第10話:うちの子爵様が人から恨みをかいがちな件

「ラピス……?」

 夜、仕事を終えたメアリーがラピスの部屋までやって来てノックした。

「ねぇ、今日子爵と喧嘩したそうだけど……大丈夫?」

 この城ではすぐに噂が飛ぶ。色々な脚色は、まぁおいといて。

「……ラピス?」

 返事がない。この沈黙に嫌な予感がしたメアリーは、ドアノブに手をかけた。

「ねぇ、ラピス!」

 ガチャ!

 戸をあけると、思ってもなかった光景が広がっていた。

「ラピス……!」

 その部屋には、誰もいなかったのである。


 ***


 出てってやる! 今日は、飲みに出てってやる!

 町に行くな? 知るか、もう今から行ってやるんだから!

 私は頭の中で煮えたぎる思いを吐き出しながら、城を飛び出していた。

 暗い道をずかずか歩くもんだから、ランプがユランユラン揺れる。

 暗闇が怖いとか、そいういうのはちょっと、麻痺してる。

 町に出てやる。

 反抗してやる。

 飲んでやる。飲まれるくらい、飲んでやる! ……お金が足りる分だけ。

 そうして町に着いたら、もうかなり夜は更けていて、賑わいはなくなっていた。

 ただし、どんな町にもあるものだ。一晩中開いていて飲めや騒げやできる場所が。

 私は以前飲み勝負をしたバールに向かって直進した。

 あの店の近くの店でダイドは働いていると言っていた。

 本当に情報屋なのか、自分の目で確かめる。

 仮に情報屋だったとしても、できることなら私の情報を売ろうとしているかどうかまで確かめる。

 それからよ。全部。

 私はそう意気込み、飲み比べをした店の裏にバールを見つけて、そろりと店に入った。

 すると、確かにそこにダイドがいた。

 店を見渡すと、活気があって小奇麗で、ダイドに似合う店だと思った。

 私の赤と銀を混ぜたよう褐色の髪は目立つ。だからフードをかぶってバーカウンターに近寄った。

 耳をそばだてると、ダイドの声が聞こえたので、私は他の店員にビールを頼み、椅子に腰かけた。

「よお、姉ちゃん! 一人か?」

 めんどくさいのに絡まれる。

「一人だけど、ちょっと黙っててもらえたら助かるわ」

「なんだ? 聞き耳でも立ててんのか?」

「そういうとこ」

「はは!」

 男は豪快に笑って、離れていった。

 なんと聞き分けのいい。

 もしかするとこの町って、すごく上品な町なのかも。

 気を取り直してダイドの様子をフードからちらっと見ると、働いてるダイドは昼間と違ってすごく活発な青年に見えた。

 楽しそうだ。人と話すのも、飲むのも。

「……いいな」

 なんだか羨ましくなってしまった。

 実家の本屋で働いていた時、自分の周りにも人がいた。知らない人、常連さん。いろんな人と本の話をした。

 そんなこと思いだしていると、楽しかったあの頃がひどく懐かしくなった。

「ヴァーテンホール子爵?」

「!」

 びくっとする。

 ダイドの口から、彼の名が飛び出したからだ。

「なんか知らねぇ?」

 うわ! なにこの絶好球!

 そう、これを訊きたかったのよ私は。

「んー……。噂レベルだな。会ったことはないし」

「あーそうかあ。あの男はこの辺をしきってるからな……あいつの代になってから、随分やりにくくなった」

「はは……悪いことはできないものですよ」

「革命にも乗らなかっただろ。そのせいでブロイニュは今後の国政においてかなり不利だ」

「ブロイニュは武力で解決するのは好まないですからね。昔から」

「俺はそれが気に食わねえんだよ」

 ダイドと話しているその男は、やけに子爵を敵視しているようだった。

「物騒だなぁ、闇うちでもするつもりですか?」

「どうかな」

 彼が持っている剣は、なかなか立派なものだった。ぞっとする。

「最近あいつには女ができたってな?」

 思わず肩を震わせる。

「それも噂でしょう。実際には本当に愛人がいるか分からないって聞いてます」

「金を払えば教えてくれるのか?」

 うわ、これは、やっぱり……情報屋ってのは、間違いないかもしれない。

 少しだけ胸が詰まった。

「そうですねぇ」

 わ、やめて。やめて、聞きたくない……!

