認知の歪み

持明院冴子

認知の歪み

 ホームセンターの花苗売場で、政美は薔薇の苗を持ったまま考え込んだ。

(これ以上増やしたくないけど……)

 今だって狭い庭いっぱいに、立錐の余地がないくらいに薔薇の鉢が置いてある。趣味が薔薇栽培ゆえ、どうしたって色とりどり形も様々なものが欲しくなるのは凝り性の欠点だった。

だいいち、物を増やす事は害悪だとも思う。六十歳になり、認知症の義母の介護を始めてみてそう思うようになった。

好きなものを買うのは無駄だ。義母の喜美江を引き取る時、彼女の大量にあった洋裁の道具や布地に眩暈がしたのだ。義母は自分の服はすべて自分で作るくらいに洋裁の達人だった。プロの道具を駆使してオートクチュール並の服を作っていたのだ。だが認知症になった途端、それらは膨大なゴミと化した。

恐ろしかった。うずたかく積まれた物が醜い欲望の塊みたいに見えた。その人の毎日の積み重ねが一瞬にして無意味なゴミに変化するのは、政美にとってはかなりな衝撃だった。

自分はあの轍を踏まないようにしよう。自分の楽しみを増やさずにこの世から早く消えて行く事こそが清く正しい事ではないだろうか。ずっとそう思い続け、ここ数年間は薔薇の鉢を増やしていない。

(やっぱ要らない……駄目だわ)

 心を鬼にして持ち上げた鉢を置いた。じつはこれは、前々からほしいと思っていた品種なのだが、人間は諦めが肝心だと思う。

(そうよ、育てるのが難しいに決まってるわ……病気に弱いかもしれないし)

 だが政美はまだぐずぐずしていた。薔薇の鉢から少し離れて、欲しくも無い他の草花を見て回り、また戻ってきてしまった。

蕾がつんと尖った苗だった。左右に展開した若葉も理想的で美しい。病気に強そうに見えなくもない。

 だがこの鉢を買って帰ったら、置くスペースを確保しなければならない。それは現況では薔薇の鉢を一つ捨てることに他ならなかった。

 正直、要らない鉢はある。花の色も姿も気に入らない薔薇の鉢。随分前に義母からもらったミニ薔薇だ。育ててもう七年目になるが、どうにも好きになれず、ついぞんざいに扱ってしまっている鉢。あれを捨ててしまえば、置き場所が出来る。

(でも……)

 いくら気に入らなくても、まだ生きて元気に咲いている。前後左右に枝を広げ、憎まれっ子世に憚るのである。

(頑丈で我が儘で、まるでお義母さんみたいなのよね……)

 だとすると気に入らないあの鉢は、投げ捨てた方が良いのではないか。政美はもう一度売り場を回り始めた。次に薔薇苗コーナーにたどり着くまでに決めてしまいたい。

 腕時計を見た。そろそろ帰宅しないとヘルパーの厚澤さんが帰る時間になる。

義母はヘルパーが大嫌いで、政美以外の世話になりたがらなかった。介護サービスを受け入れさせるのも一苦労だった。

こうして表に出られるのは、年寄りに対して事務的なベテランヘルパーのお陰である。

厚澤さんは「ハイハイ」と言いながら老人の全然話を聞いてない。扱い方も少し乱暴なのだ。義母が委縮する原因である。当初は酷い暴言で厚澤さんを叱っていたが、やがてそれも収まってしまった。

 政美はまた薔薇の鉢の前まで戻ってきた。何度見ても衝撃の安さだ。

 政美はもう一度その鉢を持ちあげた。持ち歩きもそんなに厄介では無い。やっぱり連れて帰ろう。

 何せストレスフルな生活をしているのだから、ほんのちょっとだけ、好きなもの美しいものの世話でそれを解消したいではないか。

置き場所は後で考えればいい。

それは義母をうちに引き取った時と同じセリフだった。


 義母・喜美江の住む関西の某市から突然電話があったのは五年前の事だ。驚きはしたが、正直言えば「来るものが来た」という感じだった。

 対話の相手は喜美江が利用している介護ステーションのケアマネだった。

「お母様の認知症が大分進みまして、これ以上独り暮らしは難しいかと……」

 だが、どうしろと言うのか。こちらは遠く離れた埼玉県で、晩婚で作った子ども三人を、大学卒業させてやり、還暦も無事迎え、やっと夫婦水入らずの生活が始まったばかりなのだ。

「こちらも手一杯なんです」

 取りあえず無理をアピールする。だが相手は手慣れているようだった。

「近隣に御迷惑が掛かっているんですよ。夜中に突然電話を掛けて来たり、ピンポンを押したりして、こちらに苦情の電話が掛かってきているんです。言いにくいですが、本来でしたら息子さん夫婦が受ける苦情……ですよね」

 深夜の電話は経験済みだった。

自分たちの所にも、午前二時、三時に突然電話が掛かってくるようになってきていたのだ。喜美江には今が夜中だという意識が無いようだった。

「お義母さん、今何時だと思っているんですか」

 壁時計を見上げる気配がする。

「今、午後三時でしょ」

「違います。今午前三時です」

「嘘」

「外を見てくださいよ。真っ暗でしょ?」

 突然電話がガチャ切りされる。

最近はこんなやりとりを頻繁にしていたのだった。酷い時には十分おきに電話が掛かって来た。十分前に電話したという認識が、義母は欠落していたのだ。ここから想像すれば、近隣の苦労も被害も分かる気がする。

