最終話:提案されたお仕事がどう考えても終身雇用な件

 子爵はミケルを殺さなかった。もちろん、ラウルも殺さなかった。

 リリスはこの一連の出来事を何も知らなかったらしく、事の顛末を聞いて大泣きしたそうだ。

 子爵は、国に散らばったすべての魔女を招集、または、個別に話をしに回り、ミケルとラウルの処遇について話し合った。

 まだ決着はついていないようだけれど、ミケルとラウルは子爵が言っていたように魔女としての地位を失うだけで済みそうだった。


 そして、散々魔女頭を誑かした悪い都の小娘は、ひっそりとポルヴィマーゴを去ったのだった。


 ***


「ありがとう、ダイド」

 私は最後の荷物を受け取って、ダイドにお礼を言った。

「本当に良かったの? こんな、町から離れた場所で」

 ダイドは笑う。

「ううん。バルガンっていい村ね。穏やかで」


 私はダイドやスザンナのつてで、結局アルブの北部にあるバルガンに住むことになった。

 アルブにいるのは危険だと思ったが、ギロディス達はアルブ南部の貴族だし、地図になかったこの村には貴族とは縁がないと思ったのだ。


「俺が使ってた家。あんまり里帰りしてなかったから綺麗じゃないけど。好きに使っていいから」

「ありがとう」

 ダイドの実家を借りれるということだったので、甘えることにした。

「働き口まで面倒見てくれて、本当にありがとう。感謝しきれない」

「ははっ、復興で色々人手が必要なんだ。むしろありがたいよ」

 そう言ってダイドは私の頭を撫でた。

「ダイドは、戻るのね」

「うん。俺はポルヴィマーゴに戻る」

「…………そう」

 私は少しだけ俯いた。

「あの、ダイド……」

「ん?」

 ダイドは自分の荷物を持ち上げて、首を傾げる。

「一緒に生きてくれるって、言ってくれてありがとう。あの時、お礼を言えなかったから……」

「…………うん。こちらこそ、困らせてごめんね」

 少し照れたように笑った。

「気が変わったら、いつでも言ってくれていいから」

「も、もう……今はその話やめませんか……」

 どうしてそんなにサラッとしていられるのかしら、この好青年。

 そして振っておきながら、こんなにダイドのお世話になりっぱなしな自分が情けなくなる。

「時々帰ってくるから。その時、言ってくれたら子爵に返すお金、預かるよ」

「うん。頑張る……」

 ダイドはにっこりと笑って、手を振り、ポルヴィマーゴへと帰って行った。


 ああ、全部。

 全部、何もかもが夢みたいだったな。

 空を見上げてぼんやりそう思った。


 ***


 円形の古代神殿。旧子爵邸。

 魔女が古代から使い続けてきた、集いの場。

 幾度目かの、件の魔女裁判。

 月が隠れた新月の夜、それは最後になった。


「ラウル。ミケル。前へ出ろ」

 子爵の声が響くと、2人はゆっくりと前へ出た。

「全魔女の合意のもと、お前たちに判決を言い渡す」

 2人はこくりと頷き、何もかもを覚悟した顔で子爵を見つめた。

「前ハンブル国王を殺すため、『魔女の粉』の紛い物を製造し、エラルドへ不正に流した。その結果、その一部の粉がマリットの手に渡り、悪用される結果を招いた。その罪は重い」

「はい。子爵」

 ラウルは膝をついて首を垂れた。

「しかし、前ハンブル国王の行いに対し、魔女として何もしなかったこと。それには疑問が残っており、魔女たちの間に溝を作ってしまった。そのことは、ヴァーテンホールの責任だ」

 子爵はゆっくりと周りを見回した。

「クレイを失った悲しみは全ての魔女達の心に傷を負わせた。これは、その結果が招いた事態だ。……だから、特別に、代表としてここに来ている者、来ていない者を含め、すべての魔女との対話を行った。これはその結論だ」

 魔女たちは頷いた。

「ラウル、ミケル。お前たちの魔女としての地位は剥奪する。今後、粉の使用、裁判や刺客の魔女についての関与を禁ずる。『紛い物のレシピ』と残っている『紛い物』をすべて提出してもらう」

