魔女の弟の話
06_蛇の眼をした猫
エレクトラが破綻した。
元から壊れていたが決定的に可笑しくなった。以前は一応言葉の通じる相手だったが、今では会話などとてもできない。人間としての機能を殆ど失っている。有り体に言えば狂った。
最近のエレクトラは歌うのがお気に入りだ。朝になると鳥の真似をして遊んでいる。その声が僕に朝を知らせる。
目を開けると窓から明るすぎる空が見える。数度瞬いて目を慣らしてから躰を起こす。途中で億劫になって壁に凭れかかると、外から鳥の声が聞こえてきた。エレクトラの声真似は実に上手で、聞こえてくる位置以外で本物と区別することができない。
眩暈を堪えてベッドから立ち上がる。制服に着替えて、机の下からビスケットを取り出す。一枚だけ取り出して食べる。いつも通り、味はしない。
灰色の包み紙の中に、ビスケットの残りは三枚。
また地下倉庫に取りに行く労力を思うと気が重い。
ただでさえ不味いビスケットを水なしで呑み込むのは辛いが、水差しの中に水はない。井戸まで汲みに行って沸かす気力は初めからない。部屋の外に出るのは危険が大きすぎる。
それでも学校には行かなければならない。
音を立てないよう部屋の鍵を開ける。いつでも鍵をかけられるようにした状態で外を窺う。
あの女はまだ起きていないようだ。静かに廊下へ出て、鍵をかける。
廊下の先、エレクトラの部屋にはいつも鍵がかけられている。そうしておかないとどこかへ行ってしまうからだ。シリウスに頼んで作ってもらった合鍵で扉を開ける。
部屋の中に滑り込み、鍵をかける。
エレクトラは窓の下にいた。壁に背を預けて、光の筋を見上げている。僕が部屋に入っても何の反応も示さない。
エレクトラの足元に、あの女が置いていったビスケットとチーズと水がある。
しかしエレクトラが自力でそれらを食べるのは難しい。扉に鍵をかけたら、今度は部屋を出ようとして手を壊したため、両手を包帯でぐるぐると拘束されているからだ。そうしたらようやく大人しくなったが、たまに暴れることもまだある。
今日は大人しいようだ。
僕は歌うエレクトラの正面に回り、口許にビスケットを差し出す。ここから少しもらって今日の昼食にしよう。
エレクトラは歌うのをやめる。確かめるようにビスケットに顔を近づけてから、素直に齧り付く。最低限生命を維持する気はあるらしい。しかし自発的には食料を探すような真似はしない。
一度の食事では一枚しか食べない。動いていないのでそれでも足りるらしい。口の端についた食べ零しが気になるのか、エレクトラがもぞもぞと動く。
「何してんのさ、姉ちゃん」
僕はビスケットの粉を拭ってやる。エレクトラは動きを止める。僕自体には何の反応も示さない。
エレクトラはここにはいない。
僕が初めてエレクトラに歯向かったあの晩。扉を開けた時、赤と金の禍々しい模様の中で倒れたエレクトラの躰の向こうの鏡には、エレクトラがいた。
鏡像ではない。僕が見たのは後ろ姿だったが、エレクトラが鏡の奥へ歩いて行ったのが判った。
後には躰だけが残った。
あの時あった頰の傷はもうない。左腕の傷も治ったようだ。
あの晩、僕は早々にあの女にエレクトラの部屋から引きずり出されたため詳しい状況を見る間もなかったが、あの女にまともな手当てをするだけの能力があった事には素直に驚いた。
僕はエレクトラに水を呑ませながら、赤い瞳を覗き込む。これでは殆ど硝子玉だ。あの苛烈な光はどこにもない。
エレクトラはここにはいない。
チーズを少し厚めに切る。その三分の一は僕がもらう。残りはエレクトラに食べさせる。エレクトラは従順に咀嚼する。じっとしている間に、僕はエレクトラの髪を梳いてやる。
艶々とした長い黒髪は癖が強く、波打ちながらエレクトラの背を流れている。
外を見ると、そろそろ潮時のようだ。早くしないとあの女が起きてしまう。櫛を片付けて、僕はエレクトラの側を離れる。
「行ってきます」
エレクトラは答えない。
息を潜めて部屋の外に出る。鍵をかける。階段を降りる。僅かな床の軋みが激しく心臓を痛めつける。一階の床に足を下ろす。
あの女の寝室からエレクトラの部屋の鍵を盗んで合鍵を作った後、僕は元の鍵を定位置に戻した。その日は何もなかったから油断していたら、次の朝に階段の角で待ち伏せされていた。
あの女は僕がエレクトラに食事をさせている事に気付いていない。エレクトラが自力で食べたと思っているらしい。そういう所はどこまでも馬鹿なくせに、妙な所で頭が働く。お蔭で散々な目に遭った。服の下に硬い表紙の本を入れておかなければ今頃は死んでいたかもしれない。