政美は受話器を強く握り、ケアマネに言った。

「でも、私たちにどうしろと」

 一度だけ、埼玉に家を買う時に同居の打診をした事がある。その時の喜美江はまだ若く、充分な蓄えもあり、家事手伝いとしてみんなのために使えそうな人材だったのだ。それを今更、壊れてから「引き取ってくれ」と言われても困る。

「私たちだって、まだ余裕がある時に義母に同居を提案したんですよ。その時は嫌だと言っていながら、うちが一番苦しい時期を脱した途端に面倒見ろなんて、酷いです。拒否したのは義母の方なんですから」

「……でも、行政にも、出来る事出来ない事があるんです。深夜の対応は無理です。かといってこのまま放置しておいたら……」

「それは……」

「知ってますよね。認知症って、何が起こるか分からないんですよ。一人で電車に乗って随分遠くまで行ってしまう人もいるし、車の運転をしてしまう人もいるし、高速道路に自転車で入り込む人もいました」

「……」

 背筋が寒くなった。認知症の老人が事故を起こし、JRから損賠賠償請求を起こされた事件が思い浮かぶ。やっと子ども三人の大学までの学費を払い終わり、家のローンを払い終えた今、損害賠償など考えたくもない。

 結局、息子である政美の夫と直接話し合う事になり、次の日曜に夫がとんぼ返りで義母の所に行った。ケアマネさんとヘルパーさんとの三者面談を終えて帰って来た時には

「うちで引き取る事になったから」

 だった。

「ええっ、無理よそんなの」

「他に方法無いんだ、仕方ないだろう」

 政美は深いため息をついた。もちろん消去法で行けばうちで引き取るしか道はないと分かっている。でもそれでも、直接会って話せば何か良い方法が浮かぶのではないかと、藁にもすがる思いであの時夫を送り出したのだ。

 パートなどに出ず、一緒について行けば良かった。だが一緒に行ってどうなっただろうというと、やはりどうにもならなかったかもしれない。

夫の帰宅後、直接向こうのケアマネに電話して二時間ほど電話でやり合ったが、結局負けてしまった。

こちらはあまりにも何も知らなすぎた。介護老人を押し付け合うバトルにおいて、敵は老人介護行政のプロフェッショナルだ。もはや崩壊寸前の介護行政だけに頼るのは不可能だと彼女は言いきった。

「今が転居のチャンスだと思います。これより先、もっと認知症が進みますと、酷い状態のままそちらに引き取ってもらう事になります。今ならまだ、少しずつ手立てを考える余裕があります。とにかく我々だけで苦情が出ないよう夜間の独居老人を支えるのは難しいです」

夜間の奇行や徘徊は、要介護のレベルが上がって施設入居の対象になるらしい。

「田舎はどこも行政が青息吐息です。介護施設に全然空きの無いこちらよりも、新しい施設がどんどん作られているS市の方が入りやすいですよ」

そう畳みかけられて、政美たちが引き取ったのだ。

 ところが政美たちの住むS市で新しく出来た施設は、設備やサービスが良い分高かった。引き取ると言ってから分かった事だが、義母は年金の掛け金を払っておらず、無年金に近かったのだ。

義父が死んだ時あんなにあったはずの貯金もゼロに近かった。迂闊にもそれを知ったのは、引っ越しの手伝いの最中だった。

 何かの詐欺に掛かったのだろう。借家を畳む時、大量の健康グッズがあった。羽毛布団も山ほどあった。着もしない高級着物もうず高く積まれていた。査定してもらったら二束三文だったが、政美たちの家にはおき場所も無いから全部引き取ってもらった。

ずっと独り暮らしをさせてきた罰だと政美は感じた。我々に対する天罰だと。

 結局、生産能力のない老人一人を引き取るのがどんなに大変な事なのか、政美も政美の夫もまるで分かっていなかったのだ。政美の夫などは介護ステーションの人たちにおだてられて子供じみたヒーロー感覚から胸を張ったに過ぎなかった。

 彼は昔からおだてに弱かった。喜美江は老婆になっても「順ちゃん、順ちゃん」と夫を頼るそぶりを見せた。実の息子のおだて方は、認知症になっても忘れないようだ。

「こうなったら、何とかなるわ」

 政美としてはもうそう言うしかなかった。幸い、今の状態だったら介護保険内のサービス利用で何とかなりそうだし、デイサービスに行ってもらえばパートも何とか続けられる。

(もうじき死ぬんだし……)

 そんな気持ちも無かったわけでは無い。久しぶりにまじまじと見る喜美江は、だいぶ縮んで小さくなっていた。持って三年くらいかな、と根拠もないがそんな感じを受けた。

三年前後なら何とか貯金の切り崩しでやっていける。


「済みません、ただいま戻りました」

 また必要以上に丁寧な言い方をしてしまった。この時間までは私の自由時間であって、相手の勤務時間なのだから、こんな風に酷く済まながる必要などないはずだ。

どうしてへりくだってしまうのか。彼女は単に契約で来ているに過ぎないし、その契約だって要介護四の人間全員に与えられる権利として行使しているだけだ。

 それなのについ及び腰になって頭を下げてしまう。「嫁」という目で見られるからなのか、あの扱いづらい義母を押し付けてしまった罪悪感なのか、ビジネスライクになれない自分がとても嫌だ。最近の政美はそんな小さな事でも落ち込んでしまう。

