モノノ怪クリニック 第弐集

関川 二尋

第十一夜 雲隠れ

 ○~○~○


 関東地方のとある県、その最北端に「七ツ闇」という町がある。


 その中心部の丘の上、そこにはかつて神社があった。


 だがその神社、時代とともに忘れ去られてしまった。


 そしてすっかり廃れて、今は町で唯一の診療所へと変わっていた。

 

 神社を改良したその診療所、その名を「七ツ闇クリニック」という。

 

 その「七ツ闇クリニック」には町で唯一の医師が住んでいる。

 

 町の人々は彼を「山吹先生」と呼んだ。

 

 その山吹先生、器量も悪くないし、物腰の柔らかな好人物。


 無口なほうではあるが、話してみると人当たりもいい。


 診察してもらった者によれば医師の腕も悪くないらしい。


 だがその診療所には近所の子供以外は誰も寄り付かない。


 そのクリニックには昔からある噂が絶えなかったからだ。


 その噂いわく「あの診療所には物の怪がでる」というのである……


 ○~○~○





前編「山吹の章」


   🌸


「先生お邪魔しまーすっ!」

 そう言ってひょっこりとおかっぱ頭をのぞかせたのは、いつものように『クロコ』だった。ホント何が楽しいのか、毎日毎日やってくる。今日は学生らしくセーラー服姿だった。

「……て、今日も閑古鳥ですねぇ」

「まぁ病院なんてのは、ヒマな方がいいんですよ」

「それよりどうです? 今日はセーラー服にしてみました!」

 クロコはクルリと回った。プリーツスカートに、丈の短い上着、それから真っ赤なリボンがフワリと膨らんで揺れた。足元は白い靴下に革靴を履いている。

「そうですねぇ……すごく学生さんらしく見えますね。いいことです」

「それだけですか? かわいいでしょ! セーラー服って」

「そうですか? 私の白衣と同じですよ。着やすさと気楽さ重視の作業着みたいなものでしょう」

 クロコは固まってしまった。なにやら両方の小さな拳をわななかせている。なにかまずいことでも言っただろうか?

「そうですね! それより、また請求書来てましたよ!」

 クロコはプックリと頬を膨らませ、それから郵便物をドサッと机に置いた。それからなにやら文句を言いながらも、郵便物を開き、学生カバンから手帳を取り出し、サラサラと帳簿をつけはじめた。

 そういうところは彼女、キッチリしている。


   🌸


「そういえば先生、もうすぐ七五三ですね」

「まぁまだまだ先の話ですがね」

 私は新しくお茶を淹れ、ズズッとすする。もちろん彼女の分もちゃんと入れてあげる。彼女もまた熱そうにお茶をすすった。

「でも、町の写真屋さんがノボリを立ててましたよ。この神社にもお参りに来る人いるんじゃないですか?」

「さすがに誰も来ないでしょう。なんといっても廃神社ですからねぇ。それに来たところで何もできませんし、する気もないですし」

 と、クロコにはそう答えたが、実は私は神職の資格を持っている。祭りごとも出来ないわけではない。道具も衣装もまだ倉庫に残っている。ただあまり乗り気になれないのでやらないだけなのだ。

