第2話 美奈、小鬼に出会う

 美奈は家のベッドで熱にうなされていた。


「ここにお薬置いておくから、ちゃんと飲みなさいね」


 スーツ姿の美奈の母親は、その枕元に風邪薬と水の入った白いコップを置いた。


「じゃあ、お母さん、お仕事行ってくるけど、午前中で終わらせて帰ってくるからね。午後からお医者さんに連れてってあげるから」


 そう言い残し、美奈の母親はいそいそと部屋から出て行った。階段をぱたぱたと下りる音がした後、階下から玄関の扉を開け閉めする音に続き、がちゃり、と鍵を閉める音がした。一転して美奈の家の中は静寂に包まれた。


 ――お薬、飲まないと……。


 美奈は熱で意識がもうろうとする中、布団の中から手を伸ばし、頭の上の棚に置かれた薬を取ろうとした。そのとき、不意に美奈の意識が飛んだ。目の前が真っ暗になった――



* * *


 ――「チチチ……」と、鳥の鳴く声が聞こえた。


 その声に気が付き、美奈はゆっくりと目を開けた。暗い空間の中に、わずかに日が差し込んでいるのが見えた。そこは部屋の中にしては、やけに暗く、ひんやりとしていた。その空間の片隅から、ぴちょん、ぴちょんと水が滴り落ちる音が聞こえた。


 ――ここは、どこだろう……?


 美奈はぼんやりとした意識のまま、ゆっくりとその身体を起こした。その額から、水に濡れた布がぽとりと落ちた。辺りを見渡すと、そこはまるで洞穴のような空間だった。彼女が寝ていた場所には動物の毛皮が敷かれており、その身体には大きめの白い布が掛けられていた。傍らには、大きな麻袋が置かれており、またその脇では脱ぎ捨てられた甲冑と大きな剣が静かに光っていた。


 美奈は、妙に風通しの良いことを不思議に思い、自分の身体に掛けられている布の中を覗いた。そこには、彼女の白い肌が見えた。なんと、彼女はショーツ以外、何も身につけていなかった。


 ――えっ!? 下着だけ? 何で!? パジャマはどこいったの!?


 一気に目が覚めた。美奈はうろたえ、片手で胸を隠しながら周りに服はないかと探したが、その空間にあるもので身に付けられそうなものは甲冑しか無かった。当然、美奈にはそれを身に付ける方法は分からなかった。仕方なく、美奈は自分の身体に掛けられていた白い布を身体に巻きつけた。それでも胸元から膝上までを覆うくらいの丈しか無かったが、無いよりかは幾分かマシだった。


 ようやく彼女がその姿を整えたとき、またも「チチチ……」と、鳥の鳴く声が聞こえた。美奈はその声に誘われ、おずおずと洞穴の外へ歩み出た。


 ――そこには、視界を覆い尽くすほどの木々が並んでいた。その青く茂る葉に閉ざされた世界は闇に覆われているものの、わずかに差し込む木漏れ日がきらきらと輝いて、いくつもの光の線を作っていた。時折風が吹くと木々はざわざわと音を立て、その中に小鳥のさえずりが響いていた。彼女はその光景に見とれつつも、足元にある巨大な木の根に気が付いた。


 ふと背後を見ると、そこには巨大な木が立っていた。先ほどまで彼女が寝ていた空間は、その木の中に開いた洞穴だったのだ。美奈はぽかんと口を開けたまま後ずさり、その木を見上げた。


 「大きい木……屋久杉、ってやつかな?」


 美奈は、以前テレビか何かで屋久杉を見た記憶があったが、今、目の前にあるこの大木はそれよりも遥かに大きいものであるように感じた。ぼーっとその大木を見つめる美奈に、背後から声を掛ける者が現れた。


「おや、クリス様、もうお加減はよろしいので?」


 突然話しかけられ、美奈は飛び上がった。

 ばくばくと鳴る心臓を押さえながら振り向くと、そこには一人の老人が立っていた。灰色のローブを纏うその老人に、美奈は見覚えがあった。


 ――この人、どこかで会ったような気がする……。どこだったかな……?


 不審げな顔をする美奈をよそに、老人は安堵の表情で話を続けた。


「いや、先日立ち寄った村で、流行り病をもらってしまうとは不運でしたな。しかし、お加減が良くなったようで安心いたしましたぞ」


 その老人の声と口調で、美奈はそれが何者かを思い出した。


 ――そうだ、こないだ見た夢の中に出てきた人だ……!

