愚かな鏡

銀文鳥

第1話 選択的被害者

 痛みは消えない、忘れるまでは。

 脳からの神経伝達は、ぼくらが思っているよりずっと愚かしくていじらしいが、論理的には説明できない。


 フローリングの床、暖色系の照明、造花の活けてある花瓶、苔色のソファ。

 造花は造りが雑だが、ぼくにはレンゲソウに見える。


 総じて優しげな景観をしている犯罪被害者支援センターでカウンセリングをしているぼくは、手のひらを見つめながら時々そんなことをぼんやり考えていた。


 きっと先日のケースが原因だ。

 事件の概要だけで大体どの遺族かわかってしまうため、個別取り扱い番号は伏せておく。


 先生、私ね、と彼女が言うとき、ぼくはじっとその目を覗きこんだ。

「時々、首が絞まるの」


 彼女はシワができてたるんだ首を、節榑ふしくれ立つ指で押さえ込む。指輪はつけていない。

 黒く色素が沈着した肌に指がぐっと沈みこむのが、泥のなかに枝を突っ込んだように見える。


「なるほど。あなたは、首を絞められて苦しんでいるのですね。それはどなたに?」

 ぼくらの仕事は相談者の心を映す鏡になることなので、おうむ返ししながら少しずつ情報を整理して行く。


「いいえ。勝手に絞まるのよ。かつて息子がされたように、命を奪われそうなほどきつく」


 彼女は自分が36歳、息子が12歳のときに子供を殺された。

 自宅で、二人とも猿ぐつわと手錠をされ、母親であるこの女性は首を絞められ殺されていった息子を目撃した。


 犯人の青年は、「母親と目が合ったとき、笑っていて心から幸せそうだなと思ったから」と動機を語った。

 彼はスーツアクター―着ぐるみに入ってパフォーマンスをする仕事―のアルバイトをしながら、母子を見ては殺害衝動を起こし、探しだしてはストーキングして犯行に手を染めていたらしい。


 青年はその後未発見だった複数の犯行とその数々の証拠と、自供も揃ったため、逮捕された年を跨いですぐに死刑が執行されている。


「もうなくなって、帰ってこないものなのだから、いっそ忘れられたらと思ったわ」

 彼女は事件以降すっかり変わってしまったという、枯れた声で話す。


 ぼくは内心ずっと思っていたことを女性に言われてはっとする。


 被害の記憶が、悪夢が消えたなら。

 この女性も幻痛に苦しむことなく、なにもわからないまま、ぼんやりとだが穏やかに日々を過ごせるのではないか――。


「でも、それはわたしの息子が許さなかった。そんなことを思ってしまったときから、首が締まり始めたんだもの」


「幽霊ですか」


 ぼくは幽霊が見えるカウンセラーも、相談者も何人か知っていた。深く関わる必要はないとして詳しく知ることはなかったけれど。


 彼女は貧乏ゆすりを始める。


「いいえ、それは違うわ。何人もの霊感持ちにも、内外問わず医者にも見てもらったけれど」


 ガタガタ机が揺れるほど足を震わせる。


「これには霊も医学も関わってないって、説明できないって」


 机はもはや膝で蹴りあげられて、一瞬浮き上がっては落ちるのを繰り返す。

 40を越し、見た目には60近い彼女の力とはとても思えないが、紛れもない彼女自身の力で。


 ぼくは自分がその音にとてもイライラしていることに気づく。昔の何かの記憶の蓋が開く。


「その音を」

 ぼくは彼女の首を締め上げる。

「今すぐ止めてくれませんか」


「……ぐ、ぎ」

 めりめりと首の肉に指がめりこむ。

 彼女の気道が塞がっている。首の骨が軋む。

 このままでは死んでしまいそうだ、とぼくが認識した瞬間、力が抜けた手はぶらりと落ちた。


 彼女は激しく噎せ、背中を丸め込む。

 ぼくは立ち尽くしたまま、この部屋に監視カメラもなにもついていなかったことを思い出し、安堵する。

 生々しい手に残る感覚に吐き気がする。


「ほら、ね」

「……ぼくはあなたを害するつもりはありませんでした。心から謝罪します」

 ぼくは頭を下げる。彼女は不思議そうにぼくを見る。

「いいえ、締めさせたのは私。あなたはたまたまここにいただけよ。お話しはやめないで」

 ぼくは彼女の目を覗き込む。なにも映っていない。

「みんなわざとじゃないの。この間はスーパーマーケットで小銭を落としてしまって、拾ってくれた人に首を絞められた。ふた月前は不注意な人に突き飛ばされて電車のホームドアに首を挟まれた」