 厚澤さんからの返事はなかった。心の中に重い石がゴロンと転がる。

「ちょっと遅くなっちゃったかしら……あの、済みません」

 厚澤さんはすでにコートを身に着けていた。やはり義母に辟易しているのか、表情が硬かった。

「……今日はおむつを替えて車いすで外を見せてきました。詳しくはここに書いてあります」

 連絡ノートを手渡される。ふと、女子高時代の交換日記を思い出した。

 あの頃は良かった。今思えばあの頃の自分は若さと可能性が永遠に続くと思っていた。いつまでも元気で、いつまでも記憶力が良くて、とっさに走っても息が切れず、何でもできると思っていたのだ。年よりには親切にしなければならないと思っていた。それが唯一の正義だと信じていた。

「おばあちゃんは?」

「ベッドで寝てます」

 内心むっとした。今寝かせてしまったらまた夜中に起きだしてしまう。こちらは深夜の睡眠時間が取れないという事は十分知っていたはずなのに、どういう事なのか。これがプロの仕事なのか。

(やっぱりヘルパーさんを替えてもらおうかしら)

そう思った瞬間、笑顔がよりスムーズに出た。一介の主婦である自分が人事権のようなものを持つのは案外楽しくて、今までにもヘルパーやケアマネをチェンジしている。

だがこちらは決してクレーマーというわけではないし、いちゃもんが主目的ではない。「昼は起こしておく」というこちら側の要望をきちんと呑んでくれる人を求めるのは当然の権利だろう。

 厚澤さんが出て行った。政美はダイニングの椅子に腰かけて連絡ノートを開いた。

 いつも通りの風呂介助とおむつ替え、車いす使用有りの公園散歩だった。

田舎育ちの義母は足腰がかなり強く、本当は車いすなど必要無い。だがそれに乗せていないとさっさと歩いて行ってしまう。だから手慣れた厚澤さんは、車の来ない安全な公園までは車いすに乗せて行くのだ。

(おばあちゃんを歩かせると大変だものねえ……)

運動不足になってしまうが車いすは仕方のない事なのだ。だが政美は内心で減点一をカウントした。厚澤さんの減点が溜まったら今後の事をまた考えよう。

緑の罫線の上の文字を目で追う。取り敢えずおむつを替えていてくれて良かった。そこには(大)と書いてあったからだ。


 介護生活五年を超えるが、いまだに義母のおむつ替えだけは心がざわつく。

何が嫌だと言って、あの美人で意地悪で気位が高くて、決して息子の嫁を認めなかったあの女性が、みっともない姿をさらすというその事が我慢ならない。

 自分でも意外だった。介護を始めてさらに認知症が進んできていた時、もっと意地悪い気持ちで対峙出来ると思っていたのだ。おむつ替えが楽しみでさえあった。その時が来たら思い切り辱しめてやろうとさえ考えていたのだ。

 ところがいざ本当にそのような状態になってみると、意地悪は出来なかった。それよりも、早く死んでくれと強く願うようになった。

 可哀想ではないか。自分がもし同じ立場になったら、絶対早く死なせてくれと思う。他人に排泄の始末を任せるなど、ぞっとする。だいいちおむつの中に排泄したくない。

 次は私の番なのかと思うと足がすくむ時がある。介護を始めてから人生の終焉が一層鮮やかに見えてくる。認知症発症は自分ではどうにもならない。恐ろしい。

(私はピンシャンコロリで死にたいわ……)

 義母も同じような事を言っていた。だが人間は認知症には勝てないようだ。

こちらに来て新しく着いたヘルパーの厚澤さんは「認知症と戦ってはいけない。受け入れないと」といつも言う。認知症患者の言う事をいちいち否定したり正したりしてはいけないのだそうだ。何故か聞いたら彼女はこう言った。

「頭の中が混乱するからです。認知症は出来るだけ脳に強い刺激を与えないようにした方がいいんです。運動や反復行動はいいですけど、突然の変化は認知症を悪化させるんですよ」

「それ、もっと早くに知りたかったです」

 かなり立腹したのを覚えている。引っ越しして新しい環境に来た途端、義母の認知症が急に悪化してしまったからだ。引っ越し前は粗相などした事もなかったが、引っ越し後から粗相が始まった。

 最初は恥ずかしがってこっそり自分で洗っていた。それを初めて発見した時、今までの意地悪を仕返しするチャンスだと思った。

 だが政美にはそれが出来なかった。ヘルパーさんに「そっとしておいてあげて下さい」と先手を打たれたせいもある。

「恥ずかしい事を指摘されると、頭が混乱してますます認知症が進んでしまいます」

 その言葉は呪文のように政美を縛った。これ以上認知症が進めば、自分がもっと大変になるからだ。

(でも……)

 今思えばそれは無駄な我慢だったような気がする。認知症は何をやってもやらなくても進むものだというのは経験により分かった。

だったら五年も介護を引っ張って、こちらの生活を破たん寸前まで追い込む事は無かった。混乱させ続けて認知症を進めてしまって、健康維持が困難になるくらいになってもらった方がお互いにとって良かった。