「そう言えば、ここに来ているアキナちゃん。今年、七五三のお祝いじゃないですか? 少しはお金になるかもしれませんよ?」

 クロコはさらにそう言ってきた。

「アキナちゃんですか。そうかもしれませんね。ただ普段からお付き合いがありますからね、お金を取るのはどうも気が引けて」

「はぁ……先生、そんなことばっかり言ってるから、ウチは万年貧乏なんですよ」

 クロコはちょっと呆れたようにそう言ったが、本当に怒ってるわけではないようだった。

「まぁお祝いの日には千歳飴でも用意しておきますよ」


   🌸


「ところで先生……」

 急にクロコは口調を鋭く変えた。

 思わず私は飲みかけていたお茶を飲む手を止めた。

「はい。何でしょう?」

 一応背筋も伸ばしてみる。こういう時はお金の話が出てくるからだ。

「月末まではあと十日。今月の支払いにはまだ一万円程足りません」

 クロコは手帳をシャープペンの先でトントンと叩いた。ほら、やっぱり来た。が、まぁ言われても仕方ないだろう。ここは大人しく聞いた方がいい。

「……ズバリ、入ってくるアテはあるんですか?」

「心当たりはありませんね」

 私は正直に申告する。子供相手に嘘はいけない。

 ググッとシャープペンを握りしめたのが見えたが、ここは見えなかったことにした。ついでに、オデコの上に盛り上がったバッテンの血管も見なかったことにした。

「まぁいいです。予想はしてたんです。そこでですね、先生にぴったりのアルバイトを一つ見つけてきたんですよ」

「はぁ、アルバイトですか?」

 また妙な雲行きになったものだ。

「ええ! なんと二時間で一万円です!」

「それはまた高額ですね。なにか怪しい気もしますが」

「そんなことないです。先生にピッタリの仕事ですよ」


   🌸


 そう言ってクロコが広げたのは、七つ闇町の無料タウン誌『七つ闇スマイル』だった。

 ちなみにこのタウン誌、編集は幼馴染の『伊万里』がやっている。そのせいで、いつも背表紙はまるまる伊万里骨董店の広告になっているのだ。

 まぁそれは余談として、これはわずか四ページほどの、町の出来事を扱ったタウン誌だ。たぶん読んでいる人もほとんどいないはず。

「ここに先生にピッタリの仕事を見つけたんです」

「どれですか?」

「ココです。このカットモデル募集! ってやつです」


   🌸


 クロコから受け取ったそれに目を通してみる。


【 カットモデル(男性)募集します 】

【 謝礼は一万円をご用意、二時間ほどで終わります 】


「……つまり床屋さんの実験台になれというわけですね?」

 私はちょっと自分の髪を指先でつまんだ。そう言えば結構伸びてきた。そろそろ切らなきゃならない感じだ。だが自分で切るのはどうも面倒だと思っていたところだった。

「……いいですね! 髪も切ってもらえて、お金ももらえて『一石二鳥』とはまさにこのことですね」

「だと思いました! 実はもう申し込んであるんです!」

「それはまた、ずいぶんと話が早いですね……」

 ちょっと不安もあるが、深くは考えないことにした。

「というわけで、今日の夜にでも行ってきてください」

「今日ですか? それもまたずいぶん急な話ですね……」

「ハイ! 『善は急げ』って言いますからね!」

「ちなみに場所はどこですか? この『ビューティーサロン・ナツミ』というのは?」

「それならマサヒコ君に聞くといいですよ」

 ん?どうしてここでマサヒコの名前が出てくるかと思ったら……

「そう! マサヒコ君のお母さんがやってるお店なんです。ということでガキどもが来たみたいなんで、あたし帰りますね!」

 そう言って、クロコは風のように去っていったのだった。


   🌸


「先生……たいへんたいへん!大変なんだよ!」

 クロコと入れ代わるように駆け込んできたのはマサヒコ。見事なまでのグレーの坊主頭には点々と汗のしずくがついている。その背中に隠れるようにして、妹のアキナちゃんが……あれ?今日はいない。

「先生にぜひ相談に乗っていただきたいことがあるんです! これは妖怪の仕業かもしれません!」

 息を切らしながら次に現れたのは、普段は冷静なトシオ君。

「先生、アキナちゃんが大変なのっ!」

 最後に登場したのがチエミちゃん。彼女もまたハァハァと息を切らせながら一気にそう言った。

「はて? さっぱり話が見えませんが……」

 なにやら緊迫した雰囲気だが、妖怪だのなんだのと言っている時点で、大したことではない気がする。というか私に妖怪の相談を持ち掛けるのはやめてほしい……とは思ったが、まぁ彼らは将来の大事な顧客でもある。

 私は彼らに冷たい麦茶を提供し、まずは落ち着かせることにした。

「まぁまぁ落ち着いてください。アキナちゃんがどうしたんですか?」

 と、言ったところで、その本人が登場した。


   🌸


「ちぃーっす!センセ」

 ポケットに深く手を入れ、なんともガラの悪い感じでアキナちゃんが登場した。ちなみに小学一年生か二年生、普段はものすごく無口で、兄のマサヒコの背中に隠れてばかりいる、おとなしい子だ。

