11文字の恋文

茶柱

第1話

「確かに承りました。またね、奈緒」

「ありがと。またね、花穂」

 私はそう言って彼女と別れた。

 稲葉花穂、私の大切な恋人。


 出会ったのは四ヶ月前、私がこの会社に入ったばかりの頃だ。


「和泉、事務にこれ出してこい」

「はい! わかりました!」

 私は封筒を受け取り、事務を目指して歩き出した。


 私は大学を卒業し、この東雲商事の営業部に入った。今は先輩と一緒に外周りをすることや、社内での雑用が主な仕事だ。どちらかと言えば雑用の割合が高いが、それでも仕事を任せられていると思うと少し嬉しかった。


 事務に着くと、私と同い年くらいの若い女性が応対してくれた。

「どのようなご用件ですか?」

 透き通っていて、綺麗な声だった。

「こっ、れを出しに来たんですけど……」

 上目遣いで見られ、声が上ずってしまった。

 私はできるだけ動揺を隠し、封筒を差し出した。

「確かに承りました」

 女性は微笑みながらそう言った。

「ありがとうございます」

 なぜかドキドキして直視出来ず、逃げるように早足で歩き出した。


翌日も事務に行くよう言われ、少し緊張しながら向かった。

 窓口には例の女性が居て、私に気付くと にこりと微笑んでくれた。

「書類を提出しに来ました」

 今回は恐らく普通に言えたと思う。

「確かに承りました」

 前と同じ笑みで彼女が言った。

「ありがとうございます」

 そう言って私はその場を離れた。


 昼休みになり、私はいつも通り食堂に行った。

 食券を買い、列に並び、順番が来たら券を渡す。そんないつも通りの中で、いつもと違うことがあった。

 例の女性が居たのだ。一人で席に座り、美味しそうにご飯を頰張っている。

 今まで食堂で彼女を見たことがなかったから、つい じっと見てしまった。私の視線に気付いたのか、彼女がふと顔を上げた。まずい と思ったが、その時には既に目が合っていた。