地獄だと思った。他の人よりはうちのおばあちゃんは楽な方だと、それは分かっている。それでも今の状況は政美にとって十分地獄だった。

自分たちの老後資金を切り崩して世話をしているのだ。だが世話を良くすればするほど彼女は長生きをしてしまう。長生きをされればされるほど、我々が我々のために残してきた貴重なリソースを喰う。それどころか今や借金を考えなければならない状況に陥ろうとしている。

後戻りが出来ないのも認知症介護だ。自分たちが善良であればあるほど、この地獄が深く暗くなり、這いあがれなくなる。

政美は深いため息をついた。最近どうも疲れが取れなくて、気分も沈みがちなのだ。


 義母は一階の和室のベッドに寝ている。ふすまをそっと開けて覗いてみる。

老人特有の匂いが鼻を打った。外から帰ってくると普段気にならない臭いが気になる。政美はわざと音を立ててはき出し窓を開けた。

 振り返って見たが義母は口を開けて寝ていた。本当に別人のように縮んでしまっている。引き取って五年、一体いつまで生きるつもりなのだろう。

 貯金はとっくに底をついた。政美のパート収入だって微々たるものだ。仕方なく、定年退職した夫が道路工事の誘導員として働き出した。

 政美はその事にも不満を感じていた。本来なら実の息子である自分がボケた母親の世話をするべきなのだ。そうしたら政美はフルタイムで働ける。

だが彼はそれを一切拒否した。五秒おきに壊れたレコードみたいに同じ質問を繰り返す自分の母を置いて逃げるように外に出たのだ。

 あんなに溺愛していた息子に避けられている。十年前の彼女がこの事を知ったら何と言うだろうか。嫁の差し金と思うだろうか。

(でも、一番の理解者は多分私ですよ、お義母さん)

 ずいぶんひらべったくなった身体に手を掛けて揺さぶった。

「おばあちゃーん、起きてくださーい」

 呼びかけるときはつい、幼児に語り掛けるような口調になってしまう。実際幼児みたいに退行する時があるのだ。やたら手を繋ぎたがったり、いないと不安げにキョロキョロしたり、そういう時は姑と嫁の線をたやすく越えて本気で手を繋ぎ合える。

 神様がくれた時間なのかなと思う時すらあった。あんなにいがみ合っていた人と、こうして幼児と母のように身を寄せ合い、その一瞬を得難いもののように思う。

 だからこそ同じ人間のおむつを替えたくなど無かった。使い終わって汚くなった生々しい部分は見るに堪えない。

 自分だったら舌を噛み切りたい。義母だって同じだと思う。老人介護をし始めてから、自分もかなり情緒不安定になってしまった。心が疲弊しているのだ。

「おばあちゃーん、寝ちゃ駄目よー」

 またもや小刻みに揺さぶる。義母は薄く目を開け、経年劣化で濁りかけた黒目を少し動かしたが、また目をつぶってしまった。睡眠欲には勝てないらしい。

 ああ、このまま眠るように死んでくれたらいいのになあと思う。

 決して意地悪な気持ちではない。認知症で尊厳が引き裂かれた姿を見ていたくない。義母だって本来ならこんな自分を見せていたくないだろう。

 政美は薄い身体を揺さぶり続けた。何としてでも起こさないと、夜中にまた活動し始めてしまい、こちらの睡眠時間が削られてしまう。

「おばあちゃん、起きて」

 思い切って強く揺さぶった。


 *  *


「おばあちゃん、起きて」

 いきなり耳元で怒鳴られ、喜美江は心臓が止まるほど驚いた。

 目を開けてみると、ぼやけた景色が見えた。しばらく瞬きをしていたら次第にはっきり見えてきた。知らない小母さんが自分の肩に手を掛けて、覗き込んでいる。

「誰?」

 声を掛けたが相手は返事もしない。腹が立った。いきなり他人の寝室に入り込んで怒鳴るなんて、非常識すぎる。

(こないだ私の携帯を盗んだ泥棒に違いないわ)

 あれが無いとお友達に電話を掛けられない。困っているのだ。

 その女がこちらの手を握ったところで反射的に強く振り払った。爪が相手の手の甲に当たったが構うものか。

「痛っ」

 女が手をひっこめたところで喜美江は身体を起こそうとした。

 気持ちではさっと飛び起きた。

身体が付いて行かない。力の入らない両手を使い、身体をねじって横向きに起き上がる。女が脇の下に手を入れて引っ張ってくれた。泥棒にしては随分親切なのだった。

 ああ、思い出した。これは順一の嫁の政美だ。随分老けたわね、と鼻で笑う。

紹介された時から気に入らなかったあの女。順一の嫁は自分で選ぼうと思っていたのに。しかも子供が出来たから結婚しますなどと破廉恥な事を言った。順一が騙されたのだ。あの子は小さい頃から気の優しいところがあって、いつか悪い人間に騙されるのではないかと気になっていたのだ。

 喜美江の内心は怒りの渦が三つも四つも沸いた。またこの嫁に会ってしまった。そしてどうして嫁のいる場所で油断して寝てしまったのか。小さな順一はどこにいる。以前の自分には考えられないミスだ。

 ようやっと上体を起こせた。政美が顔を覗き込んできた。

「おばあちゃん。昼は出来るだけ起きて、夜にちゃんと寝てくださいね」

「……」

 夜に寝ない馬鹿がどこにいる。まったく他人(ひと)を馬鹿にして。

「何か飲み物を持って来ましょうか」

 喜美江は反射的に頷いた。口の中をスッキリさせたかった。

 政美が和室を出て行った。喜美江はようやく部屋の様子を見渡した。

(あら、ここ、どこかしら……病院?)