まあ、あの女は元々頭が可笑しい。行動に一貫性を求めるのは甚だ無駄だ。
今日はあの女はいないようだ。玄関を出れば、もうあ恐る必要はない。ようやく自由に呼吸ができる。詰めていた息を吐き、顔を上げる。今日は晴れている。庭は手入れされていないため荒れ放題だが、それでも季節の移ろいに従って緑が濃くなっている。
屋敷の門の向こうで、動く影がある。
ああ、来てくれたのか。
「シリウス」
僕は門まで走る。
シリウスが道の向こうの樹陰から走ってくる。
「アルベール。今日は外に出られたんだな」
僕が頷くと、シリウスは「よかった」と嬉しそうに微笑む。彼の心底屈託のない笑い方は、僕の目には珍しいものに映る。
並んで学校へ行く間、シリウスは色々な話をしてくれる。
「昨日さ、学校に猫が迷い込んできて大騒ぎになったんだ。校長先生の大事な花瓶を落として割っちゃったから、校長先生が怒って追いかけ回したんだけど、すばしっこくて捕まえられなくてさ。逆にあっちこっちで被害が広がった上に結局逃げられて、頭のてっぺんまで真っ赤になってた」
シリウスはよく笑う。僕は小さく笑い返す。エレクトラは家の外では滅多に笑うことはなかった。
通学路に人はいない。僕は人と出くわさないようにぎりぎりの時間に出るからだ。遅刻すると先生の罰が厳しい。痛いのに慣れていない連中は罰を恐れて朝早く学校へ行く。
シリウスの家は少し離れた街にあるので、いつも馬車で街道を通って来る。彼だけは遅れても何も言われない。シリウスには様々な特権がある。
「いつも威張ってる教頭先生は猫が苦手らしくて、猫が近づいたら青くなって逃げ出したのは可笑しかったな。あれは見物だったぜ。アルベールも来てれば良かったのにな」
シリウスの世界には楽しいことが沢山ある。僕にとっては煩いだけ、退屈なだけの出来事が、シリウスの中では明るいものとして受け入れられている。
ひとつの光景を透かす眼球が異なるだけで、こんなにも表情が変わる。
「そうだね」
僕は笑う。
教頭が小さな猫から青くなって逃げ出す様子を想像する。僕は軽蔑とともにそれを眺める。苦い嫌悪だけが腹の底に沈む。
僕とシリウスの感覚は酷く遠い。
昇降口に着く。
大時計を見ると、刻限まであと二分程だ。
「じゃあ、俺は先に行ってるから」
「うん」
シリウスは軽快に階段を上がっていく。僕は意味もなく鞄の中身を確認して、シリウスの背が見えなくなってからゆっくりと階段を上る。始業直前の廊下は静かで、人の気配はない。物陰を窺っても悪意の視線は見つからない。
僕がシリウスと関わるようになり、エレクトラが鎌風を起こして学校から姿を消した後、僕に対する悪戯の類はめっきり減った。
今、魔女の名を口にする者はいない。当事者であるテサドーラも学校に来なくなったことで、鎌風の一件はなかったもののように扱われている。
シリウスから聞いた所によると、授業中にエレクトラが開けた窓から鎌風が吹き込んできて、テサドーラだけが大怪我をしたらしい。その前日にテサドーラがエレクトラに罵声を吐いた事を、僕やその他数人も知っている。
なかったもののように扱われながらも、鎌風はここの住人の頭に強力な痕跡を残していった。
──魔女の力は本物だ、と。
下らない。そんな事も知らずに僕達を排斥していたのか。
魔女に対する住人の嫌悪は恐怖になった。だから今は、エレクトラを恐れて、僕に手を出す者はいない。
だが、それがいつまでも続くわけじゃない。
教室の後ろの扉を開ける。シリウスの机の周りに教室の三分の一程度が群がっている。シリウスが振り向き、僕を見て笑う。
「よおアルベール、おはよう」
「おはよう」
僕は小さく応じる。すると集団の中から疎らに挨拶が返ってくる。それが終わると、皆はそれぞれ僕のいない世界に戻っていく。
シリウスがいれば、煩い連中は殆ど彼の元へ行ってしまう。シリウスがいると色々と楽でいい。
僕の席は窓際の一番後ろだ。授業中のちょっかいを心配しなくて済むから気楽だ。
今の状況が続いてくれたら言う事はないのだが、きっとそうもいかないのだろう。
鐘が鳴り、生徒が一斉に着席する。
指名と叱責への緩い緊張の中で授業は進む。
昼食は各自適当なグループを作って弁当を食べる。今までは中庭へ逃げて一人で食べていたが、最近はシリウスに呼ばれて隣で食べる。