 彼女は私の顔を覚えていたようで、少し驚いた顔をしたが、すぐにいつものように微笑んだ。私は少し遅れて笑い、会釈をして別の場所に行こうとした。

 すると彼女は手招きをして自分の向かいの席を指差した。

 私は少し躊躇ったが、断るのも憚かられたため、彼女の向かいに座ることにした。

「お邪魔します」

 と言って私は席に着いた。

「とんでもない、私が誘ったんだから。ありがとう」

 と彼女に言われ、少し恥ずかしくなった。


 それからは特に会話はなく、静かにご飯を食べた。

 二人が食べ終わり、まだ時間があったため、彼女に話しかけようと思ったところで、彼女の名前を知らないことに気がついた。

「あの……まだ自己紹介をしてなかったな と思いまして……私は営業部の和泉奈緒です。良かったらあなたの名前を教えてもらえませんか?」

 意識した訳ではないが、変にかしこまってしまい、英文を日本語にしたような文になってしまった。

「ふふっ。私は事務の稲葉花穂です。良かったら敬語なしで話しませんか?」

「えっと……じゃあ、稲葉さん、これからよろしくね」

「うん、よろしくね。奈緒」

 下の名前で呼ばれ、私が戸惑っているうちに、彼女は席を立ち食堂を出て行った。


その日から、私は彼女とお昼ご飯を一緒に食べるようになった。

 徐々に彼女に対してくだけた言葉遣いで話せるようになり、連絡先を交換し、約束をして会社以外でも会うようになった。


 ある日、いつも通りに花穂とお昼を食べた後、花穂から夕食に誘われた。

「今日の夜さ、前に言ってた店に行かない?」

「ああ、あのイタリアンの? いいわよ。でも急にどうしたの?」

「昨日の夜にテレビでイタリアン特集やっててさ、食べたくなっちゃった」

 花穂が舌をペロッと出して可愛く言った。

「なるほど、そういうことね」

「じゃあ、駅に19時待ち合わせでいい?」

「わかった。それじゃ、また後でね」

「うん。またね」

 私は花穂と別れ、午後からの仕事のため、営業部に戻った。


 仕事を終えて一度家に帰った私は、シャワーを浴びて出掛ける準備を始めた。

 ふと 無意識に鼻唄を歌っていることに気付き、可笑しくなった。

 まるでデートに行くみたいだな と。

 こんなこと、恥ずかしくてとてもじゃないけど言えやしない。


 準備を終えて駅に行くと、スマートフォンを操作している花穂を見つけた。

 早めに家を出たつもりだったが、遅刻したのかと不安になり、腕時計を見ると時計の針は十分前を示していた。

「花穂、お待たせ」

「えっ、ああ奈緒か、びっくりした」

 花穂は笑いながら視線を落とすと、驚いた表情で私を見た。

「まだ十分前なのに早いね奈緒!」

「それはこっちの台詞だよ。花穂は何分前に来たの?」

「今から五分前だよ。誘っておいて相手より遅いのは如何なものかなーってね」

「なるほど……花穂は真面目だね」

 私が感心していると、

「なーんてね。本当は楽しみで落ち着かなくて家を出てきちゃったの」

 と 花穂が言ったのを聞いて胸が熱くなり、言うつもりのなかったことを話していた。

「私も! 普段歌わない鼻唄歌ってたもん」

「あはは! 本当に?! それは嬉しいな」


 ひとしきり二人で笑った後、目的の店に歩き出した。

 隣を歩く花穂がとても愛おしく感じる。

 手が触れそうで触れない距離。

 それは今の私達の関係によく似ているような気がした。


 目的の店には五分程で到着した。程よく暗い、落ち着いた雰囲気の内装で、大人 という感じがした。

 私達はおすすめコースを注文し、運ばれるのを待っていた。

「落ち着いてるし、店員さんも丁寧で、良い店だね」

 小声でないといけないような気がして、私はひそひそと花穂に話しかけた。

「そうだね。初めてだから少し不安だったけど、当たりみたいだね」

 私に合わせてか、花穂も小さい声で答えた。秘密を共有するような感覚に陥り、私は内心興奮していた。

 料理が運ばれ、少し緊張しながら手をつけた。

「「おいしい……!」」

