第39話1.残された……想い

 灰色の雲が空一面に広がり、冷たい風が体をすりむけるようになびく。

 もうじき雪が降る。

 秋田の冬は足早にこの地へやってくる。

 心の中のすべてを空っぽにしたい。

 何も考えず、何も感じず。そして何もなかったかのようにすべてを投げ捨てた。


 部屋の片隅に置かれている将哉に送るために買ったコート

 退院してからずっとあの場所から動くことのないそのビニールに包まれたコート

 私はわざとそのコートを視界に入れない。そして、仕舞い込むこともしない。

 ただ、そこに置かれているだけのコート。

 今の私にとってこのコートの存在は何なんだろう。

 真壁先生、真壁信二は時間を見つけては私の元へよく訊ねるようになった。

「さぁ、家の中ばかりにいちゃ余計に悪い方に向いてしまう。外に出よう。今日は何処に行こうか………」

 そう言っては私を彼の車で連れまわす。

 外に出れば少しは気分もすっきりする様な気がした。

 今傍にいてくれる人。私はこの人で自分の心をつなぎとめようとしていたのかもしれない。

 でもそれは、あまりにも残酷な事であることに、私は気付こうともしていない。

 カシャ

 彼はいつもカメラを持ってきていた。

 そして私の姿をよく何枚もそのカメラに収めた。

「先生の趣味が写真だったなんて思いもいませんでしたわ」

「そうかぁ、写真はいいぞ。その一瞬の時間を止めてくれる。しかも永遠に……その光輝ける一瞬を僕はこのファインダーから残しているんだ」

「意外とオタクだったんですね」

 笑いながら彼に言う。初冬の海風が私の髪をたなびかせた。後ろには大きな風力発電の白いプロペラが何台も並びゆっくりと回っていた。

 小春日和の柔らかい陽の光が海に輝き満ちている。

「日本海側であって太平洋側にないものって知ってる?」

 ファインダー越しに私を見て彼は言う

「日本海側にあって太平洋側に無い物?なんでしょうね。同じ海だけど……、大きさの違いかなぁ」

「さぁ、何だろうね。海を見てごらん」

 後ろを振り向き背にしていた海を目に入れた。

 ついさっきまで高かった太陽が海へ落ちようとしていた。

「解った。海に沈む夕日でしょ」

「大正解!」カシャッ

「んもう、先生ったら私を撮り過ぎ。今度からモデル料いただこうかしら」


「モデル料かぁ、いいよ。辻岡さん、いや歩実香さんならいくらでも払うよ。何なら僕の人生一生って言うのはどうかな?」


「……あのぉ、それってプロポーズみたいに聞こえるんですけど………」

「真面目な話だよ」

 真剣な彼のまなざしが私を捉えた。

「僕は君の事が好きだ。いや愛してしまったようだ。でも、まだ君の中には彼の存在がいる。ここまで自分を苦しめているのも、その彼かもしれない。いや、この言葉は卑怯だ。


 僕は君にとってその彼に対する想いと同じ、いや多分それ以上の想いを抱いている。


 今君を僕のものにすることは………」


 カシャッ、沈みゆく夕日のシルエットごしの私の姿をカメラに収め

「フェアじゃないな」彼はそう呟いた。


 私は何も言わない。せる、る言葉が何もなかった。

 それでも彼のあの言葉はこの何もない私の心に、一滴の水滴をもたらせてくれた。


 もう蓋も、壁も………何もないんだ。


 何もない………何もなければ、どうすればいいのかは、自分が解っているはず。

「フェアじゃない」彼が呟く様に言った言葉。

 フェアじゃないのは彼じゃない、私の方だ。

 私は彼を、真壁信二を利用した………近くにある温もりを私はあの時利用したんだ。

 そして、今も利用している。


 本当の自分は今どこに居るのか分からない。

 その日から薬の量を減らした。

 薬を飲めば、心の中の苦しさを少し感じなくなる。いいえ、感じなくなるんじゃなくて、自分が居なくなって行く。

 私は自分を取り戻したかった。

 誰の為でもない自分の為に、自分を取り戻したかった。


 空から白い雪が舞い、秋田は冬に入った。


 短時間だけど仕事も復帰した。

「ゆっくりやっていくべぇ、ふみかぁ」