 ぎゅっとフードを掴み、目をつむった。

「その情報。俺が他の人から買った時は、売りますよ」

「……? なんだそれ?」

「俺は人から買った情報しか売らない主義なんで」

「ってことは、自分がたまたま見知ったことに関しては、売らないと?」

「まぁ、そういう時もあるけれど、それはお得意様だけ。ほとんどないね。例外は」

「へっ! めんどくさい奴だが、主義があるやつは嫌いじゃない。何より信頼できるからな。じゃあ頼むぜ、予約しておく」

「了解」

 物騒な話ね……っていうか、狙われるのは私か。なんだか冷静にそんなことを考えてしまった。

 そして、確かにこんな風に恨みを買っている状態では、簡単に他人のことを信用することは難しいかもしれない。と、子爵の言っていることを少しだけ理解してしまった。

「そういえば、お前にも最近女ができたんだってな?」

 話が変わった。ダイドは身に覚えがないらしく首をかしげた。

「ほら、褐色の髪の」

 う、それも多分、私の話だ。

 ますますフードを掴んで深くかぶる。

「ああ。いや、あの子はそんなんじゃないよ」

「どこで知り合った?」

「あっちの店でその子が飲み比べしててさ、酔い潰れそうだったところを助けたんだ」

「やるな、ナンパか」

「あはは!」

 ダイドは少し声を張って笑った。

「可愛い女の子が倒れそうだったら、そりゃ助けたくなるでしょ」

 ――て、照れるわ!!

 思わずパチンと頬を叩いた。顔がほてるのは、アルコールのせいじゃない。

 こんなの聞くと、女だったらそれでいいとか、胸がないとか言う子爵よりずっと紳士だ。

「ああ、知ってるぞ。城で働く女と一緒にいた娘だろ」

 ダイドと男のところに、さらに他の男が介入してきた。

「え?」

 ダイドは驚いたようだった。

「ほら、茶色い髪の毛の。城で働いてるっていう若い娘いるだろ」

「……茶色髪なんていくらでもいるからなぁ」

 ダイドは苦笑いした。

「いやいやいるんだよ。でな、その褐色の女をツレにしてた。もしかしてその女も城で働く女なんじゃないのか?」

 うお、メアリー。あんた結構有名なのね?

 確かに、城で働く若い娘なんてメアリーくらいしかいない。知られていても不思議じゃないのかもしれない。

「へぇ? なぁ紹介しろよダイド。その娘、子爵の弱みかなんか知ってるかもしんねぇ」

 子爵を嫌う男が体を乗り出した。

「変なことに巻き込まないでくれよ」

 ダイドはそれを宥めるように微笑んで、うまく受け流した。

 その後も、いろいろな人と話をしながらダイドは楽しそうに働いていた。

 バーテンダーであり、情報屋である彼は周りに慕われていた。それは見てて分かる。

 私はそんなダイドを見て、やっぱり彼を信用したいと思った。

「帰ろう……」

 なんだか怒りも酔いも完全に冷めて、結局ビール一杯だけで席をたってしまった。


 ***


 岐路。来た時よりもずいぶん暗くなった町を、一人俯いて歩く。

 なんだか元気が出なくて、とぼとぼと辛気臭い歩き方になってしまう。

 町に飛び出して来た時の勢いは殺がれていて、足取りは重い。

「……はあ」

 どうしてこんなに虚しくなってしまったんだろう。子爵の言葉に腹を立てていたはずなのに。

 それは多分、子爵の言い分もまんざら間違いではない、と思えてしまったからだ。

 子爵は敵が多い。私がただ子爵の城にいるってだけで変なことに巻き込まれる可能性だってあるのだ。

「私が、甘いのかな……」

 そんなことを考えていたら、全然酔っていないのに、頭がぼんやりしてきた。

 ダイドについても、情報屋であることは本当だった。誰かが私の情報を売れば、きっと彼はさっきの奴にその情報を売る。それが商売なのだから、あたりまえだ。

 信用って、なんだっけ?

 人を信じるって、何?

