がったカトウは引き摺られるように駆け出した。守り人が丸い手を器用に動かして印を結ぶ。前に向けたとき、扉が現れた。木製の、歴史の教科書にでも資料として記載されているような扉だった。無言で守り人がその扉を開け、二人はその扉へ滑り込むように身を入れた。駆け抜けて即座にその扉を壊す。ボロボロと崩れた扉の向こうには、使い古された檻が見えた。
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