 慣れ親しんだ自分の家では無かったのだ。不安で胸がどきどきした。

頭に手をやって思い出してみる。どうしてベッドの上に座っているのだろう。病院にしては作りが変だから、個人病院かしら……。

 断片的に覚えている。買い物に行く途中だった。順一の手を引いて歩いていて……。

 見知らぬ女が入ってきた。手に小さな盆を持っていて、上にコップに入れた麦茶が載っている。

「まあまあ、ありがとうございます。とんだお世話になりまして」

 喜美江は両手をついて頭を下げた。顔を上げると見知らぬ女が戸惑って表情を曇らせているのが見えた。

(あ、この人は私の知っている人!?)

 だとすると、とんだ失礼をした事になる。喜美江の心臓がひやりとした。子供の頃から他人の顔を覚えるのが苦手で、良くこうして失礼を重ねてしまったものだ。

ともかく寝起きで頭の中がゴチャゴチャし過ぎているのだ。落ち着いて良く考えてみよう。今朝は……そうだ、梨の収穫の手伝いに行くつもりだったのだ。

(芳子姉さん……)

 自分の姉を忘れるとは何事だろう。最近どうも脳の働きがおかしいのには閉口だ。睡眠不足のせいかもしれない。いつも眠いような気がする。眠りが浅いせいだ。

「芳子姉さん」

 声を掛けると芳子姉さんは驚いていた。

「は、はい」

 妙な返事だった。喜美江はコップを受け取って麦茶を口に含んだ。熱っぽい口の中が一気に冷えて気持ちがすっきりした。

 とにかく帰らなければ。

 喜美江はコップを女に押し付け、立ち上がった。

「おばあちゃん、目が覚めましたか」

 おばあちゃんって誰。

「今日は何月何日かしら」

 梨の収穫にしては季節が違い過ぎやしないだろうか。

「五月二十六日ですよ」

「ごがつ?」

 床に両脚を付けて立ち上がった時、ゆらりと身体が傾いだ。芳子姉さんがさっと手を出して支えてくれる。

「芳子姉さん、畑に行かないでいいの?」

「……私は芳子姉さんじゃないです」

 言いにくそうに女が返してきた。喜美江は相手の顔をまじまじと見た。

(ああ……そうか……)

 急にすべてを思い出した。田舎から息子夫婦の家に引き取られたのだった。

 本当にどうした事だろう。頭の奥に記憶がきちんとしまってあるのは分かるのに、それをきちんと取り出す事が出来ないでいるのだ。

「あなた、政美さん」

 相手の顔がパッと明るくなった。

「お義母さん。目が覚めましたか」

 聞かれて一瞬考えてしまった。目が覚めたとはどういう事だろう。周囲を見渡すと背後に寝乱れたベッドがあった。

「まあ、もうこんな時間」

 言いながら腹が立った。嫁のくせに起こし方が乱暴だったからだ。

「すっかりお世話になってしまって……じゃ、これから帰ります」

 政美は眉をひそめて少し大声を出した。

「帰るって、どこに帰るんですか!」

 えっと思って少し考えて喜美江は言った。

「どこって……那留滝村に」

 家に帰ったら鶏に餌をやって風呂の水汲みをしないとならない。確か今日は自分の当番だ。

「分かりました。じゃあ、向こうで支度をしましょう」

 急に女がねこなで声になった。この人は誰だろう。喜美江は眉をひそめた。


 *   *


「那留滝村に帰る」と義母がまた言った。

 毎度のことながら、この台詞を聞くと政美は胸を締め付けられる。何百回となく繰り返される言葉の応酬が政美にとっては苦痛だった。

 那留滝村というのは義母の生まれ育った土地で、栃木の山奥にひっそりと存在していた村だ。今では廃村となってダムの下に沈んでしまっている。

 那留滝村の話が突然出る時、それは義母が親類縁者を思い出す時でもあった。

「おばあちゃん。那留滝村はもう無いんですよ……」

 これは言わないわけにはいかなかった。しっかり認識させないと、目を離した隙に一人で外に出てしまう可能性が高まるからだ。

「無いって……」

 何百回も見た、うろたえた表情だった。

「お父さんお母さんが待ってるし、夕方には帰らないと」

「お義母さんの、お父さんお母さんは、とっくに亡くなってますよ」

「えっ」

 認知症には物凄く衝撃を与える言葉だと思う。だがこの場でここを理解してもらわないと、自分は面倒見切れない。「村に帰る」と言われて、てこずるからだ。

「お父さんも、お母さんも、死んだの?」

 政美は深く頷いた。無言なのは、言葉よりは刺激が少なかろうと思ったからだ。

 喜美江の両目にみるみる涙があふれてきた。政美はふうと息を吐いた。

 義母は一体何百回、両親の死を突然告げられるのだろう。認知症を激しく憎むのはこういう時だ。喜美江は酷い時には五分おきに、父母姉妹全員が物故している事に衝撃を受け、むせび泣くのだった。