 だが今日はまるで逆の雰囲気だった。

「あの、アキナちゃんですよね?」

 私は思わず聞き返してしまった。いつもはブラウスにスカート姿と控えめなのだが……今日はサングラスをかけ、長い髪をてっぺんで結び、真っ赤な大きなリボンを結んでいた。服装もブラウスをベロンと出し、ネックレスをジャラジャラとつけて、なんとなく『悪い娘』風だ。

 さらに付け加えると、化粧もしていた。しかも塗りたくったようにやたらと濃い化粧だ。口紅は真っ赤、頬の下はピンク色の丸がくっきり。目元にも何やらゴチャゴチャと線が引いてある。

「えー?アタイに決まってんじゃん。ねぇ、今日のおやつなーに?」

 ドサッと診察室のベッドに腰掛けて足をプラプラさせた。それからポケットからガムを取り出し、クチャクチャと噛み始めた。

 マサヒコたちを見ると、不安そうにゴクリと唾を飲み込んでいた。


   🌸


「あー、そうでしたね……では、おやつを出してきましょうか。ちょっと君たちも手伝ってくれるかな?」

 私は診療所の奥にある自室にマサヒコたちを誘った。意図はちゃんと伝わったようで、マサヒコたちも慌ててついてきてくれた。

「なんでこんなことになってるんです?」

 私は真っ先にマサヒコに聞いた。

「それが、オレにもさっぱり分かんないんだよ。山吹先生、これが反抗期ってやつなの?」

 マサヒコは声をひそめてそう聞いた。

「そんなのわたしに聞かないでくださいよ。なにか家庭で問題でもあったんじゃないですか?」

「なかったと思うんだけどなぁ、昨日の夜もいつも通りだったし。朝起きたらいきなり、ああなってたんだよ」

 ううむ。なんかマサヒコとこれ以上喋っても無駄な気がする……

「やっぱり妖怪の仕業じゃないですか?」

 と聞いてきたのはトシオ君。

「妖怪なんていませんよ。なにか理由があるはずです」

 そう、ガキども相手に妖怪を認めるわけにはいかないのだ。そうでないと大変なことになるのが目に見えているから。とはいえ……実はそんな気がする。あの変わりようは普通じゃない。