 子爵は息を小さく吸い込んだ。何かを飲み込もうとしたようだった。

「今後、同じ物が市井で見つかった場合、再度裁判を行ったうえ、その粉を飲んでもらう。そのことを忘れるな」

 子爵は祈るように、言い聞かせるように、2人にそう言った。

 完全に許すことなどできない。彼ら許してはならないという魔女ももちろんいるのだ。

 ――殺させてくれるな、と。その眼が告げていた。

「御意。子爵の恩情に、感謝いたします」

 ラウルとミケルは声を揃えてそう言い、深く頭を下げた。

 子爵はふっと息をつき、やっと肩の力を抜いた。

 そんな彼をブレトンは見逃さず、苦い顔で見守っていた。

「では、裁判を終え――」

「子爵」

 終了の宣言をしようとした子爵の言葉を遮る者がいた。

「……なんでしょう」

 子爵はその者の方にゆっくり体を向けて問いかける。

「ランヴィール夫人」

 彼女は右手を挙げて、じっと子爵を見つめていた。

 ブレトンは緊張し、身を固めた。

 彼女は魔女の世界の中で、子爵に次いで高い地位にいる女性だ。

 そんな彼女がこの裁判を覆しでもしてみろ、今までの努力が水の泡だ。

 彼女は相変わらず、感情の見えない目をしていた。

「今回の判決について、ひとつ。確認したいことがあるのです」

「……ええ。なんでも聞いてください」

 本心ではなかった。だが、却下などできない。

「ラウル達を……前ハンブル王の行いを再評価したうえで、恩情をかけ許すということは、前国王は少なくとも殺すに値する者だったということ」

「…………そうなりますね」

 魔女たちは顔を見合わせて、ヴェルサが何を言おうとしているのかを確認しあったが、誰もその答えを持ちえなかった。

「私たちは少なからず判断を誤った。クレイが行った勝手な行為は、間違いではなかった。そうなりますか?」

「……えぇ、そうですね。私はクレイの行為について『情状酌量』を前提として咎めなかった。それを汚名だと思っていたのでしたら、返上しましょう。彼女は、正しかった。武力を用いず愚王に立ち向かった。勇気ある魔女です」

 ランヴィールはゆっくりと数回瞬きをして、それから頷いた。

「そう。その方法は魔女の粉によるものではなかったが、武力を用いず、抗った。それは魔女として勇気ある、そして、正しいこと。私を含め、此処にいる魔女たちはそれを認めています」

 彼女が言ってほしいことを言ったつもりだったが、彼女は歯切れ悪くそう言ったので、子爵は訝しんだ。

「…………? 何か、おっしゃりたいことがあるのですか?」

「……先日。この場所に飛び込んできた、あの少女についてですが」

 子爵、ブレトン、アーノルドはぴくりと反応し、ランヴィールを見つめた。

「ランヴィールが独自で調べさせていただきました。彼女は『リブレリーア』と呼ばれる、本屋兼印刷屋の娘でした。そして、彼らは一切剣を用いず、筆でのみ戦った。愚王を許してはならない、と革命軍の思想の要になる言葉を発信しながらも、実際には借金を負わされ、王都襲撃には参加せず、革命当日にはむしろ革命軍に追われ都を離れていた、とのこと」

 一体どこから、そんな正確な情報を得たのか?