 二人で同時に言い、顔を見合わせてまた笑った。


 幸せな時間はあっという間に過ぎてしまうもので、気付けばデザートが運ばれていた。

 これを食べない限りは一緒に居られる……

 そんな考えが脳裏をよぎったが、急いで振り払った。

 この時間をめいっぱい楽しむと決めたから。


 会計を済ませ外に出ると、背中に体温を感じた。

 花穂が私に倒れかかったのだ。

「花穂? どうしたの?」

「ごめん、歩いたら酔いがまわったみたいで……悪いけど少し休ませて……」

 そう言った花穂の顔色は悪くはなく、少し安心した。

「だから飲み過ぎだって言ったのに。あんなにワイン飲むんだから……」


 近くにベンチがあったため、そこで休憩することにした。

 ベンチに座ると花穂は私に寄りかかり、程なくして寝息をたてた。

 寝顔を見ていると吸い込まれそうな気がして、私は慌てて周りに視線を移した。


 五分程経つと風が冷たくなり、私は花穂を起こすことにした。

「花穂、起きて。風邪ひくよ」

 揺すってみたが、寝言のように、うんと言うだけで、起きる気配がない。

 仕方なく、花穂の腕を自分の肩に回し、背負うような形で歩くことにした。

「うぅ……重い……

 自分で動こうとしない人ってこんなに重いものなの……」

 愚痴をこぼしながら歩き、タクシーを拾った。


 どうにか花穂を座らせ、運転手に私のアパートの名前と住所を告げた。

 運転手は場所を知っていたようで、合点した顔で走り出した。


 アパートに着き、料金を払って車を降りた。

 幸い私の部屋は一階にあるため、花穂を運ぶのはあまり大変ではなかった。


 鍵を開けて中に入り、鍵を閉めてから花穂をベッドに連れて行った。

 すると、花穂が背後で動いたのを感じた。

「あっ、花穂起きた? ずっと寝てたから――きゃっ!」

 肩を押され、私はベッドにうつ伏せに倒れた。

 状況を確認しようと、私が身体を反転させると、見たことのない怖い顔で花穂が立っていた。

「花穂……?」

 名前を呼ぶが返事はなく、花穂はベッドに乗り、ゆっくりと私に顔を近づけてくる。

 花穂の手が優しく頬に触れ、私は目を閉じた。


 しかし、私の期待と裏腹に、唇に触れる感覚はなく、代わりに耳元で囁く声がした。


「抵抗……しないの……?」


 花穂は静かに、けれど、はっきりとそう言った。

 その言葉は酔っ払いのそれではなく、熱を帯びていた。

 私は背筋がぞくりとした。恐らく花穂は酔ってなどいない。


「好きな人と一緒になるのを拒む理由が?」

 私がそう言うと花穂は小さく笑い、柔らかい表情になった。

 そして、私に優しくキスをした。

 とても温かく、心が落ち着く。

 脳がふやけてしまったかのように、何も考えられなくなる。

「奈緒、大好きだよ」

 唇を離して花穂が言う。

「花穂、ずっと一緒だよ――」

 私が言い終わると同時に、私の唇は花穂の唇で塞がれた。



 そして、私達は肌を重ねた。


 トン、トン、という音で目が覚めた。

 寝ぼけ眼を擦りながら音の方へ向かうと、花穂が包丁を置き 振り返った。

「奈緒、おはよう。よく眠れた?」

「うん……おはよう……」

 昨夜を思い出し、花穂と目を合わせられなかった。


 私はモヤモヤしながら朝食を食べた。

 花穂と繋がることができたのは確かなことで、喜ばしいはずなのに、何か釈然としないものが胸で渦巻いていた。

 そんな私の考えを見透かしたのか、花穂が唐突に口を開いた。

「昨日のこと、ごめんね。気付いてたかもしれないけど、私 酔ってなかったの。食事に誘ってから、奈緒にどうやって告白しようか考えてて、結局決まらないまま時間が過ぎて、参考程度にと思って奈緒が来るまでネットで調べてたの。そしたら、酔ったフリをして流れに身を任せる、って記事を見つけたの。奈緒が私のことを恋愛感情で好きじゃなかったら、酔った勢いで って言って誤魔化せると思って。ごめんね。でも、奈緒のことが好きなのは本当なの。それはわかってほしい」