 美奈は記憶を探り、その名を呼んだ。


「……あ! へ、ヘモントス、……だっけ!?」


「ヘモドロス、でございます、クリス様。……どうやらまだ具合はよろしくないようですな」


 一旦は安堵の表情を見せた老人であったが、美奈の言葉を聞くやその顔が曇った。さらに老人は美奈のあられもない格好に気付くと、なんとまあ、といった風に、顔に手を当てて溜息をついた。


 一方、美奈は、またもこの世界に訪れてしまったことに不平を漏らしていた。


「……またこの夢? ちょっと勘弁してよ。見るならもっとステキな夢があるんじゃない!?」


 腕を組んでぶつぶつと呟く美奈の様子を見て、老人は浮かない顔のまま、洞穴に戻るよう促した。


「ささ、クリス様。まだお休みになられたほうがよさそうです。じきにレグルスが獲物を捕らえてまいりましょう。食事が出来たらお呼びに参りますので、さあ!」


 老人の語気が少し強まった。それを聞き、美奈は前回同様に弁明した。


「え、いや、あたし、クリス様じゃないってば! 前にも言ったけど、来栖くるす! く・る・す、み・な!」


 分かりやすく丁寧に自分の名前を言った美奈だったが、老人はそれを聞き入れる様子も無く、はあ、と溜息をついた。そして呆れた様子で言った。


「……クリス様、まだ熱でうなされているご様子ですな。レグルスが戻ったら、すぐに薬草を取りに行かせますので、どうぞ中でお休みくださいませ」


 それを聞いて、美奈は戸惑った。


 ――薬草? って、前回飲まされた、あの黒くて苦いやつ?


 あんなものを二度も飲まされてはたまらない、とばかりに、美奈は慌てて手を振った。


「え、えと、薬は遠慮しときます! 午後からお母さんがお医者さんに連れてってくれるし……」


「クリス様、お気を確かに。母君はここにはおりませぬぞ。今頃は王都で貴方様の帰りをお待ちになられております。母君を想う気持ちは分かりますが、今はオーガ討伐こそ最優先でございますぞ!」


 老人は強い口調で美奈を諭した。そして森の中を見ながら不安げに呟いた。


「ああ、やはり薬が必要じゃ。レグルスのやつ、早く帰ってこないものか……」


 それを聞き、美奈はひどく狼狽した。


 ――ヤ、ヤバい! これじゃ確実にまたあの苦いのを飲まされちゃう……!


 どうしよう、どうすればいいかな……!?


 そうだ、この人、きっとあたしが"クリス様"っぽくないから薬を飲ませようとしてるのかな!?


 ――そう思いつき、美奈はそれを実行に移した。目を閉じ、えへん、と胸を張って口を開いた。


「え、えーと、わ、我輩は"クリス様"じゃー! 何も心配はいらんぞよ、ヘドモンス!」


 老人はまたも深い溜息を吐き、呆れた口調で答えた。


「……ヘモドロス、でございます。クリス様」


 また名前を間違えたことにあたふたし、美奈は慌てて取り繕った。


「え、えー、ヘドロンモス! その、薬はいらんぞよー! このとおり、拙者は元気じゃ、アハハハハ!」


 美奈の乾いた笑い声がむなしく響き渡った。老人は、暫し頭を抱えてうつむいた後、ゆっくりと話し出した。


「……クリス様、薬が苦手なことはよく分かりました。しかし、貴方様はカンパレアの筆頭騎士というお立場。今日のことはヘモドロスの心のうちに仕舞っておきますので、どうぞ今は中でお休みください。薬もなるべく早く用意いたしますゆえ……」


 呆れるあまり、がっくりと肩を落としながらそう語る老人を見て、美奈は後悔した。


 ――ま、まずい……なんか逆効果だったみたい……。


 老人はじりじりと美奈に近づき、なんとしてでも彼女を洞穴に入れようとしていた。それを見た美奈は、思わず脱兎のごとく駆け出した。


 ――逃げちゃえ!


 その行動に驚き、老人は思わず大声を上げた。

「あ、お待ちくださいクリス様! 剣も甲冑も持たずにどちらへ行かれるのですか!?」


 しかし、美奈は聞く耳も持たず、ただひたすらに森の中を駆け抜けた。その身に纏った白い布の端が彼女の背中でひらひらとなびいた。背後から呼び止める声が響いていた。


「お待ちを! 森の中は危険でございます! どうぞお戻りを!!」


 いつしか背後から響いていた老人の声も聞こえなくなり、美奈はふと立ち止まった。

 すると、森の中に小さな影が見えた。バスケットボールほどの大きさの小さな生き物が、木の根元でこちらに背中を向けてしゃがんでいた。その生き物は美奈の存在に気付かずに、一心不乱に木の根元を掘り続けているようだった。

 美奈は見たことも無いその生き物に興味を持ち、ゆっくりとそれの背後から近づいた。それは全身が茶色で、四本の手足があり、皮製の小さな服を身につけていた。頭に付いた耳はぴん、と尖っており、それは地面を掘るたびにピコピコと可愛らしく動く。後ろから見るとそれは家の近所で見る小さな犬のような風貌であった。


 ――子犬かな? いや、子犬にしては、なんか違うような……? なんだろ?