「お父ちゃんもお母ちゃんも……死んだの? いつ?」

「大分前。お父さんは二十五年、お母さんは十六年前」

 濁りかけた目から涙がポタポタと落ちた。

政美まで胸が苦しくなる。この人は何故かこういう時だけは小さな女の子みたいに無垢になってしまうからだ。

 クックックとむせび泣きながら、喜美江は次の言葉を言った。今思いついた言葉なのだが、もう何百回となく同じ流れをくり返している。本日でもこれが三回目なのだ。

「じゃあ、芳子ねえちゃんの、とこに行く……」

 芳子姉さんは那留滝村の隣村である小沼村に嫁していた。

「芳子お姉さんも、とっくに亡くなってますよ」

「えっ」

 今度も驚愕している。今日三回目に聞く話でも、今の喜美江にとっては初耳なのだ。今度こそ打ちひしがれてしまった。見るのも痛々しいくらいに悲しんで泣いている。

 政美は義母の小さく萎んだ身体をそっと抱き寄せた。

「嘘……いつ……」

 むせび泣きの背中を撫でながら政美まで泣きたくなってきた。あのしっかり者の義母が壊れてしまったのだ。

「お義母さん、今は平成二十八年で、お姉さんのお葬式は平成十八年でしたよ」

「ど、どうして、私に、知らせてくれなかったの……」

「知らせましたよ。順一さんと一緒に車で行ったじゃないですか」

「私が!?」

 それには答えず、政美は喜美江の肩を両手で持った。

「おばあちゃん、あっちでテレビ見ながらもう一杯麦茶を飲みましょうよ」

 何か新しい刺激、味覚や聴覚、視覚があれば、今泣いた事は忘れてくれる。政美はポッキリ折れそうな弱弱しい身体をそっと押し、リビングに喜美江をいざなった。

椅子に座らせ、テレビを付けてやる。喜美江は政美が差し出した老眼鏡をかけ、両手を揃えて膝の上に置き、背筋をしゃんと伸ばしてテレビのワイドショーを見始めた。

 その姿を見届けてから政美は台所に入った。新しい麦茶をコップに入れながら、あと何年この生活が続くのかとため息をついた。

 無年金の老人を抱えているため、家計は相変わらず厳しかった。いっそのこと喜美江の扶養をやめて世帯分離し、生活保護を受けてもらおうかとも思った。彼女が生活保護を受けてくれれば社会保障も今までよりずっと手厚くなり、我々の生活もだいぶ楽になる。

 ところが夫は生活保護には大反対なのだ。「みっともない」「育ててくれた母に申し訳ない」と言う。

 政美は冷静に話したつもりだった。自分たちも還暦を過ぎている老老介護な事、自分たちが介護要員になった時のための貯金を切り崩している事を感情的にならないように伝えた。

 だが夫は激昂し、政美の頬をぶったのだ。初めて手をあげられてしまったショックで政美は呆然としてしまった。

 それ以来、生活保護の話は立ち消えになってしまった。厚澤さんにそれとなく聞いてみたが、彼女は世帯分離に反対だった。

「まだご家族が支えられるうちは、申請通りませんよ」

 誰も政美たちの老後を心配してくれない。

不安と怒りとで頭が一杯になると、政美は薔薇の世話をしたくなる。庭に出て葉や茎の様子を見て蕾を愛でているうちに心が落ち着いてくるから。今だって義母の涙を見て庭に出たくなってしまった。

「おばあちゃん、麦茶どうぞ」

 リビングに入った途端、政美は棒立ちになった。さっきまで座ってテレビを見ていたはずの義母が忽然と消えているではないか。

 人気のないリビングにテレビの笑い声が響く。耳の遠い義母のために音を大きくしてあげているのだ。政美は急いでテレビを消し、トイレを覗いた。浴室も覗いた。和室と二階もチェックした。狭い文化住宅ではもう隠れる場所が無い。

 最後に玄関に行くと、義母の介護シューズが消えていた。杖は置いてある。政美は慌ててサンダルをつっかけ、家の外に飛び出した。

「やだ……どうしよう……」

 小走りになって道をあちこち探してみたが、姿が見えない。右に行けば大通り、左に行けば川がある。夫の激怒が脳裏に浮かぶ。

「おばあちゃーん」

 なりふり構わず大声を出した。

「どうしよう、どうしよう……」

 額から汗が垂れた。こうしているうちに義母はどんどん遠くに行ってしまう。

 政美は一旦家に戻り、靴に履き替えて自転車にまたがった。そして必死で漕いだ。道なりにどんどん進んで大通りまで行こう、そこで見渡していなかったら今度は川に向かおう。

 必死で漕ぐ。頭の中を認知症の老人が電車にひかれた事件が蘇ってきた。

ここから線路まではかなりあるが、認知症を甘く見てはいけない。ボケてしまって筋肉が疲れてしまっている事も、自分のポテンシャルがどのくらいなのかも、忘れているのだから。物凄い距離を物凄い速さで歩くとも読んだ事がある。

「どうしよう、どうしよう」

 これでもう会えなくなったら後味が悪すぎる。最後に見たのが泣き顔だなんて、やめて欲しい。天に祈りながら政美は自転車を漕いだ。全身が汗びっしょりになって、太ももが笑ってきた。