 ランヴィールの情報網も恐ろしいな、とブレトンは思った。

「彼らもまた、武を用いず愚王に立ち向かった。勇気ある者たちなのではないですか?」

 ざわっと、魔女たちは身を寄せ合ってざわめいた。

 彼女の言いたいことは、皆分かり切っていた。

 ヴェルサは一歩前へ出て、こうべを垂れ続けるミケルやラウルのそばまで歩み寄った。

 子爵は一歩も引かずに彼女を向かい合い、見つめあった。

「私は、あの娘に魔女として責めるところがないのではないかと思っています」

 子爵は一瞬狼狽えたような顔をしたが、すぐに苦笑いした。

「…………金を騙し取ったと、公言した娘ですよ」

「それはあなたがマヌケなのです。ヴァーテンホール」

 辛辣な言葉だった。

「……それはそっちで話し合えばいい。私は魔女として話しています。彼女は、魔女の敵ではない」

 そして、ひどく甘やかしたお話だった。

「そう思いはしませんか?」

 ヴェルサはくるりと身をひるがえし、すべての魔女に向かってそう言った。

 魔女たちは、シンとしたが、すぐにまたざわつき始めた。

 そんな魔女たちをヴェルサは目を細めて見渡し続けた。

「賛成」

 ざわめきを割り、一人の男が手を挙げた。

「……アーノルド。賛成、とは?」

 ヴェルサは手を挙げたアーノルドに向かって、ゆっくりと問う。

「あの娘は魔女の敵ではない。革命軍の娘だろうがな。その意見に賛成だ」

 アーノルドはぶっきらぼうにそう言い捨てた。

「ですが……あの時あの娘は革命資金を肩代わりさせるために子爵に近づいた、と公言していたではないですか……。それだけでも敵意は認められるのでは?」

 他の魔女が顔をしかめた。

「あんな大根役者の芝居に騙されるなんて、盲いたのではないか?」

 アーノルドはふん、と鼻を鳴らした。

「ややこしいのは良い。あの娘と家族は革命のために金は借りたし、民衆を奮いたたせ、革命を煽りはしたが、武力を用いなかった。それはクレイと同じだ。あの王を、この国を終わらせるためだった。それだけわかっていればいい」

 魔女たちは、再びしんとした。

 反論らしい反論は、もう出なかった。

「子爵」

 ヴェルサが再び子爵の方に向き直り、漆黒の瞳でじっと見つめた。

「私たちは、あの娘を認めます」


 ***


「お父様……! ミケル……!!!」

 ラウルの屋敷に戻ってきたラウルとミケルを見て、リリスは泣きながら飛びついた。

「ああリリス、大丈夫だ。決着はついた」

 ラウルが優しくリリスを抱きしめた。

「バカバカ! 死ぬほど心配したのですからね! 本当に、バカですわ!」

「あはは……もう随分なじられたけど、まだなじられちゃうか」

 ミケルは頭をかいた。

「あったりまえですわ!」

 リリスは涙と鼻水を流しながら吠えた。

「お父様とミケルがいなくなったら、私は一人ぼっちになってしまうのよ!」

 その泣き顔を見て、ミケルの胸はひどく締まった。

「そうだね……」

「……ミケル? ご、ごめんなさい。そんなにきつく言うつもりは……」

 リリスはぎょっとして慌てた。

「一人ぼっちは、だめだね」

 ミケルはぎゅっとリリスを抱きしめ、そして涙を落とした。そして、その涙はリリスの可愛らしい頬に痕を残したのだった。

「ねぇミケル。また紅茶入れてくださる?」

 リリスは優しくミケルの背中を撫でた。

「紅茶好きだったクレイ様に、昔教わったんでしょう? 私も、詳しくなりたいわ」

「…………うん」

 ラウルはそんな二人の子供たちを見て、悲しく微笑んだ。


 ***


 都育ちの私にとって、バルガンの生活は、なかなか慣れないことが多かった。

 土いじりをすることも初めてだったし、家の修復がこんなにてこずるとは思わなかった。

 アルブ地方最大の都市、アルブ。地方の名前の由来でもあるその町には歩いて数時間かかり、何か凝ったものが必要な時は苦労した。

 それでもバルガンの人たちはとても優しく、私はなんとかやっていくことができた。

 両親もサリーナ・マハリンでの開業は順調にやっているみたいで、何度か私を訪ねてきてくれた。


 そうして生きているうちに、気が付けばポルヴィマーゴを出て、3か月が経っていた。

 そんな時だった。


「手紙?」

 週に1度届く郵便物の中に、手紙が入っていた。

「綺麗な字……。差出人は……」

 びくっとした。

「……え、メ、メアリー?」

 差出人は、メアリーだった。

「ど、どうして!?」

 私は慌てて手紙を開封しながら家に入った。

 ダイドが私の居場所をメアリーに話したのだろうか?

 それはあまり考えられなかった。そんな迂闊な男ではない。信頼できる友人なのだ。


 手紙には、こう書いてあった。


『親愛なるラピスへ

 元気ですか? ポルヴィマーゴのメアリーです。

 突然町から出て行ったから、ダイドの家を訪ねてラピスがいないと知って、とても寂しかったわ。ひとこと言ってくれてもいいのに。水くさいわね。


 あの日、子爵がミケル様を切りに行くと知った時、泣きついてしまってごめんなさい。

 ラピスが城から出て行った後、ラピスのことを誰にも話せる雰囲気じゃなかったから、あなたがもう戻らないということはすぐわかりました。そしてラピスはきっと、自分でそう選んだんだということも、わかりました。だって、そうでもなきゃ子爵があなたを探さないわけないもの。

 それなのにラピスを頼ってしまった。また、魔女の世界へ引き戻してしまった。そのことがずっと気がかりでした。本当にごめんなさい。

 でも、ミケル様を助けてくれてありがとう。本当に感謝しています。言っていなかったけれど、私の恋人は、ミケル様の従者のひとりだったの。だから、ミケル様が殺されるのをどうしても止めたかった。自分勝手でごめんなさい。』


 メアリーは謝ってばっかりだった。


『ミケル様とラウル様の処遇が決まりました。

 2人とも殺されずに済みました。魔女の地位を剥奪されましたが……。それはそれで重大なことなのだけれど、命があって本当に良かった。ラピスも心配してるんじゃないかと思ったので、一応報告です。』


 ああ、ほっとした。よかった。本当に。


『ところで、この住所。どうやって知ったと思いますか? 実はダイドから買いました。』


「へぇ?!」

 驚いた。買う? ダイドが、私の情報を売ったということ!?

