○追憶編⑰~叫び~


 私はデイルームの暗い天井を見上げながら、いつの間にか泣いていた。


「私……帰る…………どいてくれる?」


「ごめん………………」


「何かがあって寂しかっただけだよね?」


「いいや……」


 私は、神山慎二が何か言いかけていたのも聞かずに逃げた。


 次の日から彼と気まずくなってしまった。

 弟みたいに大切な存在だったのに……


 償いのつもりだったのだろうか……次の日に彼は頭を野球少年のような坊主にしてきた。


 私は彼の目が見られなかった。


 同じ職種上、仕事で伝えなきゃいけないことがあるのに……自分から話しかけられなかったので送迎などでいない間にメモで伝えた。


 その状態が苦しくて苦しくて……美妃みき先輩との帰り道、電車の中でそれとなく相談してしまった。

 もちろん直接的なことは言わなかったが……


 話したことで吹っ切れて何があっても今まで通り、普通に仕事をしようと頑張っていたある日……


 帰りの送迎も最後に差し掛かった頃にデイルームの掃除をしていたら、駐車場の方から利用者さんの叫び声が聞こえた。


 外に出ると送迎用の軽自動車の横に美妃先輩と利用者さんがいて、開いた助手席のドアの間で何だか揉めていた。


 その方は重度のアルツハイマー型認知症の方だったが、初めて見る表情で髪を振り乱し、美妃先輩に向かって「あなたは嫌! 怖い! 助けて~!」と叫び声を上げていた。


「どうしたんですか? 大丈夫ですよ! 先輩、運転上手いですから」


 急いで駆け寄り、背中をさすりながら声をかけると……

 嘘のように落ち着いて、「送迎……あなたがいいわ」と言われた。


 私は急遽、軽自動車の運転を交代して、その方を無事に自宅に送り届けた。


 認知症は、どんなに忘れたくなくても忘れてしまう悲しい病気だが様々な原因・種類がある。

 主なものとして脳が萎縮するアルツハイマー型認知症や、脳梗塞や脳出血など血管障害によって起こる脳血管型認知症が挙げられる。

 認知症の方は直前の事は忘れてしまっても、昔の印象的な事は昨日の事のように覚えているケースが多い。


 暑さ寒さなどの感覚は鈍くなるが、むしろ感情面ではその感覚は研ぎ澄まされ、ちょっとした変化に敏感で、不安を感じると徘徊や暴言・暴力などの問題行動に繋がるという……


 送迎から戻ると先輩は泣いていて、仲の良い看護師さんに慰められていた。


 私は先輩の役に立てて嬉しかったのに……初めて泣いている所を見てショックだった。


 この時の私は、その涙がどんな感情によるものなのか、何も分かっていなかった。


 その頃から美妃先輩の私に対する態度はどんどん怖くなっていった。


 相談員は神山慎二と二人なので、契約などの新規の大変な仕事は本来なら平等に振り分けられるはずだが……

 ほとんど全部と言っていい程、私が行くことを命じられた。


 施設長である美妃先輩の采配により、私は朝夕も行き帰り送迎で、日中は入浴やレクなどの担当が振り分けられているので、契約に行った後の様々な書類をまとめる時間が全くなかった。


 当然遅くまで一人でサービス残業をするのが当たり前になり、体調も悪くなっていった。

 そして毎月の月経時に激しい頭痛・腹痛や吐き気がひどくなり、うずくまって動けなくなる程なので病院に行ったところ……月経困難症と診断され定期的に通うように言われた。


 先輩の態度はだんだん露骨になってきて……

 病院の日なので休みたいという私の希望を無視する一方で、神山慎二には「マッサージしてあげるよ~」と彼をうつぶせに寝そべらせ、馬乗りになってマッサージをしてあげるなど扱いの差は歴然だった。


 ある日、スタッフの急な休みで人が足りない分、お昼休憩は事務所にいる先輩と交代する約束になっていたが……


 時間になっても断られ、時々事務所から聞こえる笑い声から察するに急ぎの仕事はないようなのに一向に交代してくれる気配はなく……

 お昼も食べられないまま働き続け、送迎前にやっと少し休憩がとれた安堵感からかロッカー室で倒れたことがあった。


 知らない間に静養室に運ばれていた私は、親が迎えに来ているとのことで神山慎二が持ってきてくれたという車イスで車まで運ばれる途中……その配慮がありがたくて泣きそうになった。