「昨日の夜に、なにか変わったことはなかったですか?」

 またマサヒコに聞いてしまった。

「そうだなぁ……」


   🌸


「昨日は夜に天ぷら食べて、ご飯お代わりして、テレビ見て、宿題やろうとして、あきらめて、お風呂入って……そんで寝た!」

 ! と言いたくもなったが、ここは我慢。辛抱強く、それこそ催眠術をかけるように、情報を引きださないと……

「まだなにかあるはずですよ……よーく思い出してください……アキナちゃんのことです……なにかいつもと違ったことがあったんじゃないですか?」

「うーん……」

 マサヒコはグレーの頭をゴシゴシとこすった。いやいや、それをいくらこすったところで何にもでません、と言いたいのも我慢。頭使ってくださいよ、と言いたいのも我慢。

「うーん……」

 するとトシオ君から助け舟。

「きっと何か古いものに関係があるはずですよ。ね?先生」

 うん。良いこと言った。さすがトシオ君だ。

「そうよ! なんかもらわなかった? 古いものとか」

 とチエミちゃん。二人ともマサヒコの扱いには慣れているようだ。

「あー、そういえば『ハコセコ』とかいうの、母ちゃんにもらってたな。七五三がどうのこうのって」

「「ハコセコ?」」

 トシオ君とチエミちゃんは同時に頭からはてなマークをだした。うーん、今の子供は知らないかな。どうやら解説が必要だ。

「ハコセコというのはですね、着物で使う小物入れです。まぁ小さなバッグみたいなものですよ」


   🌸


「そうそう、そんな感じのやつ。中にさ、ハンカチとか手鏡とか入ってた。そんで、アキナは手鏡が気に入ってたんだ! ホラ、アキナは赤い色が好きだからさ」

 手鏡か……どうもそれが怪しいようだ。と思ったところでアキナちゃんの声が聞こえてきた。

「ねぇセンセー、おやつまだぁ?」

「はーい! 今行きますよ!」

 と答えて、戸棚からおやつを取り出す。ガキどもはなんだか頼りきった目で私を見ている。だが私はのせられない。

「一つ言っておきますが……私に妖怪退治を期待しても無駄ですよ」


   🌸


 まぁそれはともかく、いつもの餌付けの時間だ。

 本日用意した、おやつは……


『カラムーチョス』


 私は辛いものは苦手なのだが、駄菓子屋で先客の子供がコレを買っていたので、つい買ってみたのだ。

 大きな袋入りのものなので、ガラスのボウルにザッと開けた。

「まぁどうぞ食べてください」

「あー、コレ激辛の方だ!」

 マサヒコが嬉しそうにそう言った。

「ご存知でしたか?」

「うん。でもこの激辛のは食べたことない!」

 マサヒコはそう言って指先でつまんで食べ、すぐに悲鳴を上げた。

「うわっ! まじカラっ! なにこれ、カラっ!」

 マサヒコの顔はいきなり真っ赤になった。なんか楽しい。

「えーそんなにぃ?」

 チエミちゃんも一つ手に取り、マサヒコと全く同じリアクションを繰り返した。それから慌てて麦茶を飲んだ。続いてトシオ君。

「そんなに辛いんですか?……ポリッ……うっわ! なんだコレ!」

 それはトシオ君の冷静な仮面をはぎ取る破壊力だった。もう涙目になって、やはり麦茶をゴクゴクと飲んだ。

 そして私はこの状況を眺めて楽しんでいた。

 なんていうの、こういうの?

「……いい気味……」

 おっと、心の声が漏れ出しそうになるのを慌てて押さえる。ついでに含み笑いが出そうになったので、これも手でガッチリと抑え込んだ。

 うん。また買ってこよう!


   🌸


「なんだ、なんだぁ? みんな、だらしないなぁ」

 そこにアキナの声が響いた……響いたというのは少し大げさか。そして普段のアキナからは想像もつかない『ニッ』という小悪魔的な薄笑いを浮かべた。

「カラいくらいで、ビビっちゃって、さーぁ」

 アキナはその小さな手でガッとカラムーチョスを掴んだ。

「なんだよ、こんくらい!」


!」

 みんながそう言いかけたところだった。


(…………)

 みんながそう思いかけたところだった。


!」

 小さい口をアーンと大きく開け、拳いっぱいのカラムーチョスを口に放り込んだ。


   🌸


 それからバリ、ボリ、バリっとゆっくりとかみ砕く。

 そしてみんなが驚く顔を、あの『悪い娘』の顔で、愉快そうに眺めていたのだが……その顔がみるみる涙目に変わった。


「……なにコレ?お菓子じゃないの?」

 実際の発音は

「……あ、あいこえ?おはひひゃないのぉぉぉ?」


「……か、辛いっ!」

 こちらの実際の発音は

「……は、はあえぇぇぇぇ!」


 そうしてアキナの顔はみるみる真っ赤になった。ということで私はカラムーチョスの空になった袋を渡した。

「とりあえずこちらにどうぞ」

 アキナはウンウン、とうなずいて袋を受け取った。その後はまぁ想像にお任せすることにして……

「……先生、お水ください」

 次にそう言ったときには、いつものアキナに戻っていた。

 なんだか知らないが、どうやら事件は解決したようだった。


   🌸


「大丈夫ですか?」

 アキナはまたもやウンウンとうなずいた。すっかり無口が戻っているのが、ちとややこしい。

「あたし、なんでこんな格好してるの?」

 と今度は自分の着ている服を見て不思議そうにそう言った。それを私に聞かれても困るのだが……さて、なんて説明しようか、と考えているうちにアキナの目がトロンとしてきた。

「あれ。先生、なんだかすごく眠いの……」

 いうが早いか、ぱったりとベッドに横になってしまった。しばらくすると早くもスゥスゥと寝息を立て始めた。どうもずいぶんと疲れているようだ。だがそれ以外に気になる様子はなかった。