「……なんか、やっぱ。私酔ってるかも……」

 虚しくなって、ついぞひとりごちてしまった。


「城の娘だな」


「え?」

 暗闇から声が聞こえてきて顔を上げると、目の前に大柄な男が数人立っていた。

「お前、ヴァーテンホールの城の娘だな?」

 ごくりと息をのむと、急速に頭が冴えてくる。

 これは、いい雰囲気じゃない。

「だったらなに……?」

 町を出てすぐではあったが、今ここで叫んでも町の人の耳に届くかどうか疑問であった。

 ここは一人で切り抜けるしかない。

「お前には恨みがないが、あの魔女頭には恨みがたんまりあるんでな」

「……それで?」

「悪いが、ちょっと一緒に来てもらう」

「人違いよ。私は城の者じゃない」

 しらを切る。

「嘘はいけないな」

「わ……!」

 気が付けば回り込まれており、がしっと後ろから腕を掴まれた。

「大勢で、ご苦労なことね」

 完全に挟まれていた。むしろもう囲まれている。

「この髪は、ここいらじゃ目立つんだぞ? お嬢ちゃん」

「っ……離してよ!」

 手を振りほどこうとするも、虚しく力及ばない。

「だいたい、私に何の用!? 子爵の城にいるからって何よ!」

「子爵の女について、教えてもらえるか?」

「は!?」

 やっぱりそれか。

 頭の悪い奴の考えることは、みんな同じなのね!

「知らないわよ! 見たことないもの!」

「城に住んでいると言う話だぞ」

「私みたいな下っ端が知るはずないでしょう!」

 吠える。

「……気の強い女だな。本当に城に仕えてるのか?」

「人に従事するタイプの人間じゃありませんねぇ」

 ほっとけ!

「じゃあいい。それならあの男の弱みを知ってるか?」

 いいのかよ! 案外諦めの早い奴らね。

「知るわけないでしょうが! 恐い人ってことくらいしか分からない!」

「……心から仕えてないなこれは」

「給料はよさそうだもんな」

 だからほっとけ!

「ならいい。お前に用はない」

「離してくれる?」

「いや、死んでもらう」

「……はぁ!?」

 ちょっと、待った!

「なによそれ、どういうこと! 私を殺してどうなんのよ!」

「あの城に仕えている人間を八つ裂きにする。明日朝一で城に死体を届けてやるよ。これは、警告だ」

「……ば!」

 ばっかじゃないの!?

「離してよ!」

 ガブリと、思いっきり腕をかんだ。

「うああ!? !」

 掴んでいた男が腕を緩めたので、私はすぐに身をかがめて駆け出した。驚いた男たちの隙間を縫うように走り抜ける。

「待て!」

「くそ! あの女!」

「捕まえろ!」

 私はなりふり構わず走った。

 全力疾走、全速前進。逃げるが勝ち!

 足の速さには自信がある。

 後ろを振り向くことはしないが、足音が迫ってくるのが分かった。

 あぁ、子爵はこれを恐れていたんだろうか……。

 走りながらぼんやりとそんなことを考えた。

 結構走ったところで、城へ続くきつい坂道が始まった。

 こんな一本道じゃ、隠れる場所もなかった。

「……っ!」

 ダメだ、体力が持たない。心臓が破れそうだった。

「追いついたぞ! 逃げんなてめぇ!」

「う、わ……!」

 振り返ると、すぐ後ろに一人だけ男が追いついていた。きっとこいつも走りにだけは自信のあるタイプだ。

「わ!」

 後ろを見たためか、私は足をもつれさせてしまい、ぐしゃりと倒れてしまった。

「……っ!」

 慌てて身を起こそうとするも、それはすでに手遅れだった。男は私の身体をまたぐ形で立っていた。

「もう、逃がさないぜ……」

 息を切らして男が言う。こちらも負けじと息が切れている。

「私をっ……殺そうったって……殺したって……、何も変わんないわよ」

 睨みつける。

 だが、ああ、これはいわゆる絶体絶命だ。

「私が死んだって、子爵は何とも……思わないし、あんたたちの主張なんか届かない!」

「このくそアマ……!」

「やろうとしてることがみみっちいのよ! それでもタマついてんの!?」

「てめ……! そんなに言うなら、殺す前に犯してやるよ……!」

「っ!」

 ブオン! っと、振りあげられた木の棒が風を切った。

 その刹那。


 ゴッ!


