07_野良猫と小鳥

 授業が終わると、生徒は各自友人と群れて教室を出て行く。

 シリウスは馬車を待つために教室に残る。僕も、エレクトラがいなくなって急ぐ必要がなくなったから残る。シリウスの目の届かない所では、未だにつまらないちょっかいをかけられる事も多いからだ。

 やがて教室にはシリウスと僕の二人だけが残る。

 他に人がいなくなると、シリウスは僕の所にやってくる。

「アルベール、手は大丈夫か」

「平気だよ。大した事ない」

 僕が笑うと、シリウスは顔をしかめる。僕の前の席に座って、軽く俯く。

 視線の先には、机の上の僕の手がある。

「ごめんな、助けてやれなくて」

 シリウスの新領主の息子という立場は強いが、その反面とても脆い。特権がある代わり、できない事が沢山ある。学校に逆らってはいけない。人との関わり方に偏りがあってはいけない。ただし、穢れた血の者とは関わってはならない。

 払わなければならない対価は大きい。シリウスが僕に対してできる事は、今ので精一杯だ。

 僕は笑って応える。

「いいんだよ。僕はシリウスが友達でいてくれるだけでいいんだ」

 そう、シリウスがいるだけで状況は随分好転する。

「そうか」

 シリウスが少し安堵した表情になる。僕は頷いて、彼の安心を肯定する。

 僕の世界にやっと現れた、「野良猫」の役を果たせる人間。シリウスならば、あの本の猫よりも強い。「マリア」の手を借りなくても、僕を檻の外に出せるかも知れない。その前にシリウスの立場が弱くなるような事があってはならない。今は、シリウスが近くに居るだけでいい。

 窓の外から、ガラガラと音がしてくる。

「シリウス、迎えが来たみたいだよ」

 僕はシリウスと教室を出て、階段を下りる。

「うわ」

 誰かが掃除の後片付けを怠ったのか、床に箒が転がっていたらしい。僕は柄につまずいて体勢を崩す。シリウスが捕まえてくれたお蔭で僕は階段を落ちずに済んだが、肩に掛けていた鞄は呆気なく滑り落ちて、踊り場の床で弾んだ。

 数冊の本と共に、銀色に光る物が転がる。

 ──しまった。

 慌てて階段を下りるが、シリウスの方が早い。シリウスはまず最初に、僕の銀のナイフを拾った。

 まずい。

「シリウス、それは」

「……これ」

 困ったように笑って、シリウスは僕に鞄とナイフを差し出す。

「見付かったんだな」

 僕はそれを受け取り、本を拾い、鞄に入れてから答える。

「うん……」

 あちこち捜し回ったが、結局、僕の力では見つけられなかった。その夜エレクトラに話をしたら、魔女は一発でナイフを見付けてみせた。

 一直線に森に入り、小川の底に沈んだ銀色を拾い上げた。濡れた指先の白さを鮮明に憶えている。

 ──ほら、ここにあるじゃない。

 そうか。

 憶えていたのか、シリウス。

「良かった。道理で捜してもなかったんだな」

 シリウスは晴れやかに笑う。僕は俯いて頷く。

 捜したというのはいつの事だろう。過去の事か、今の事か。困惑しつつ、元どおり鞄を肩に掛ける。

 シリウスは何事もなかったかのように、僕を追い越して階段を降りていく。金の髪を揺らして振り向く。

「何してんだ、アルベール」

「うん、今行くよ」

 僕は小さく笑ってシリウスを追う。校門の向こうにシリウスを迎えに来た馬車がある。昇降口には、馬車を遠巻きに眺める二人の生徒がいた。同じ学級の取り巻きの一部だ。

 シリウスに一歩遅れて外に出ると、二人が揃って振り向いた。

「シリウス」

「凄いな、あの馬車」

「そうかな」

 シリウスは首を傾げて笑い、僕に手を振る。

「じゃあな、アルベール。また明日」

「うん、また明日」

 僕はシリウスと別れ、一人で校門をくぐる。

 「あんな奴と何話してたんだよ」と問われたシリウスが「別に」と答えるのを僕は知っている。すぐに「それよりさ」と話題が変わるのを知っている。休日に遊ぶ約束を取り付けて、シリウスは級友と別れる。