 彼女は淡々と語る。


「ずっと前は夫だった。その時はお互いなにもわからなかったから、わずかな慰謝料を受け取って離婚した。夫は苦悩したでしょうね。優しい人だったから」


 ぼくはメモをする手を止める。彼女が話したいことはわかってきた。


「こんなことは、あんまりじゃありませんか。被害者であるあなたが、まだ苦しめ続けられるなんて」

「いいえ。これも道理よ。私は被害者だけれど、選択的な被害者だってわかったの」

「と、言うと……」

「人為的でも、突発的な事件に遭うことって、事故と似た不運だと考えることも出来るでしょう」

「ええ、まあ」

「でもそれに何度も遭うということは、こちらにも原因があるのよ」

「そんなことは……」

「でもそうとしか考えられない。現にあなたは私の首を締めた。それはどうして」

「それは」

 彼女が立てる音にイライラして、気がつけば首を絞めていた。なぜ首かはわからない。

「あなたはおそらく、私が立てた音にひどく苛立った。あなたを苛立たせるためではなくて、脚がたまたま、痙攣を起こしていたのだけれど」


 彼女は、よく見ると細さのわりに筋肉がついていそうな脚をさする。昔スポーツをしていたのかもしれない。

「誰もが首だけを締めてくる理由はわからない。でも私が皆を加害者にしているのよ」


「被害者のあなたが事件を引き起こしている原因だと……」


「ええそうね。あなたのせいではないから要らないと言ったのに未だに慰謝料を振り込む人がいて、それで生活を補ったりもしているわ。人の罪悪感でご飯を食べるなんて、私は人間の屑ね」


「それはぼくも同じです」


 あのときああしていれば、と後悔に涙する被害者遺族の懺悔を聞くことが仕事なのだから。


「みんななにかしら罪の意識を負っています。だからあなたはあまり自分を責めないで下さい」


「あなたは優しいのね。たとえそれが仕事だとしても」

 女性ははじめて微笑む。昔、幸せだった頃、我が子に向けていたかのような、温度がある笑顔。


「でも私は呪われてしまった。あの男に出会った時から。いいえ」

 彼女は目を閉じ、身を震わせる。

 あのおぞましい連続殺人犯の自供のなかで、ひとつだけ虚偽の部分がある、と彼女は言う。


「家計が苦しいなか、息子の誕生日祝いに遊園地に行ったとき、あの子はひどい反抗期で、手が付けられなくて……どうしてもとねだったから買ってやった風船もわざと手を離して飛ばしてしまって。あんたなんか産むんじゃなかった、と言ったのよ。それを……」


 それを聞かれていた、とでも。


「だから私は呪われた。自分で命を生んでおいて、存在を否定した報いとして」


「それは仕方ないことですよ。親だって人間ですから。息子さんを傷付けた補填をする機会を奪った犯人が悪いんです」


 まるで定型文のようなことしか言えないが、その定型文に接客サービスとして心を籠めるのがぼくらの仕事でもあった。


「犯人はあくまでも現象でしかないの。とはいっても殺人は人為的なものだけれど、私が彼を呼び寄せたのよ」

 彼女がうっすらと口角を上げる。もうそこに温度はない。冷たい。


「彼は私を見て、これで息子はいなくなった、満足か……と言ったわ」


 そこで彼女はなんと言ったか。

 余罪として発覚した、一部白骨化した遺体で発見されていた3組の母子が、全て母子ともに殺害されていたことを鑑みるに、推測自体は容易だった。


「……それこそ。生存本能を責めることなど誰にもできない」


「私については、私と息子にはできるわ」


 そう言って彼女は首をさする。黒い痣のまわりが赤くなっている。

 ぼくは目を反らす。時計を見ると、話し始めて一時間が経ちそうだった。


「そろそろ時間が来ましたね。次回の来所はどうしましょう」

 ぼくはカレンダーを指差す。


「いえ、もうここには来ません。一度首を絞めてさせてしまった人とは、会うたび同じことを繰り返すから」


「では……これからどうするのですか」


「いつか自分を許せる……殺せる時までは、より人目を避けて暮らすつもりで準備してるの。ここに来たのはそれが完了したから。最後にこんな話を聞いてくれてありがとう」


ぼくは、殺せる時、という言葉を聞かなかったことにした。


「こちらこそ。最後になりますが……やはり犯人は、あなたの幸せそうな顔を見て犯行に及んだのだと思いますよ。それを悲しみに変えることが、犯人の狙いだったのですから」


 彼女はありがとう、とパサついて膨らんだ髪が垂れ下がるほどお辞儀をした。


 ぼくはお元気で、と言おうとしてやめた。




 翌日出勤したとき、待機時間中にうたた寝してしまい、夢を見た。



 棺のなかで穏やかに眠る彼女の首を、ぼくが両手で絞めていた。





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