 ゆっくりと近づく美奈の足元で、ぱき、と音がした。枯れ枝を踏んだのだ。それに気付き、その小さな生き物は後ろを振り返った。その顔を見て、美奈は仰天した。

 まるで、悪魔のような顔――その細い目は血のように赤く、歯は鋭く尖り、鼻はそぎ落とされたかのように平坦だった。その右手には研ぎ澄まされた小さな短剣を持っており、木の根元から掘り出した昆虫をがりがりと齧っている。


「やだ、なにこれ、キモい!!」


 美奈は思わず悲鳴を上げた。その生き物も美奈が突然視界に入ったことに驚いた様子で、手にした短剣を振り上げて叫び声を上げた。


「ギギギーーー!!」


 そしてその生き物――この世界では小鬼ゴブリンと呼ばれているのだが――は、短剣を片手に美奈に飛び掛った。美奈は慌てて身をかわしたが、小鬼はその身に纏った白い布の端にしがみついてきた。そしてその布を、何度も何度も短剣で突き刺した。布がびりびりと破れる音がした。


「ちょっと、何!? うわ、やめて!」


 なんとか小鬼を振り落とそうと布の端を振り回したり、飛んだり跳ねたりを繰り返す美奈だったが、小鬼は依然としてその白い布にしがみついて離さなかった。そこへ、息も切れ切れになった老人が追い付いてきた。


「やや、あれはゴブリン! これはいかん! クリス様、魔法を使います! どうぞお下がりください!」


 そんな老人の声も混乱した美奈には届かず、美奈はただ悲鳴を上げながら白い布にまとわり付いた妙な生き物を引き離そうと暴れていた。


「やだ! やだ! ちょーキモいんだけど、コレ! 離れてよ!」


 それを見た老人は、もはや一刻の猶予もならん、と意を決してなにやら呪文を唱えだした。


「クリス様、避けてくだされ! 炎の精イーフリートよ、我に力を貸したまえ! "フレア"ー!!」


 そう老人が叫ぶと、彼の手から巨大な火の玉が飛び出した。そして、それはそのまま美奈の白い布にまとわりつく小鬼の元へと飛んでいった。すると、ごおん! という爆音と共に、美奈の目の前が真っ赤な炎に包まれた――




* * *


 ――優しい声が響いていた。


「美奈……美奈……、起きなさい……」


 その声に起こされ、美奈は目を開いた。美奈の母親の顔がそこにあった。それを見て、美奈は呟いた。


「お母さん……?」


 母親の顔を見て、美奈は心からほっとした。母親はいそいそと美奈の服を用意していた。


「さあ、美奈、お医者さんにいくわよ。気分はどう? 起きても大丈夫?」



 ――夢だった。よかった……。


 先ほど見た小鬼の顔が脳裏をよぎったが、それもすぐに忘れた。美奈は母親の問いに答えた。眠る前まで熱にうなされていたのが嘘のように、気分はすっかり良くなっていた。


「うん、なんだかさっきより良くなったみたい」


「それは良かったわ。お薬が効いたのね。でも念のためにお医者さんにも診てもらいましょう」


 起き上がろうとした美奈だったが、ふと気になって布団の中を覗き込んだ。

 当然、そこにはショーツ姿ではなく、パジャマを纏った自分の身体があり、彼女はもう一度安堵した。




* * *


 ――カンパレア王国の筆頭騎士、クリスティーナが目を開けると、そこには黒く焼け焦げたゴブリンの死体があった。纏っている白い布の端がわずかに焦げ、身体のあちこちに黒いすすが付いていた。それは、彼女の目の前で炎魔法が使われたことを物語っていた。


 ヘモドロスが、心配そうに彼女に駆け寄ってきた。


「クリス様! ご無事ですか!?」


 クリスティーナはそれを一喝した。


「ヘモドロス! どういうつもりだ、こんな至近距離で炎魔法を使うなどと!!」


 ヘモドロスは、驚いた顔つきでクリスティーナを見た。


「はっ!? 申し訳ございません、クリス様。しかし、また取り乱されていらしたようでしたので……」


「……む? そうか? そういえば木の洞穴の中で休んでいたはずだが、いつの間か外に出ておるな――」


 辺りを見渡したクリスティーナは、ふと自らの格好に気が付いた。


「な、なんだ、この、はしたない格好は……!? どうやら熱にうなされて、また見苦しいところを見せてしまったようだな。すまんが、このことは他言無用に頼む、ヘモドロス……」


「い、いえ、そんな恐れ多い……それより、もうお加減はよろしいので?」


「うむ。先ほどよりは随分とすっきりとした気分だ……。食事を摂ったらすぐに発つぞ。オーガの巣も近づいておる」


 そう毅然とした態度で語り、クリスティーナは元いた木の洞穴へと向かった。



 ――「これは……?」


 クリスティーナは洞穴内で甲冑の横に転がっている物体を見つけ、手を伸ばした。そしてそれを左手でコンコンと叩きながら、しげしげと興味深そうに見つめた。


 「軽く、そして丈夫そうだ……なんとも不思議な素材でできた器だな。先日手に入れた妖精フェアリーの道具と手触りが似ている……。これも持ち帰って学者に調べさせてみるか」


 そう呟き、クリスティーナはその物体――白いプラスチック製のコップを麻袋へ入れた。コップの横には、銀色の小袋――『パフロンA』と表記された風邪薬も落ちていたのだが、クリスティーナはそれには気付かないまま洞穴を後にした。そして誰も居なくなった洞穴の中で、その風邪薬の小袋は静かに光っていた。

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