シリウスと一緒に輪を作りたがる生徒は多く、騒がしい。シリウスを中心に様々な会話が飛び交う。僕は黙ってそれを聞いている。
皆がシリウスに向ける視線には、一様に羨望と粘着質の媚がある。昔と変わらない。新領主の息子の後ろを、ぞろぞろと取り巻きがついてまわっているだけ。
シリウスは、昔と変わった。
傲岸だったのが鷹揚になり、随分と他人に優しくなった。転入してきていきなり僕に声をかけたのは、過去のことを覚えていたからだろうか。
もし、そうだとしたら。
ここを離れていた間に、彼も迫害される側に回ったということだ。
理由は何だったのだろう。都会では田舎の領主の息子など大した存在ではなく、元の性格のままではいられなかったのだろうか。だからこちらへ戻ってきたのか。
シリウス。
彼の存在が大きく状況を左右する。
魔女への恐怖が膨張へ向かったら、住人が総出でエレクトラを殺しにくる可能性がある。その時はきっと僕も殺されるだろう。それを止められるとしたらシリウスだけだ。少なくとも、僕が頼れる範囲では。
僕がシリウスの傍にいれば、僕は無害であるという認識が広がる。何か悪い事が起こる前に、それが十分浸透すれば良いのだが。
「アルベール。お前、またそれだけしか持ってきてないのか。ほら、これ食べろよ」
「あ、うん、ありがとう」
シリウスが弁当を分けてくれるお蔭で、僕は栄養失調にならずに済んでいる。あの家の食べ物は悉く味がしないけれど、シリウスの隣で口にする食事はとても美味しい。
再び鐘が鳴る。ざわめきが分散し、定められた通りの列の中で沈黙する。
再び授業が始まる。
僕はノートを広げて窓を見る。窓硝子には、血色の悪い痩せた子供が映っている。
エレクトラがいなくなって、僕も少し変わった。
エレクトラは昔から、鏡に映る「影」の存在をしばしば口にしていた。僕はそれを信じてはいなかった。
周りに人がいない時、エレクトラが一人で会話まがいの事をしていたのを知っていたからだ。
奇妙ではあったが、僕にとって害はなかった。あの女の血のせいで、少し頭が可笑しいだけだと思っていた。
今、硝子に映る僕の後ろには、ぼんやりと猫の形をした影が映っている。金の瞳だけがくっきりと輪郭を持っているが、他は曖昧に霞んでいる。
蛇の目をした猫。
「影」だ。
いつかこいつも、僕の口を借りて喋るようになるのだろうか。そうして魔女の力を見せつけ、僕を「向こう」に引きずり込む。
馬鹿げてる。僕は魔女じゃない。
この「影」はきっとエレクトラから感染したんだ。
エレクトラで失敗したから、エレクトラの一番側にいた僕に。エレクトラは「向こう」ではなく庭に、僕達の裏庭に行ってしまったから、「影」は帰る事ができなかった。
父さんが昔、話してくれたことがある。
「向こう」から連れ出された「影」は、「向こう」に帰ろうとして人に取り憑くのだと。
エレクトラはきっと、本物の魔女だったから目をつけられたのだ。
馬鹿なエレクトラ。魔女のくせに、影なんかに敗北したのか。負ける事を何より嫌っていたくせに。
「アルベール」
耳障りな声がした。空気がさっと緊張を帯びる。
──またか。
「授業中にどこを見ている」
足音が近づいてくる。ああ、こういう声は知っている。あの女と同じ頭の可笑しい奴の声だ。
「お前──も──て、やる──のか」
困ったな。
こういう奴等の言葉は雑音が多すぎてうまく聞き取れない。金属を引っ掻くような甲高い耳障りな音だ。
僕は黙って教師を見上げる。一際煩い金属音と共に教鞭が振り下ろされる。
一度撲って気が済んだのか、教師は背を向けて教壇へ戻っていく。
青白い手の甲に、赤く直線が現れる。腫れた両手を見ながら、僕は鞄の中の銀のナイフを意識する。
ナイフを掴む。椅子から立つ。教師には三歩で追いつく。背中にナイフを刺して、捻る。
──そうすればあいつは死ぬだろう。
だがそういうわけにもいかない。
そうした後、逃げ切ることは不可能だ。こんな下らない奴の為に、自分の命を捨てるのは馬鹿げている。
僕達の誕生日に交換した、銀のナイフと銀の鋏。柄の冷たい感触が、腫れた傷に心地良い。
今、エレクトラの部屋にあの銀の鋏はない。だからあの部屋にいるエレクトラは本物ではない。
鋏を持ったエレクトラは、裏庭に行ってしまった。
僕とエレクトラだけの庭に。
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