 僕は一人で家へと歩く。



 家の玄関に立って、扉に手をかける。すぐには開けない。鍵穴を覗いて、見える範囲に人影がない事を確かめる。扉に耳をつけても、音はしない。

 あの女は眠っているようだ。

 意を決して扉を開ける。中に入って扉を閉める。できるだけ速く階段を上る。ある程度音を立てても速い方がいい。寝ている状態ならどうせ振動で気付かれるからだ。

 ガタン、と階下で音がする。あの女が起きた音。僕は振り返らずに、まっすぐ自分の部屋へ入って鍵をかける。

 上がった息を肩で整える。あの女の足音が階段を上ってくる。心臓が痛い程早鐘を打つ。

 大丈夫──大丈夫な筈だ。あの女はここの鍵は開けられない。あの女の持っていた僕の部屋の鍵は全て捨てたんだ。あの女は外には出られないのだから、ここを開けられる筈がない。

 ミシッ──ミシッ──ミシッ──ギシ。

 足音が止まる。

 止まる。

 扉の向こうにあの女が居るような錯覚に襲われて、僕は扉に体重をかける。大丈夫だ。足音はもっと遠くで止まったんだ。あの女はここまで来ない。ちゃんと鍵はかかってる。

 ──ミシッ。

 足音が動く。遠くなる。階段を下り、聞こえなくなる。

「はっ……」

 詰めていた息を吐くと力が抜けた。扉に沿って座り込む。嫌な汗が額から滑り、睫毛に引っかかって止まる。

 気持ちが悪い。吐き気がする。膝を抱えて、口の中に広がる苦い味をやりすごす。

 銀のナイフを握り締める。指先からじわりと感覚が冷えていく。

 あの女は何故か、ここの住人からはそれ程拒絶されていない。薬師と結ばれ、地位を継ぐことができなかった、旧領主の娘。その地位がまだ生きているとでもいうのだろうか。ここの住人はエレクトラが魔女を親に持つ魔女だという。それ故に本物で、排除しなければならい存在だと。

 何故あの女は許容されるのか。あの女の方がエレクトラよりずっと穢らわしい魔女だというのに。

 僕とエレクトラはきっとあの女に呪われたんだ。父さんは賢い人だったから、そうなる前に逃げ出した。一人で逃げたのを責めるのは間違ってる。相手は魔女なのだから仕方ない。

 父さんの事を、僕はあまり覚えていない。エレクトラは僕より記憶が残っている筈だが、口にする事は少なかった。エレクトラは父さんを好いてはおらず、むしろあの女に同情的だった。

 馬鹿なエレクトラ。あの頭の可笑しい女に、同情すべき部分などありはしないのに。

 ようやく気分が良くなってくる。目を開けると、ナイフを握る手の甲の蚯蚓腫れが視界に入る。

 僕が怪我をした時、手当てをするのはいつもエレクトラだった。エレクトラは父さんから薬師の知識の一部を受け継いでいた。エレクトラの作る薬は総じて傷に浸みたから、僕はできるだけ怪我を隠した。

 それでも殆どの場合、エレクトラは僕の怪我を見抜いた。魔女の目を欺くのは難しい事だった。

 エレクトラがいなくたって、この程度の傷なら放っておけば治る。薬草の香りの幻覚を振り払って、僕は本棚に手を伸ばす。

 五歳の誕生日に父さんが贈ってくれた、『魔女の塔』という名の絵本。

 主人公は魔女の塔のてっぺんに囚われた白い小鳥。小鳥の世話をしているのはマリアという少女だが、小鳥の籠の鍵の持ち主はマリアの継母である森の魔女。

 魔女はマリアを閉じ込めて、召使いのように虐げている。マリアの父は数年前にいなくなった。外に出られないマリアと小鳥は、お互いだけを慰めとして、息を潜めて暮らしている。