 信じられなかった。


『私は友人の友人だから。特別に。お得意様扱いをしてもらったの。

 あの人は自分のルールに誠実ね。とてもいい人だわ。ラピス、どうして振っちゃったの?』


 メアリー、どこまで知っているんだろう……。


『お金、というか飲み代金だけじゃ足りなかったから。私もダイドに情報を売りました。

 こんなアウトローっぽいこと、初めてやったわ! ラピス、あなたに連れられて昼間のバールに乗り込んだからかしら。肝が据わってしまったのかも。』


「はは……」

 思わず笑ってしまう。メアリーのいたずらっぽく笑った顔が懐かしくって。


『ダイドは売られた情報は人に売るそうだから、私の売った情報はすぐに広まってしまうかも。

 でも、とっても良い値の付く情報だったから、きっと買える人は限られてると思うわ。』


 何を売ったんだろう、この子は……。

 なんか、恐ろしい話を売ったんじゃあなかろうか……。


『親愛なるラピス。私の友人。

 きっとまた会えるのを楽しみにしています。返信は不要です。

 身体に気を付けて。

 メアリーより』


「…………はー」

 手紙を折りたたんで、私は深いため息をついた。

 城にいたときのことを鮮明に思い出して、懐かしくって、恋しくって、胸がいっぱいになってしまった。

 息を吐き出さないと、胸が弾けてしまいそうだった。

 返信を出すことはできない。城の人に、この場所を知られるわけにはいかない。

「……働こう」


 私はこの村の役所仕事っぽいことの補佐をやっており、今日は都の偉い人へ向けた書状の代筆を頼まれていたのだ。

 もうすぐ村長が家までやってきて、書いてほしいことを話にくる手筈になっている。

 コンコン。

 さっそく戸が叩かれた。

「はいはい。今開けますよーっ!」

 玄関まで駆けていき扉を開いた。


 そこには、居るはずもないあの人が立っていた。


 ***


「…………え」

 うまく声が出ない。びっくりして。

「久しぶりだな」

 ほとんど無表情な顔で、彼は――子爵は、私を見下ろしていた。

「え……。あ?」

 目を疑った。というか、意識を疑った。

 私は幻覚を見ているのではないか?

「ラピス」

「は、はい!」

 いや、この声も幻聴なんかではない。

 私は背筋を伸ばした。そしてあり得ないこの状況にどうしたらいいか分からず、ただ口をパクパクさせた。

「…………変な顔だな」

「は、はぁ?!」

 突然の悪口に、緊張と混乱が解けて大声が出た。

「なっ、なんなんですか突然!? 会うなり変な顔だぁ!? 失礼にもほどがあるじゃないですか!」

 憤慨。

「って、そうじゃない!」

 からの、ひとりツッコミ。

「どうしてここにいるんですか子爵!!」

 叫ぶ。

「どうやってここが……――」

 突然、指で柔らかく唇に触れられる。

「!?」

「あんまり大きな声で、子爵と呼ばないでくれ。人に聞こえる」

 そ、そうですけれども!!

 私はばっと家の中に2歩下がって、その指を逃れた。

「どうして……?」

「君の居場所は。ダイドから買った」

「は……はぁ?!」

 ダイド!?

「正確には、『ヴァーテンホールが、城にいたラピスという娘をどうしようとしているか?』の情報を、買った」

「……な、何言ってるんですか?」

 全然話が見えない。

「どうやら奴は、そんなピンポイントな情報を丁度仕入れたところらしくてな。なかなか良い値で売ってくれた」

 子爵が一歩、踏み込んでくる。

「売られた情報はこうだ。『ヴァーテンホールは魔女の許しを得たので、バルガン203番地に住むラピスという娘のところまで借金の取り立てに行き、城に再び迎えようとしている』」

「…………は……?」

 何、その具体的な情報は……。

「誰かが売った情報を、一言一句違えず、売ってくれたとのことだ」

 つまりそれは、私の住所を知っている人間が、売った情報。

「め、メアリーか……」

 なんて不自然な! なんて狡猾な!

