第14話 赤と青の魔法陣2
巨大な像が動く様(さま)は、まるで酷い悪夢か、酷い冗談のようだった。
像が退いたことで、下になっていた魔法陣が完全に現われる。血塗られたように赤い魔法陣は、イルラナにはわからない文字や図形が描かれていた。
奴隷の一人が祈りの言葉を唱えた。神像から助けてくれと神に祈るのだから、イルラナにはタチの悪い皮肉にしか思えなかった。
「俺の短剣で死にかけたお前は、健康なエリオンの体に乗り移ったってわけだ」
嫌悪感を隠そうともせず、アレヴェルが神像に言う。
「遥か昔から、体を乗り換えて生きてきたんだろうよ。仮面を被っていたのも、体が変わったことを悟らせないためか」
「エリオン、エリオン!」
イルラナは碧い魔法陣の上で倒れている幼なじみに駆け寄った。イルラナは頬に手を当てた。暖かい。
(まだ助かるかも!)
慌てて口元に手を当てる。息はない。
ローブからのぞくエリオンの両手首には、かすかに紐の跡があった。イルラナは、それで初めてエリオンの身に何が起こったのか知った。捉えられたエリオンは、手を縛られ、動きを封じられた上で魔法陣に入れられ、魂を抜かれ、殺された。
「エリオン、しっかりして!」
(たぶんもう駄目だ……)
心の中で、冷静なイルラナが呟く。
(体が暖かいのは、ディサクスの魂が入っていたから。たぶん、もう、本当のエリオンは……)
その呟きを、イルラナは聞こえないふりをした。
昔、ハルストにならった息を吹き返させる方法を思い出し、エリオンの胸に重ねた両手を置いた。確か、ここを規則正しく押せばいいはずだ。
気のせいか、さっき頬に触れたときより体温が下がっているように思えた。
恐怖でパニックになった奴隷の一人が、奇声をあげて神像に襲いかかった。剣が軽い音をたて、弾かれる。
神像の拳が奴隷の胴を捉えた。カエルか何かのように、その体は壁に叩きつけられる。やわらかく湿った音がして、奴隷の唇から血が吹き出した。
ディサクスは逃げ出そうとした兵にむきなおり、足を伸ばす。悲鳴を上げる間もなく兵は踏み潰され。水溜まりを踏んだような音に骨が折れる音が混じる。床に赤いシミが広がった。
「なるほど、これがあれば反乱なんてあっという間に鎮圧できるわなあ。だからあえてここに俺らをおびき寄せたか」
アレヴェルの笑みは焦りが隠しきれていなかった。
「化物!」
どこからか像に矢が射かけられた。だが、その矢はほとんど弾かれる。刺さったようにみえても、隙間に矢尻が引っ掛かっただけだ。
「イルラナ!」
アレヴェルが悲鳴を上げるように名前を呼ぶ。
いつの間にか神像の手が迫っていた。
イルラナは咄嗟に立ち上がる。硬い手に両足を握られる。逆さ吊りにされ、血が上った頭がズキズキと痛んだ。自分の鼓動がこめかみの辺りで響く。視界が瞬いて、胃の中身が逆流しそうになる。
「あ、あ……」
もしディサクスがその気になれば、この体を潰すことなど簡単だろう。悪い発作でも起きたように体が震える。
涙が額を通って床へ落ちていった。
(こんな所で死んじゃうのか……)
エリオンの仇をとることもできずに。
そもそも、エリオンはなんで殺されなければならなかったのだろう? 何も悪いことをしていないのに。ただ、皆のために水路を作ろうと……
「ク、クハハッ!」
そこまで考えて、イルラナは笑いだしそうになった。けれど、そうするには痛みがひどすぎて引きつったような声が出るだけだった。
「イルラナ!」
アレヴェルが短剣で斬りかかる。だがもう片方の手で虫のように払い除けられ、床に転がされた。
さらに高く体を持ち上げられ、神像の顔と同じ高さになる。
イルラナは苦痛に顔を歪ませながら、神像の顔を睨み付ける。
「エリオンが何の研究をしていたか、教えてあげましょうか」
多少興味が湧いたのか、ディサクスは動きを止めた。
イルラナは、腰に縛り付けていた瓶を抜き出した。
「その青灰色の岩を加工する研究をしていたの。あんたが独り占めしている水を、皆に配るために!」
像が動いたという言い伝えは本当だった。だったら、像には心臓があるという言い伝えも本当だろう。
「エリオン、あんたは自分が遺した知識で、自分自身の仇を討つのよ」
イルラナは、瓶を神像の左胸めがけて投げ付けた。
瓶が割れ、薄黄色の液が飛び散る。
焦げ臭いのとはまた違う、仰け反りたくなるような鼻を指す異臭。加工できないはずの岩が、水をかけられた砂糖菓子のように溶けていく。臓器のように赤い宝玉が剥出しになった。
アレヴェルが床を蹴った。
凹凸を足掛かりに、神像の上をかけ上がる。