 小鳥は外へ出たがっている。小鳥はふたりで出て行こうとマリアを誘うが、マリアは魔女を恐れて決心できずにいる。

 塔の中のふたりには、外の様子が殆ど判らない。そこに野良猫がやってくる。遠い街からやってきた猫は、一晩の宿の礼として旅の話をふたりに語る。

 長い旅の話を聞いた小鳥は、いよいよ外への思いを募らせる。野良猫は小鳥の願いを叶えるため、マリアが魔女の元から籠の鍵を盗むように唆す。

 マリアは魔女を恐れていたが、野良猫の説得と小鳥の懇願の前に折れ、ついには魔女の寝室から鍵を盗み出し、小鳥を逃す。小鳥は喜び、念願の空へと羽搏いていく。

 しかしその時、怒り狂った魔女がマリアの部屋にやってくる。魔女はマリアを殺そうとする。あわやと思われたその時、窓から飛び込んできた小鳥がマリアを庇う。

 マリアは生き残り、小鳥は命を落とす。小鳥の腹には魔女の心臓が納められており、心臓が破れた魔女もまた、苦しみながら死んでしまう。

 主を失った魔女の塔は崩れ落ち、マリアもまた死んでしまう。唯ひとり生き残った野良猫は、塔の残骸の前でふたりを悼んで泣き続ける。

 そうして泣き続けて三日目の朝、降り続いた雨が止み、野良猫が目をさますと、そこには死んだはずのマリアと小鳥がいる。

 魔女の心臓を捨てた小鳥を縛るものは最早なく、マリアの手を取って力強く羽搏くのだ。

 ふたりが旅立つのを野良猫が見送る場面で、物語は終わる。

 父さんはきっと、僕に手がかりを残してくれたんだと思う。この檻のような家から逃げ出すために、一体どうすれば良いのか。

 僕は昔、実験をした。籠の中の鳥は、本当にひとりでは飛べないのかどうか。

 この絵本と同じように父さんが残していった白い小鳥を、僕はエレクトラと共に外へ逃した。「魔女」と「マリア」と「小鳥」だけの物語が、どんな結末を迎えるのか知りたかった。

 小鳥は死んでいた。

 屋敷の前の道で、僕は馬車に轢かれて泥に汚れた小鳥の屍体を見つけた。元が白いだけに、泥まみれの姿は惨めだった。僕は一人で、小鳥を庭に埋めた。

 白い羽根は乾いた泥で重くなっていた。抜き取って窓から放しても風に乗ることができず地面に落ちた。「野良猫」がいなければ「小鳥」は自由になれないのだと、僕は知った。

 その頃、僕の世界には「魔女」と「マリア」しかいなかった。あの女とエレクトラ。僕が檻から出るためには、「野良猫」を待つ必要があった。

 そうしてシリウスが現れた。しかし同時に、「マリア」が舞台から降りてしまった。

 エレクトラが破綻したから。

 僕は、エレクトラも連れて外へ出るつもりだったのに。

 「マリア」が死ぬ必要などどこにもない。「魔女」にはもっと重い報復が必要だ。僕は「魔女」の喉笛を食い破って、「マリア」を連れて、「野良猫」と一緒に旅に出るつもりだった。

 それなのに。

「……馬鹿なエレクトラ」

 エレクトラは脆い。傲慢で負けず嫌いで決して屈することをしないのは、自分が弱いことを無意識に知っていたからだ。

 一度折れたら終わってしまうから、あらゆる盾で自分を守る。

 誰もを見下し、誰にも心を許さない。勝敗のつくものでは必ず勝利する。そうして、恐ろしい魔女としての自分を、あらゆる相手に刻み付ける。

 盾の内側にはエレクトラと、そして僕だけが居た。

 だからエレクトラは僕に過剰に干渉した。壁の内側の僕が異物とならないように、そして、決して自分に勝ることがないように。

 エレクトラはしばしば僕にゲームを強要した。決して負けることのない自分を補完するために、繰り返し僕を打ち負かした。あらゆる者を敵にしたせいで、エレクトラの足場は狭く脆かった。

 エレクトラが鎌風を喚んだ日の夜、僕は意図的にエレクトラを攻撃した。そうすればしばらくエレクトラの動きを封じられると知っていたから。

 そうして今と同じ状況を作り、ほとぼりを冷ましてから、檻を開けるつもりだった。のに。

「お前のせいで」

 僕は窓を睨む。硝子に映った影の猫を睨む。こいつのせいで全てが台無しだ。

 呪いのように付き纏う金の瞳を見ていると、無性に不安になる。

 シリウスは、僕の「野良猫」は、絵本の中よりずっと強い。けれど、「マリア」がいなくても大丈夫なのだろうか。僕はあの小鳥のように、泥まみれで地面に転がって終わるのは御免だ。