 わざと秋田鉛の喋りで秋ちゃんが私に声をかけてくれる。

「ほんと秋ちゃんて秋田の人なのね」

「んだ、おらぁ、生まれも育ちも秋田だ。そして旦那も同じ秋田県人だ」

「はいはい、秋田美人はいい旦那さんをお持ちですからね」

「ははは、そこまで言われるとさすがに照れるわ。でも歩実香、元気になってきて本当に良かったよ」

「うん、ありがとう。いろいろ心配かけちゃったね」

「何言ってんの、私達親友でしょ。そんなの当たり前じゃん」

 そう言ってくれる秋ちゃんの姿が眩しく見える。

 あの日から私は真壁先生、真壁信二とは少しずつ距離を置き始めた。

 仕事に復帰することで彼も私の様子を見ることが出来る。

 そうすれば彼も安心できるだろう。もう彼を利用することはしない。

 ただ、今、私の本当の気持ちが真壁信二にあるのなら………

 天秤にかけてるわけじゃない。

 私の本当の気持ちをもう一度、確かめたかっただけだった。


 部屋の片隅にずっと置いてある将哉のコート


 一度、東京に行こう………将哉に会いに行こう。

 何のために私はこのコートを必死に守ったんだ。将哉に会って私の気持ちが今どこにあるのかを確かめたかった。


 将哉のところに、将哉のいる東京に戻る。一時の間………

 私の心はまた歩みだし始めた様に感じる。

 本当に私が追い求めている人は誰なのかをはっきりさせるためにも


 私は東京に向かった。



 秋田とは違う青空と空気。秋田よりは温かい空気が私を包み込んだ。

 本当に久しぶりの東京。

 この空気と雑音そして人の流れが忘れていたかのように思い出される。

 将哉には連絡はしていない。

 例え会えなくてもいい、このコートを将哉の元に渡ればそれでいい。

 でも出来る事なら一目でいいから彼の姿をこの目で見てみたい。もし将哉と会う事が出来るのなら、私は将哉にすべてを打ち明けようと思っている。

 今ままで我慢してきていた分、自分を取り戻す為に、今の自分を全てさらけ出してしまおう。その事が将哉にとってどんな影響があるのかは、はかりえないことかもしれない。


 それでも………私は、将哉を愛しているんだ言う事をもう一度、再びその想いを感じたかったから


 ◇◇


 ピッチが鳴った。

「はい杉村です」

「まぁーさぁーやぁー」だみ声で僕の名を呼ぶ声、僕の指導医の笹山ゆみ医師だ。

「杉村ぁ、お前また記録書き忘れてるんじゃんか」

「あ、え、………」

「今すぐICUに来い」

「ハイわかりました今行きます」

 行くとそこには仁王立ちして腕を組んでいる鬼が僕を待っていた。

「済みません遅くなりました」

「馬鹿垂れ、何度言ったらわかるんだ。ちゃんと記録確認したらチャック入れる。そしてデータを入力する。お前が担当しているのに何で看護師のチャックが入ってんだよ」

 バンッ

 またファイルで頭を叩かれた。

 もう日常の様なこの僕たちの姿、看護師たちも、患者さんたちも毎日繰り返される僕たち二人のこのやり取りを何だろう、あきれているのかそれとも楽しんでいるのかわからないけど、見て見ぬふりする人、笑いながら僕らを漫才師の様に楽しむ人。様々だ。


 外科医、笹山ゆみ。業務中はあの長い髪をアップに纏め、薄い化粧を施している。外見は美人の聡明な外科医だ。

 だがその中身はまるで戦地に赴く戦士の様な人だ。

 同期研修の山下剛やましたつよしの指導医はさほど小さな事にはこだわらない様な人みたいだ。それに山下もそつなく業務をこなしている。僕の様に不器用じゃない分彼は指導医には優遇されているようにも見える。

 でも僕は指導医が笹山医師であったことに感謝している。

 初めて彼女から僕へくれた助言


「医者は医者である前に一人の人間でありたい」


 その言葉が今もなお僕の胸の中にとどまっているからだ


 医者は医者である前に一人の人間であれ


 後にこの言葉が僕の人生を大きく変えていく

 耐えがたい苦しみを……乗り越えるために


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