 他の職員が入れ替わり立ち替わり静養室に様子を見に行く中、美妃先輩は一度も様子を見なかったそうだ。

 私は今まで先輩の体調が悪い時は進んでシフトや係を交代したが、先輩は真逆だと悲しくなった。


 ある日のこと、朝送迎が終わってデイに戻ると玄関付近に救急車が止まっていた。


「何があったの? もしかして……」


 嫌な予感は的中していた。


 その日から新規利用だった方が転倒し、骨折の疑いがあるため緊急搬送をするとのことだった。

 1回目の送迎でその方をデイに送り届け、2回目の送迎から戻るまでのわずか30分間に起きた出来事だった。


 結局その方は大腿骨を骨折していたため、そのまま入院になってしまった。


 その日の朝送迎前のミーティング……


「本日より新規利用の○○さんですが、病歴は…………………………転びやすいので転倒注意でお願いします」


 私は利用者情報書類の注意点など、共有しなければいけない情報の重要な部分を読みながら確かにそう言ったが……


「転倒注意なんて聞いてない……」


 あのベテラン職員とそれに賛同する職員の言い分はこうだった。


 事故が起きるとその詳細な状況を図や文章で表した報告書を本社に提出しなければいけないが、今回も私か……と諦めの気持ちが広がった。


 私は先輩の施設長権限で、他のスタッフがした物損やその場にいなくてよく分からない事故の報告書まで書けと命令されていた。

 まるで仕事で起こる悪いことは全部、私のせいだとでも言うように……


 本社の報告書に目を通す人からしたらきっと、「またコイツか……」といった感じに映るだろう。


 以前だったら神山慎二が助け船を出してくれたのだろうか?


(もう庇ってくれる人なんていないよね……)


 そう思っていたら次の日の帰りがけ、神山慎二に突然CDを渡された。


 大雨の日だったので帰るのに困っていたら「送るよ」と久し振りに車で送ってくれた帰り際のことだった。


「みんな『聞いてない』って都合よく話変えすぎだよな……俺は聞こえたけど」


「だから、報告書はその場にいた人が書くべきだと思う」


 私はその言葉に救われた。


「ありがと……」


 会話はそれだけだったが、黙っている時間が不思議と心地よくて……

 二人きりの車内で最初は気まずいかなと思ったが、以前のことを謝る訳でもなく、それ以上励ます訳でもなく……でもそれがなぜか嬉しかった。


 そして「送ってくれてありがとう」と降りようとしたら「コレ」とCDを渡された。


「???」と戸惑いながらも受け取ったが、なぜ今これをくれたのか、CDの曲を聞いてその理由が分かった気がした。


 私はお礼が言いたくて、神山慎二に電話をした。


 彼はただ、お気に入りのグループのアルバムの中のある曲が、私のテーマソングみたいだったから聞かせたくてダビングしただけだと言っていたけど……


 私はそのアルバムの中で『雨音~あまおと~』という曲が妙に気に入ってしまった。


 その曲を励みにして頑張っていたある日、事務所で美妃先輩と二人きりになり……

「私、あなたの顔見てると何とも言えない感情が湧いてくるのよね」と言われた。


 面と向かってそんなことを言われたのは初めてだったので、とてもショックだった。


 私が何より悲しかったのは、救急車で運ばれた新規利用の方が、入院した後に亡くなられたと聞いたことだった。

 初めての面接で自宅に訪問した時、太陽のような笑顔で出迎えて下さったとても優しい方だったのに……


 そんな中またしても最悪な事件が起きた。


 運転予定のスタッフが急遽休んだため、帰りの送迎が珍しく美妃先輩がワゴン車の運転で私が添乗という組み合わせになった日の出来事だった。


 残るは独居の認知症の利用者さんだけ送って終わりという、最後の交差点を曲がる時のことだった。


 ガンッ……ガンッ……ガガガガガガガガガガガ………


「キャーーーーーーーー」


「危ないっ」


「うっ……」


 送迎車の中に響き渡る叫び声……


 何かに突き上げられ激しく揺れる車内……


(倒れる…………)

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