 と、鈍い音が、響いた。

「……え?」

 次いでどしゃっと人が倒れる音がすると、同時に身体が引き上げられた。

「言いたいことがあるそうだが」

「……あ」

 この声は。

「わざわざこの娘を通さなくとも、聞いてやるぞ。クズども」

「……しっ! しゃく!」

 声の主は子爵だった。

 子爵は長剣を鞘から抜かずに男に突きつけていた。

 漆黒の外套が彼を闇に溶かしているようだ。

 その外套の内で私の肩を包み込む手はとても大きくて、見上げた彼の顔が少し怖くって、私は思わずぎゅっとしがみついてしまった。

「……ど――」

 どうして、此処にいるの?

 そう言いたかったのに、声が震えてうまく言うことができなかった。

「て、てめえは!」

 鼻を折られ倒れた男が呻く。

「ヴァーテンホール!」

「てめぇ!」

 次々に男たちが追い付いてきて、この状況に驚いた顔をした。

「……七人か。結構な人数だな」

 子爵はため息をついた。

「魔女頭め……! 出てくるとはいい度胸だ! 今ここで殺してやる!」

 一人が剣をぬき飛びかかってきた。

「わ!」

 その瞬間ぎゅっと肩を抱かれ、子爵の胸にはりつけにされたと思ったら、すぐ側で筋肉が力強く動いた。腕が振り回されたのだ。

 ドシュ!

 何も見えなかったが、今度は鞘から抜いた剣が男を貫いたらしい。耳元で血が噴き出す音がした。

「わあああああ!」

 叫びが一寸遅れてやってくる。

「いい度胸なのはお前たちだ」

 ぞくっとした。この声は多分……――

「この娘に手を出すことの意味を教えてやろう」

 ものすごく、怒っている。

「って、わ!」

 彼は腕の中の私などいないかのような機敏な動きで剣をふるった。

 外套で隠されていたから何が何だか分からないが、金属音と、悲鳴と、鈍い音。時々の血しぶきの音が聞こえてきた。

 身体がこわばる。目の前で次々に人が死んでいっていると思うとぞっとした。

「くっそ……! にげろ!」

 一人が叫んだ。

「覚えていろヴァーテンホール!」

 どうやら男たちが逃げようとしたらしい。その瞬間だった。


 ゴッ!


 また鈍い音と悲鳴が聞こえた。

「……え?」

 今度は剣の音じゃない。子爵も動いた気配はない。

 私は外套から顔をだし外の様子を見ようとした。すると聞き覚えのある声が聞こえた。

「……さっき店に来てたって聞いて。俺のこと誤解したんじゃないかって……思って」

「……ダイド?」

 ダイドの声が聞こえた。

「探しまわって、此処まで来てみれば……」

「て、てめ!」

 っひゅ……! ドゴ!

 風を切る音と、鈍器のようなものが体にあたった音。

「わあああ!」

 悲鳴。

「やめろ!」

 鈍い音。

「うご!」

 何度か悲鳴と鈍い音が聞こえたかと思うと、あたりは完全に沈黙した。

「ダイ……ド?」

 相変わらずがっしり肩を抱かれていたため外套の中からは見えないが、彼がそこにいるのが分かった。

「……大丈夫? ラピス」

 ダイドが私に問いかけた。

「えっ!? あ! うん!」

 え、え? なんでダイドがここにいるの? っていうか、今、殴ったのはダイド?