 花穂はふぅーっ と息を吐くと目元を指で拭った。

「謝らないで。確かにびっくりした。でも、それ以上に嬉しかった。私は花穂が好き、でも花穂は私のことが好きなのか ってずっと考えてた。だから、ありがとう」

 気付けば胸のモヤモヤは消えていて、すっきりとした気持ちになった。


 その日は休みだったため、二人で映画を観たり、喫茶店でおしゃべりをして、恋人らしいことをした。

 本来ならこういうことを重ねてからの行為なんだろうね と言って二人で笑った。


 それからの日々は、今までと大きく変わることはなかった。

 事務への雑用を与えられることもあったが、正当な理由で花穂に会えるのが嬉しかった。

 仕事中に会うのは少し照れくさくもあるが、やはり会えるということの嬉しさは大きかった。

 昼には二人でご飯を食べ、週に一回は二人で出掛けた。


 そんな充実した日々に幸せを感じていた。


 八月のある日、社員旅行に行く という話を聞かされた。

 花穂と旅行に行けると思ったが、その期待はすぐに消え去った。

 各部署がそれぞれに企画をして、その部署だけで行く というものらしい。

 その代わりに、基本的には自由に企画できるようで、過去には無人島でサバイバルをした事例もあるらしい。

 営業部はその事例を踏襲し、無人島に行くことになった。

 サバイバルとはいえ食べ物などは確保するらしく、大規模な自然体験だと考えた方が正しそうだなと思った。


 花穂にその事を話すと、

「へぇ〜、楽しそうだね。私達は京都に行くよ。奈緒、気をつけてね。無人島なんて何があるかわからないから」

 と、心配されてしまった。

「大丈夫だよ。前に行った人達は無事だったんだから。それより、花穂は自分の旅行楽しみなさいよね」


 その日の夜は、二人でお酒を飲み、ベッドに入った。


 電子音で目を覚まし、片手でそれを止めた。

 時計を見ると、いつもより一時間早かった。

「そっか……今日は旅行の日か……」

 布団を畳み、朝食をとる。

 朝食の後は、出かける準備をし、最後に荷物の確認をして家を出た。


 辺りは薄暗く、空気は少しひんやりとしていた。

 私の緊張感と似ている気がして、なんだか面白いなと思った。


 港には既に営業部の面々が数人居て、私はぺこりと頭を下げた。

 それから十分程で全員が集まり、部長の挨拶の後、出港した。

 目的地までは六時間程度かかるらしく、それまでは自由時間となった。

 私は、初めのうちは、海を眺めたり、船内を歩き回ったりしたが、その内に飽きて、宿泊室で眠ることにした。

 環境が変わると案外眠れないもので、十分経っても、うとうとすることすらできなかった。


 ふと、花穂のことが頭をよぎった。

 今頃花穂は何をしているのだろうか。

 何故か、物理的な距離だけでなく、心の距離までもが離れていくような気がして、胸が苦しくなった。

 旅行から帰ればまた会えるのに、どうして……


 そんなことを考えていたらいつの間にか眠っていたようで、大きな振動で目を覚ました。

 甲板に出ると、みんながやたらと慌ただく動いていた。

 島に到着しそうで はしゃいでいるのだろうか と思ったが、危機感や緊迫感が感じられ、緊急事態なのだと悟った。


「落ち着いて行動して下さい! すぐには沈みません! 落ち着いて下さい!」

 船の乗組員の方が声を張り上げていた。

 近くの人に状況を尋ねると、座礁して浸水しているらしく、備え付けのボートで避難するということがわかった。


 幸い、死傷者はなく、私達は近くの無人島に流れ着いた。

 人数と負傷者の有無の確認が終わると、船の責任者と思われる人が改めて状況の説明を始めた。

「ええ、この度はこのような事態になってしまい、大変申し訳ありません船が座礁し、浸水したため、皆様には避難をして頂きました。弊社の緊急対応チームをはじめ、各所に通信を試みましたが、どこにも繋がらず、救助を要請することができませんでした。避難に使用したボートで帰港するというのはあまりに非現実的で、皆様にはここで救助をお待ちして頂くことになります。私共にできることは何でもさせて頂きますので、どうかご理解とご協力をお願いします」

 そして、深々と頭を下げた。


 一瞬の静寂の後、烈火の如く騒ぎになった。

「ふざけるな! 要請すらできてない救助が来るのか!」

 と怒号を飛ばす人。

「そうだそうだ!」

 と便乗する人。

「もうおしまいなのね……」

 と悲観する人。


 一方で私は、ようやく実感が湧いてきて、少しだけセンチな気分になっていた。

 もう花穂に会えない。

 その事実が頭を巡り、目頭が熱くなった。


 しばらくすると少しは気持ちが落ち着ついた。

 私は ふと思いついて、手紙を書くことにした。

 といっても紙もペンもないため、スマートフォンのメール機能を使うことにした。もちろん電波は届いておらず、送信することはできないのだが。


『花穂、私は今 無人島に居るよ。帰ることはできなさそうで、恐らく花穂にもう一度会うこともできないと思う。もっと花穂のことを知りたかった。もっと花穂に私のことを知ってほしかった。もっと花穂と思い出をつくりたかった。だけど、それはもう叶わない』


 ここまで書いたところで、文章を全て消した。

 私が伝えたいことはこんなことじゃない。

 柄にもなく悲観的になっているのだろうか。

 もっと簡潔に。

 もっとストレートに。


 11文字の言葉に乗せて。






『無人島より愛をこめて。』

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