   🌸


「とりあえず、元に戻ったようですね。今はしばらく寝かせておいた方がいいでしょう」

 私はアキナの体勢を少し直し、頭の下に枕を置いて、タオルケットをかけてやった。額に触れて熱を見たが、こちらも異状はない。

「先生、アキナ、大丈夫かな?」

 マサヒコが心配そうに聞いてきたので、優しくそのグレーのビロード頭を撫で……ようとしたが、やっぱりよけられた。ホントなかなか触らせてくれない。

 だがここだけの話、私は一度彼の坊主頭に触れている。妖怪たちが集まって花見をしていた晩のこと。鳥居の下で眠っている彼を介抱したときに、たっぷりと触らせてもらったのだ。

 あのシャリシャリとした何とも言えない感触はまるで……

「先生?どうかした?」

 とチエミちゃん。

「いえいえ。それより今日はここで解散にしてください。アキナちゃんが目覚めたら、マサヒコ君の家まで送っていきますから」

「大丈夫だよ、オレ、アキナおぶって帰れるよ」

「まぁ私もあなたの家にがあるんですよ。だから今は帰って、家で待っていてください」

 こんな時だからだろう。珍しく素直に、彼らは帰っていった。




後編「クロコの章」


 あたしは神社の裏手、鎮守の森の入り口にある、桜の木の枝に腰掛け、ガキどもが帰るのを待っていた。

 というのも、今日はずいぶんとアキナの様子がおかしかったからだ。服装も変だったし、やたらとお化粧はしてるし、なんというかずいぶん『悪い娘』になっているように見えた。

 それはあんまりにもアキナらしくなかったから、コレはなにかあるな?とすぐにピンときたのだ。これはたぶん妖怪がからんでいる。

 というわけで、ガキどもが帰るのを待つ間、こんないたずらをする妖怪がいないかと『妖怪辞典』を調べていた。

 ちなみにヒントはもう一つあった。アキナが診療所に入っていくとき、朱塗りの小さな手鏡をポケットに入れるのを、見ていたのだ。しかもその手鏡、怪しさ満点のすごく古そうなモノだった。

「それにしても、よく集まってくるわよね、ココ」

 つい、ため息が漏れてしまう。まだ昼間だというのに出てくる妖怪、たぶん力の強いヤツにちがいない。そういう相手はなにかと厄介なのだ。


   ▼


 手鏡の情報をもとに調べてみると、今回の妖怪がすぐにわかった。

 どうやら『雲隠れ』という妖怪らしかった。イラストによれば憑りついている妖怪は『雲』のような姿で、実態がない妖怪だった。

 辞典によれば、普段は古い鏡の中に名前通り、しているが、姿を見られるとその人間に憑りついてしまうという。そして憑りつかれた人間は鏡のように、反対の性格に変わってしまうというのだ。

「これは、なかなか厄介な妖怪みたいね」

 要はこの『雲隠れ』を追い出せばいいのだが、その対処法までは辞典にも書いていなかった。

「うーん……これじゃどうしようもないなぁ」

 なんて思っていたら、診療所から大きな声が聞こえてきた。耳を澄ますと、アキナが変な悲鳴を上げているのが分かった。


   ▼


「……あ、あいこえ?おはひひゃないのぉぉぉ?」

「……は、はあえぇぇぇぇ!」


 もちろんアキナが何を言ってるのかは、サッパリ分からない。でもすっかり静かになったところからして、どうやら妖怪が抜けだしたようだった。

(これは早めに先生に『雲隠れ』のことを伝えた方がいいかもしれないな。なにか面倒なことになりそうだから……)

 

 それから十分程たって、ようやくガキどもが診療所から出ていくのが見えた。アキナの姿だけがないが、たぶん眠っているのだろう。妖怪に憑りつかれると、普通の人間はすごく疲れてしまうのだ。