 猫の形をした影が嘲笑うように金の瞳を瞬かせるのを、強く睨む。

 お前にだけは負けるものか。

 僕は必ずここから出てやる。



 夜になる。僕は一人で味のしない夕食を摂る。シリウスがくれた水があるから、食べるのはそれ程辛くない。

 扉に背をつけて座って、ビスケットを齧る。食べ終わる頃に、床が軋む音が階下から聞こえてくるようになる。

 あの女は毎日この時間に、エレクトラのところへ湯を運んでくる。体を拭くための布も。以前は自分が何もかもエレクトラにしてもらっていたのに、急に面倒見がよくなった。

 狂人仲間が増えたとでも思っているのだろうか。馬鹿げている。エレクトラをお前と一緒にするな。

 足音が階段を上る。廊下を歩く。エレクトラの部屋の前で止まり、鍵を開け、中に入る。

 僕は目を閉じ、耳を澄ます。

 あの女が一方的に喋る。エレクトラの声はしない。それでもあの女は破綻したエレクトラに話しかける。以前は無反応を過剰に嫌ったのに、気分を害する様子はない。今でも会話が成立していると、あの女が錯覚しているのか。

 それとも。

 しばらくすると、あの女はエレクトラの部屋から出て階段を降りていく。

 足音が聞こえなくなるまで、じっと待つ。待って、僕は静かにエレクトラの部屋まで移動する。

 鍵を掛け直して、エレクトラを見る。服を替えたエレクトラは、ベッドに腰掛けて足を揺らしている。足許の桶の湯を、裸足で跳ねて遊んでいるらしい。

「駄目だよ。床が濡れるでしょう」

 僕は慌てて桶をどかし、側に置いてあった乾いた布を取る。濡れた足を拭いている間、エレクトラは退屈そうに虚空を眺めていた。

 床に飛んだ水も拭いて、布を湯で絞る。僕はその布で手早く体を拭く。最低限清潔にしていないと学校へ行けない。翌日の洗濯に使う為に、あの女がお湯をエレクトラの部屋に置いて行ってくれるのは有難い。そもそもあの女さえ居なければ、こんな苦労はしなくて良いのだけど。

 それももう少しの辛抱だ。

 僕は体を拭き終わって、桶を元の場所に戻す。

 エレクトラはベッドの上で仰向けに寝転がって、目を閉じている。規則正しく胸が上下する。眠っているのだとしたら、初めて見る光景だ。

 エレクトラは決して、他人の前で眠ったりしなかった。弱い姿を見せる事を何よりも嫌っていたから。

 魔女の赤を失った白い貌は、奇妙な程幼い。険のない表情のエレクトラは只の女だ。魔女ではない。

 薄い寝間着一枚では風邪を引きそうだ。僕はエレクトラに触れないように気をつけながら、毛羽立った毛布をかけてやる。

「ねぇ姉ちゃん、本当は目醒めてるでしょう」

 エレクトラは反応しない。あの女が相手だったら、ひょっとしたら応えるのだろうか。

 僕を見ないのは復讐だろうか。僕がエレクトラを裏切ったから。

 馬鹿なエレクトラ。裏切ったのはあんたの方だ。

 エレクトラはよく僕を脆弱だと詰ったけれど、たった一度の裏切りにも耐えられないようなエレクトラの方が余程弱い。

 僕はエレクトラの額に手を伸ばす。指の形の影が白い肌に落ちる。エレクトラに触れようとして、僕はそれを止めた。

「お休みなさい、姉ちゃん」

 エレクトラは答えない。

 僕は自分の部屋に戻り、寝間着に着替えてベッドに潜り込む。

 薄汚れた布団の殻は、酷く僕を安心させる。自分の呼吸音だけが響く世界。閉じているから、あの女も入ってこない。

 滑稽な倒錯に僕は笑う。庭の脆い再現の中で、夢のない眠りにつく。


  ◇◇◇

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