「うわっ!」

 段差で滑って自転車ごと倒れ込む。膝と肘を強く打ってしまった。派手な音に周囲の人が寄って来た。

「大丈夫ですか?」

 言いながら自転車を起こしてくれたのは見知らぬ電気工事の人だった。

「す、すみません。この辺で、老婆を見ませんでしたか」

「おばあちゃんは何人か見ましたけど……何か特徴ありますか?」

「え、えっと……」

 聞かれても今日何を着ていたのか答えられない。全体的に薄紫っぽい服だったような気もするが自信が無い。認知症を笑えない。全然覚えてない。

政美は唇を噛んでしばらく考えていたが、突然閃いた。

「おばあちゃんは認知症なんです。疲れ知らずなんです。なので歩くのは異常に早いかもしれません」

「ああ、脚の早いおばあさんなら、さっきすれ違ったよ」

 指差した方はずっと先に駅がある。もしかしたら、突然駅の存在を思い出したのかもしれない。

「あ、ありがとうございます」

 政美は血の出た膝をそのまんま、自転車に飛び乗って漕ぎだした。真っ直ぐな道は左右に街灯があって明るい。これなら認知症でなくてもどんどん歩いて行けてしまう。

 迷っている時間はない、こうなったら駅と決めて行くしかない。嘘みたいな力で漕いで、政美はわずか十五分で駅に着いた。途中で義母とは会わなかった。

 自転車を突き飛ばして倒し、駅の階段を駆け上がる。そして改札業務をしている若い駅員を捕まえた。しんどすぎて息が切れる。

「済みません! おばあちゃんが、行方不明なんですが、見ません、でしたか」

「女性のお年寄りは、何人かここを通りましたが……」

「認知症なんです! 多分わき目もふらずにズンズン進んで行ったと思うんです」

「うーん……それらしき人、いたかなあ。分からないですね」

 服装を急に思い出した。

「あっそうだ! スモーキーピンクの毛糸のチョッキを着てました! 下はウールのらくらくズボンです。そしてクリーム色の介護シューズ」

「そんなおばあさん、いたかなあ……多分見てないかな」

 若い駅員は実に頼りなかった。気の抜けたような声に、政美の身体から力が抜ける。しゃがみ込みたくなってしまった。

 気付いたら政美も泣いていた。自分も義母のように涙がすぐ出るようになってしまった。「認知症が移った」と夫には冗談で言っているが、心身共に疲れすぎなのか、忘れ物も多くなってきた。

 自転車は進む。無理して漕いだせいか、全身が痺れるように力が入らない。手すりにすがるようにして駅の階段を下りた。

あと何年この生活が続くのか。終わりが見えなかった。

思えば子育てだってつらかった。でもあれは終わりが見えた。子供は大きくなれば手が掛からなくなる。

だが認知症の老人は違う。世話をすればするほどこちらの負担が大きくなる。

まるで幸せとカネを喰う怪獣のようだ。喰えば喰うほど長生きをする怪獣。薔薇の木とは違う。薔薇の木は育てれば育てるほど悦びがある。癒しがある。

「もうほんとに嫌……」

 どうしてこんな思いをしなければならないのか。あと何年続くのか。そしてこの介護が終わったあと、私たちの老後資金はどうなるの……。

 痛む身体に鞭を打つようにして帰路につく。ゆっくり漕いでいるうちに、警察に電話する事を思いついた。

 家の前まで来ると、玄関に明かりがついているのが見えた。駐車場に夫の軽が止まっている。道路工事の交通整理の仕事から帰ってきたのだ。

 玄関を開けた途端、政美は目を丸くした。そこには夫の靴と、介護シューズが並んで脱いであるではないか。

「お義母さん!」

 慌てて靴を脱ぎ、リビングに入る。そこには仕事帰りの夫と、無表情の義母が向かい合って座っていたのだった。

「おい、お母さんが独りで歩いてたぞ。危ないじゃないか」

 いきなり文句を言ってきた。車で大通りを通っていて、母の姿を見つけたらしい。政美はホッとすると同時に無性に腹が立ってきた。

「台所で麦茶をグラスに入れている間に出て行っちゃったんだもの」

「目を離すなよ」

「無理よそんなの。だったらあなたが面倒みてよ」

「俺は働いて来たんだぞ。それで夕飯の支度はどうした?」

 カチンと来た。

「何よ! 私にばっかり文句言って」

 もうこんなの沢山だ。政美はエプロンをかなぐり捨て、またもや家を飛び出した。今度は自転車に乗らず、ズンズン歩いて行く。

 郊外の夜の道は寂しくて、政美はしばらく歩いていた。だが、歩いているうちに急にどうでも良くなってきてしまった。立ち止まって周囲を見ると、たまたまなのか、車も人も誰もいなかった。そして怖くなって引き返してしまった。

 帰宅すると、喜美江が急に激しい腹痛を訴えて吐いていた。夫と二人掛かりで救急病院に連れて行き、医者に症状を伝える。そうしている間にも喜美江は胃液を吐いている。医者の顔色が急に変わった。いくつかの検査を受けた。

 喜美江は入院病棟に連れて行かれた途端に点滴のスタンドを持って振り回して大暴れをした。一体あの痩せた体のどこにそんな力が残っていたのかというような激しいエネルギーだった。