「……っていうか、魔女の許しって……」

 混乱する頭で状況を再整理していると、子爵はもう一歩、踏み込んできた。

「ラピス」

「は、はい……!」

 気づいたら、左の手を取られている。

「君に貸している残りのお金についてだが、一番効率の良い返し方を提案させてくれないかな?」

「……て、提案?」

「私のもとで、もう一度働いてくれないか?」

 私の手を取る子爵の右手は、温かく、大きく、そして、震えていた。

 けれども彼のその瞳は、深く、鋭く、まっすぐに私を見据えて離さなかった。

「あ……――」

 ダメだ。

 堪えきれなくて。

 ぽろりと涙がこぼれたのを止められなかった。

「私……っ迷、惑……――」

 言葉にならない。

「迷惑じゃない」

 子爵は短くそう言った。

「城……っい、ても……いっ……いいんですか?」

「誰も責める者はいない」

 ああもう。

 泣き顔なんて、見られたくないのに。

 取り繕えなくって、私は握られていた左手に額をつけて顔を隠した。

「返事を、もらえるかな?」

 優しい声が、耳元で聞こえた。


 私は嗚咽を隠しながら、何度も、何度も頷いた。


 ***


 2週間後、もろもろの準備を終えて私はポルヴィマーゴに帰ってきた。


「ラピス!!!」

 城に着くと声を張り上げたメアリーにがばっと抱きしめられた。

「お帰りなさい! ああ、本当に良かった! ラピス!」

「めっ……メアリー! 苦しい!」

 メアリーの大きな瞳には涙が浮かんでいた。

「ごめんなさい。ラピス。……ね、手紙、読んでくれた?」

 私を放しながら、メアリーはにっこり微笑んだ。

「……読んだわよ。律儀な手順を踏んでくれたのね……」

「ふふ。正式な取引だったわ」

 どうだろうか。

 メアリーは私の荷物を半分持って歩き出した。私もメアリーについて部屋へと向かう。

「手紙が来た日に子爵が来たから、考える間もなくて本当にびっくりしたわ」

「ええ!?」

 メアリーは驚いた。

「そんなはずないわよー! 私子爵が出向く結構前に手紙出したのよー?」

「…………バルガンは郵便物は週に1回しか届かないのよ」

「ええ!? すごい田舎ね!?」

「……ダイドに言って」


 私の部屋についた。

「え、メアリーどこ行くの」

 はずだったのに、メアリーは立ち止らなかった。

「え?」

「え、此処でしょ、私の部屋」

 私が指差したドアを見て、メアリーは少し考えて、ああ! といった。

「此処はね」

 ガチャリ。ドアを開ける。

「あっ……!」

「物置。もともと、そうだったでしょ?」

 中には、掃除道具やリネンなど、様々な道具がきれいに整理されて詰め込まれていた。

「あ、え!? 私の部屋は?!」

「あはは、ラピス。あなたがいなくなってからどんだけ経ったと思っているの? 南の隣国タリアでも革命が起きるくらいは時が経っているのよ? そのままにしてあるはずないじゃない」