 私はかなり混乱した。

 ダイドはため息をつき、子爵に対して話しだした。

「お初にお目にかかります。ヴァーテンホール子爵、ですよね……?」

「ああ」

「お目にかかれて光栄です」

 子爵はしばらく、何も答えなかった。

 私にはすごく長いこと沈黙が続いたように思えた。

「……この情報も、売るか」

 子爵がその沈黙を引き裂く。

「いいえ」

 ダイドは優しい声で即答した。

「俺は、自分が買った情報しか売らない主義なんです」

「……そうか」

 子爵はぽつりと答えた。

「……それに、誰かがもしこの情報を売ってきても、俺は売りません」

 ダイドは断言した。それは迷いのない声だった。

「ラピスは俺の、大事な友人ですから。彼女があなたの秘密のレディであれ、なんであれ」

「ち……!」

 違う! と、言おうと思ったが、子爵に口を封じられた。

「……信用していいのか」

「もしかして、されなかった場合は此処で切られるんですか……?」

 彼は不安げな声で訊いた。

 私は思わず子爵の服を引っ張った。

 ダメ、それだけはダメ! そう伝えたかったのだ。

「…………。いや。ラピスが悲しむのでな」

「そうですか」

 彼はほっとしたのか、小さい声でははと笑った。

「じゃあ失礼します。……ラピス。さよなら」

「っあ……!」

 私には分かる。このさよならは、本当の『さよなら』だ。二度と私とは関わらない。そういう宣言だ。

「待て」

 去ろうとしていたダイドの足が止まる。

「この娘はすぐ城を飛び出す」

「え?」

「町はこの通り、危険だ」

「……はぁ」

 ダイドは首をかしげた。

「信用のおける友人がいると、助かる」

「…………えっと」

「この娘が町にいる間、お前が責任を持って、守れ」

「…………。それは、ある種の『命令』ですか?」

「命令だ」

「………………。ありがとうございます」

 ダイドは微笑んで、ほっとしたような眼をした。

「では、失礼いたします」

 そして彼は去っていった。


 ダイドが去った後、子爵は何も言わなかった。月が音を吸い取っているかのような沈黙だった。

「……子爵……」

 私は恐る恐る沈黙を破った。

「どうして、ここにいるんですか……」

 子爵は答えなかった。

「城を、出てたの……。知ってたんですね……」

「お前の友人が血相を変えて教えに来てくれた」

 メアリーか。

「そっか……」

 ぽろっと涙が出た。そして、堪えきれなくてそのまま震えて泣いた。

 子爵はしばらく黙って私の肩を抱きしめていた。


 どうしてなんだろう。


 どうして彼は、私を探しに来てくれたのだろう。こんな風に守ってくれたのだろう。

 大嫌いなんて、言った相手なのに。


 ***


「訂正します」

 翌朝、泣きはらした目のまま子爵の部屋を訪ねた。

「何をだ?」

 子爵は首をかしげた。

「大嫌いって言ったこと」

「……ああ」

「それから……、心配してくれてありがとうございました」

 頭を下げた。

「いや」

 子爵は立ち上がり、私の目の前まで近寄った。

「私も疑いが過ぎた。あの青年に会うななど、勝手な言い分だったな」

「……いいんです。もう」

 子爵の顔を見上げた。子爵は綺麗な顔で見下ろしてくる。

 すると突然、すっと頬に手を添えられた。

「子爵? ……わ!」

 彼はそのまま瞼にキスをした。

「な、なに! なに! なにするんですか!」

 思わず子爵を突き放して3歩下がってしまう。

「腫れているから。言っただろう。キスをすると治りが早くなる」

 子爵は優雅な笑みを浮かべていけしゃあしゃあと言った。

「ば!? ばっかにしないでください! そんなんで治りません!」

「はは」

 笑うな!


 心臓が死ぬほどはねた。


 ***


 午後。ブレトンが子爵の部屋をかたしながら言った。

「昨夜はお言葉に甘えて休ませてもらいましたけど。ラピス、無事に帰って来たんですね。子爵、町に出たんですか?」

「いや、下の林道で会った」

「そうですか」

 本が乱雑に詰まれているのをブレトンは一つずつ手に取り、並べていく。

「ブレトン……」

 子爵がぼおっと窓の外を眺めながら言った。

「はい?」

「……あの青年をもう一度だけ調べてくれ」

「会ったんですか?」

「会った。疑っているわけではない。一応、信用することにした」

「? じゃあ、なぜ?」

 ブレトンは首をかしげた。問題ないなら調べる必要などない。

「動き、がな」

 子爵は昨夜の暗闇の中での彼の動きを思い出して目を細めた。

「喧嘩慣れしてるのかなんなのか……。普通の青年とは違った。強すぎる」

 躊躇なく折った木の棒で殴りつけ、鋭い動きで男達を地面に叩きつけたあの動きは、只者ではなかった。

 少なくとも一情報屋の領分を超えている。

「へぇ。……武民ですかね」

 ブレトンは呟いた。

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