 政美には見えた。これは入院イコール死という恐怖から来る抵抗なのだ。

「死んでたまるか」

 三十キロ台まで痩せた身体がそう訴えていた。

認知症でもやっぱり生きていたいのか、死が怖いのかという新鮮な驚きに包まれてしまい、政美は義母の大立ち回りを本気で止めようとしなかった。

 認知症患者は入院出来ないと言われ、追い返された。完全看護の場合、看護師の手に負えない患者は収容を拒否されるらしい。

翌日の外来では、政美だけが医者の前に座った。夫は外来の待合室で喜美江の手を握って励ます役を買って出ていた。

「検査の結果、おばあちゃんは末期膵臓癌、あるいは胆管癌でほぼ間違いないかと。この段階では手術は出来ませんね。気力体力的には全然問題なさそうなんですが」

 と言いつつ医者は苦笑した。昨晩の大立ち回りの件を看護師から聞いているらしかった。

「患部がかなり大きいですから」

「えっ」

 青天の霹靂だった。喜美江は身体が随分小さくなったとはいえ、食欲は旺盛だったし風邪一つひかない。ただ時たま原因不明の高熱に襲われていたが、それも数日寝ていると治ってしまう。病気らしい病気はそれだけだったのだ。

 医者によると、すい臓か胆管に出来た癌のせいで管が詰まっているのだそうだ。それが原因で周辺臓器が炎症を起こし、嘔吐・腹痛・高熱と言う症状が出ていると医者は言った。

 政美はあまりに驚きすぎて、医者の話が理解出来なかった。

「まず入院手術は無理です。そして治療方法は無しです。つまり、高熱が出て寝込むときは管が詰まってしまった時。回復した時は何かの拍子で詰まった管が通って炎症がひいた時なんで、今後はこの繰り返しかと思います」

「あの……あとどのくらい生きていられるんでしょうか」

「率直に言えば今日死んでもおかしくないですね」

「……」

 つまり管が詰まって破裂したり、詰まったまま炎症が収まらなくなったりした時が死ぬときらしい。

「むしろ今まで生きていた方が不思議ですよ」

「はぁ……」

 政美はこめかみを指で押さえた。昨日朝までは永遠に続くと思われるような苦しい日常だった。それがもうすぐ終わりと言われたのだ。状況が目まぐるし過ぎてじんわりと頭の芯が痺れてきた。

(夫に何て言おう)

 外で待っている夫にうまく伝えられるだろうか。

医者が先回りして看護師に何か言った。政美は医者の指示通り、夫の代わりに待合室で喜美江の手を握りしめ、代わりに夫が医者の話を聞きに行った。

 戻ってくる夫の顔が想像出来なかった。政美自身、夢を見ているような現実感の薄い午後三時だった。本当に介護生活が終わるのだろうか……。


 *   *


 喜美江の死は突然訪れた。いつものように胆管が詰まって苦しみ始めてわずか一日半の事である。

 死んだ事については喜美江が一番驚いているのではないだろうか。

次に驚いたのは自分だろう。あまりの衝撃に、しばらく頭の中に靄が掛かったようになってしまい、葬儀の準備などはすべて順一が執り行った。

 喜美江の遺体を見ても政美には何の感情も湧かなかった。ただ「疲れたなあ」という事だけだ。

 ここ半年ばかり、特に疲れている。そうかと思うと妙に情緒不安定になって、激怒したり泣いたりと忙しかった。

 政美は一人だけぽつねんと座っている。夫はスタッフとの打ち合わせや弔問客の応対で忙しい。

それにしても介護生活が終わったのは本当の事だろうか。喜美江がもうこの世にいない事がやっぱり信じられない。

 お棺の中の遺体の周りに花を置いてくれと葬儀会社の人間が言ってきた。政美は重い腰をあげて棺桶の前に立った。

夫が奮発した大量の白い花が、茎を短くして籠にたくさん入っている。それを葬儀会社のスタッフたちが持って近づいてきた。

薔薇、トルコキキョウ、菊、百合、全部真っ白だった。

花はいいなと思う。何度でも繰り返し咲く。茎は切っても切っても伸びる。清浄な命に満ち溢れている。花には病気はあれど、認知症は無いからだ

 政美は両手でそれをすくって喜美江の顔の脇に置いた。参会者は少なく、一人が大量に花を置かないと間に合わない。喜美江は両手で花をすくい、せっせと置いた。

 副葬品を入れ始める。順一が母親愛用の杖と介護シューズ、帽子を入れた。

最後に喜美江が、鉢から引っこ抜いて持ってきた薔薇の木を足元に置いた。それはホームセンターで買おうかどうしようか散々悩んだ末に買ったあの薔薇の苗だった。

薔薇の苗は立派に育って、青々とした葉を前後左右に展開していた。病気を案じたが杞憂に過ぎなかった。

「おい、何だよこれは」

 夫の順一が脇腹をつついた。

「これは私が一番大事にしている薔薇の木。おばあちゃんに冥途のみやげに持っていってもらうわ」

 順一の顔が恐怖に歪んだ。

「おい、これ、薔薇じゃないぞ。見てみろよ。これは椿じゃないか。こないだ俺が、間違いを正してやっただろ? これは椿の木だよって」

 政美はにっこり微笑んだ。

「ええそうよ。椿よね」

「お前、今、薔薇って言っただろ?」

「言ってないわよ」

「覚えてないの? ひょっとして認知症が悪化したのか」

「言ってないったら。悪化って何よ」

 政美はむっとした。そして次の瞬間、思い出したように手を打って喜んだ。

「ああ、これでやっと、うちは認知症から解放されるわね。認知症はもうこりごり」


                                     終

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認知の歪み 持明院冴子 @saek0

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