「え、ええ……いやいや……あの、え? じゃあ私の部屋はどこに……――」

「あっちよ」

 メアリーがにっこりと笑った。


「……え」

 部屋に通されると、驚いて立ちすくんでしまった。

「あなたの部屋は、此処」

 そう言って、メアリーは私の荷物を床に下ろした。

 そこは子爵の寝室と同じくらい大きくて立派な部屋だった。

 大きなベッドと立派な机が部屋に備え付けられていた。

「え! いやいや! ちょっとこれは想定外だから! 私、ここに雇われてきたんだよね!?」

 ばっと振り向いてメアリーの方に向き直る。

 しかしそこにいたのは、もうメアリーではなく。

「……し、子爵!」

 子爵だった。

「やぁラピス。到着したんだね。迎えに行けなくてごめん」

「し!? 子爵これはどういうことですか! 私の部屋は!?」

 もうこの際、子爵に噛みつく。

「あはは。前の部屋にあった荷物はちゃんと運び込んでるよ。安心して」

「そういう意味じゃありません!!」

 子爵は微笑んだまま、私の手を取り一歩、二歩、近づいた。

 私はそれに従って後ずさる形で、一歩、二歩と、後ろに下がってしまい、ついにはベッドにぶつかって反動で縁に座ってしまった。

「…………あの……」

 これは、どういう状況なのだろうか。

 子爵は何も言わず、意地悪く微笑みながらただ私の顔を見下ろしていた。

「業務内容を伝えてなかったっけ?」

「……ぎょ、業務内容?」

 今その話をする状況でしょうか。

「私の婚約者になってくれないかな。ラピス?」

「………………。ん?」

 ちょっと、何を言っているのかわからない。

 分からないながらも、足の指先から頭のてっぺんまで、じわじわと熱を帯び自分の体温が沸騰していくのを感じた。

 ぎしっと、ベッドがきしむ。子爵の片膝がマットレスに乗ったからだ。

 これではもう立ち上がって逃げることはできない。

「……あの、業務、ですよね?」

「うん。君の残りの借金額から換算して、期間としては60年くらいかな?」

 あ、それは終身雇用ですね。

「断るという、選択肢は……――」

「断れる立場だったかな?」

 私は言葉が出ず、ただただ顔が熱くなっているのを感じていた。心臓のリズムもおかしい。

 そんな私を見て子爵は、くっと短く笑った。

「そんな可愛い顔しないでくれよ」

「かっ……!?」

 ぽんと、軽く肩を押されて終ぞ私は倒れてしまった。

 そしてまた、出会った時と同じく、真上から綺麗な顔で見降ろされてしまった。

「あっ……あの、具体的な業務内容は。前と同じで、女であること、だけ、ですよね? 他には何もしなくていいんですよね?」

 恐る恐る、問う。

「さぁ? それは、ラピス次第だと思うけど」

 彼の笑顔は、おもちゃを虐めて楽しむいたずらな少年のようだった。

「い、いよいよ婚期のがしますよ……子爵」

「婚約者が逃げない限りは、大丈夫だよ」

 ああ、もう!!

「わ、分かりましたよ! 分かりましたから! お願いだからどいて下さい!!!」

 全力で叫ぶ。

 その顔をまじまじと見た子爵は、盛大に吹きだした。

「あっ……あははははははは! あぁ、ごめんごめん……面白くて……つい……!!!!」

「わ、笑いすぎです!! いいからどいてくださいよ!」

「……ん?」

 全くどこうとせず、子爵は可愛らしく首を傾げた。

「どうして?」

「どうして!? ……って……顔が…………っ近いから。恥ずかしいので……どいて、ください……」

 急速に恥ずかしくなって、私は顔をそむけた。

「契約は成立した。もう婚約者なのに、そんなので大丈夫か? ラピス」

 優しく、乱れた前髪を撫でられ、私は思わず固く目を閉じ、びくっと身を縮めてしまった。

「…………」

 触れられた額の汗が恥ずかしくてまた顔が赤くなる。

「……そんな反応されると、虐めたくなってしまうじゃないか……」

「え?」

 何を言ってるんだ、と思って目を開き子爵の方を見ると、その瞬間、額に柔らかい唇が当たった。

「……え……。はえあ!?」

 変な声が出る。

 すると子爵は、ぱっと身を起こし、私の上からいなくなった。

「……え」

 私は恐る恐る額に触れる。

 もしかして、もしかしなくても、今、キスされた?

「ははっ」

 子爵は短く笑った。

 その笑顔は屈託なく、どことなく少年らしかった。

「じゃあ、これからもよろしくね。ラピス」

 彼は何事もなかったようにあっけらかんと、右手を出す。

「……え……え。あ、はい」

 私は身を起こし、恐る恐る手を伸ばす。

 まだ頭の中はぐらぐらしている。理解しつつも、何も、考えられてない。

「…………やっぱり、此処に戻ってくるのは嫌になったか?」

「え、は?!」

 そんな様子を見かねてか、子爵が急にすごく真面目な顔で尋ねた。

「…………。う、いえ」

 私はぎゅっとこぶしを握って、俯いた。

「城を飛び出してから、ずっと、此処のことを考えていました……。また、メアリーやダイドや、ブレトンに会いたいって。子爵とまた……一緒にいたいって。多分、ずっと思ってました」

 恋しく思っていた。それは正直に、認める。

「……だから、また一緒にいれるのは、すごく。嬉しいです。子爵」

 子爵の手を握りながら自分の気持ちを素直に認めると、嬉しさがこみあげてきて、私は自然と微笑んだ。

「そうか。それは、よかった」

 その笑顔につられるように、子爵が笑ってくれたので、もっと嬉しくなって私は大きく頷いた。



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『ラピスラズリと琥珀』おわり

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