ナイフを突き立てられた宝玉が、澄んだ音を立て、ヒビ割れた。
「すげえぞお前ら!」
その場にいた兵が、奴隷が称賛の声をあげる。誰かが口笛を高く吹き鳴らした。
ゆるんだ手から滑り落ち、イルラナは強かに体を床に打ち付けた。痛みで浅くなりがちな呼吸を意識して深くする。
駆け寄ったアレヴェルが、無言で助け起こし、床に座らせてくれた。
「やった?」
恐る恐る、イルラナは神像を見上げる。
神像は完全に動きを止めたようだった。
「ああ。どうもやったっぽいな。まったく、すごいよお前は!」
アレヴェルの助けを借り、立ち上がったときだった。
神像が傾いた。半分倒れかかるように手を伸ばし、蒼い魔法陣の上に置かれたままだったエリオンの体をつかんだ。
「何を……!」
アレヴェルの質問に答えるはずもなく、ディサクスはエリオン体を放り投げる。エリオンの死体は、人形のように転がり、赤い魔法陣の上で止まった。
ゆっくりと、だが確実に、神像は碧い魔法陣に歩み寄っていく。そのたびに体から岩がぼろぼろとこぼれ落ちていく。
「まずい、攻撃が浅かったんだ!」
短剣を握りなおし、アレヴェルが呻いた。
絶望的な気分で、イルラナは赤い宝玉を眺めた。宝玉はヒビが入っている物の、砕け散ってはいない。
このままでも像は壊れるだろう。だが、まだわずかの時間は残っている。
「あいつ神像を捨てて、またエリオンの体に入るつもりだ!」
アレヴェルは雄叫びをあげ、神像に斬り掛かった。払い除けようとする手をかわす物の、相手ももう油断をしていない。胸に攻撃を加えるどころか、宝玉に近寄ることさえできなかった。
ゆっくりと確実に神像は碧い魔法陣に近付いていく。
(また……?)
そんな言葉がイルラナの頭に浮かんだ。
(また、エリオンは体を奪われるの? ディサクスはまた人を苦しめるの?)
神像は、魔法陣までもう数歩の所まで来ていた。
(させない!)
イルラナは、床に落ちていた剣を拾い上げた。
神像ではなく、エリオンに向かって走りだす。
右肩を下に、横をむいて倒れているエリオンを、上向きに整える。触れても熱を感じない冷たい体。空っぽの体。
久しぶりにちゃんと見た気がするエリオンの顔は、ただ眠っているようだった。
いつの間にか流れていた涙を拭う。両手で剣を握り、息を整えると、不思議と心が冷えていき、冷静になっていった。
「エリオン、今までどうもありがとう。もうこれ以上、好き勝手させないから。どうかもう安らかに」
言葉を紡ぐ唇が震える。イルラナは大きく息を吸った。剣先は、エリオンのほっそりとした喉の真上にある。
完全にやり遂げなければならない。中途半端に傷を付ければ、怪我をした状態でディサクスがこの体で起き上がるだけだ。
目をつぶったりはしなかった。自分がしたことを覚えておくつもりだった。
イルラナは、エリオンの首に剣を突き立てた。
(もう死んでいるから、大して血が出ないな)
ぼんやりとそんな考えが浮かぶ。
これでもう、ディサクスはエリオンの体に入ることはできない。入った途端に死ぬことになるから。他に逃げ込める体はない。そして像の中に入れば、融けて崩れ落ちるだけだ。
壊れかけた像の中で、避難場所を壊されたことにさすがに驚いたらしく、ディサクスは
動きを止めた。
イルラナは、エリオンの首を刺した剣を、思いきり像に投げ付けた。
臓器のように赤い宝玉は砕け散り、血が流れているように輝きながらこぼれ落ちていく。
大きく仰け反った像の、岩のこすれあう音が獣の咆哮じみて聞こえた。
イルラナは、呆(ほう)けたように両手を垂らし、肩で息をする。
足元には、喉に大きな穴を空けたエリオンが倒れている。
(私、エリオンを……)
正しいことをしたのだと信じている。後悔はしていない。それに殺したわけではなく、もう二度とディサクスに玩ばれたりしないように遺体を傷つけただけだ。
だけど、見えない何かに押さえつけられているように胸が苦しかった。まるで自分がエリオンにとどめを刺した気分だった。
アレヴェルが何か怒鳴った気がした。日が陰ったように、燭台の明かりが何かに遮られる。
すぐそばで、神像が倒れようとしていた。岩でできた手が、イルラナの頭上に落ちかかる。小石が髪の上に降りそそいだ。
倒れる瞬間、明らか悪意を持ってディサクスはイルラナを巻き添えにしようとしていた。
目の前が真っ暗になった。何かが砕ける音が響いた。床に倒れた像の音かも知れないし、自分の全身が砕けた音かも知れなかった。
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