「さて、さっそく先生に報告しなきゃ!」

 あたしはひらりと枝から降りて、駆け足で診療所へと向かった。


   ▼


「先生、こんにちは! また来まし……た……」

 最後の言葉が途切れてしまったのには、もちろん理由がある。

 先生、その手に手鏡をもってからだ。

 ひょっとして遅かったかも……あたしはペチンと目を覆った。


 そして……イヤな予感は的中。

「やぁクロコ、いらっしゃい」

 先生はあたしを見るなり、開口一番にそう言った。

 なんだかいい声で、さわやかな笑顔で、なんだかイケメン風だった。それになぜかちょっとキラキラしてる。……どうやら憑りつかれてしまったらしい。

(それにしても、先生の性格が反転するとこうなるってことは……)

 それを考えるとなんだか泣けてしまう。


   ▼


「今日のセーラー服、すごくかわいいね。ところで慌ててどうしたんだい?まさかオレに会いに来たとか?だと、うれしいんだけどサ」

 そう言いながらササッと近づき、あたしの腰を抱き寄せ、ビッとメガネを取った。さらにさりげなくあたしのアゴの先を指先でクイっとつまみ、ムーっと顔を近づけてきた!

 これは先生じゃないよなぁ、なんて冷静に思いつつも、心臓がやたらとドキドキしてきた。さらに先生の顔がゆっくりと近づいてくる。

(ま、まさか! 山吹先生……キ、キスとかするつもり? そうなの?)

 あ、ああ。パニックだ、あたし! どうしよう! どうしたらいいの? てか、これはチャンス? そういう事なの? でも先生はホントの先生じゃないし……

「や、山吹先生! それより、アキナちゃんはどうしたんですか?」

 あまりのパニックにあたしはそう言うのがやっとだった。

「ん? ああ、そうだったね。ついキミに見とれてしまったよ」

 先生は魅力的なウィンクを一つして離れた。

 はぁぁ。なんだか今回の事件、というか妖怪は心臓に悪い。

 これは早く解決しないと、


   ▼


「……それで、アキナちゃんは大丈夫なんですか?」

「んー、たぶん大丈夫じゃないかな。よくわかんないけどね、へへ」

 ガクッとするぐらい軽い感じ。やっぱりこんなのは先生らしくない。というか辞典通り、しっかりと真逆になっている感じがする。まずは先生に憑りついた妖怪と話をしてみる必要がありそうだ。


「あの先生、ちょっと後ろ向いてもらえますか?」

「なにか企んでるのかな……でもいいよ、ホラ」

 先生はくるりと背中をむけた。

「ちょっとそのまましゃがんでください」

「しゃがむ?ハハ、ひょっとして『おんぶ』かな?もけっこう子供っぽいところあるんだな」

 急に名前を呼び捨てにされて、なぜかクラッとしてしまった。それになんて爽やかな声! でもあたしは我慢する。ホントはちょっと先生の広い背中に『おんぶ』したくなったけど、我慢。これはホントの先生じゃないんだから!

……」

 なんて甘い声の追撃もあったけど、これも我慢。

 もうさっきからあたし我慢してばっかりだ!


   ▼


 そんな怒りを妖気に変えて、しゃがんだ先生の背中に手をつき、それを一気に流しこんだ。

 すると……


 先生の体全体を包み込む、フワフワとした雲のようなものが見えてきた。と、その雲の一部から目が現れ、口があらわれた。ちょっと凶悪な妖怪を想像していたのだが、『雲隠れ』本人はなんだかゆるキャラのような気の抜けた顔立ちだった。

「あれぇぇ……おいら、見つかったぁぁぁ?」

 雲隠れは呑気のんきな、しかもずいぶんと間延びした声でそう言った。

「クロコちゃん? なんだい、今の声は?」

 先生がまたフレンドリーな雰囲気で声をかけてくる。なんともやりづらい感じだ。しかもこの雲隠れ、ふんわり背中に貼り付いているので、先生からは見えないらしい。

「先生の背中に妖怪が憑りついてるんです。雲隠れって妖怪で……」

「うわぁぁぁ、おいらのこともバレてるぅぅぅ?」

 先に反応したのは雲隠れ。口をまん丸に開いた。

「そうよ、あんたの正体はお見通しよ!」

 ビシッと告げたつもりだったが……

「え? オレの正体お見通しなの? やっぱり、クロコに隠し事はできないなぁ、ハハハ」

 なぜか先生に爽やかに返答されてしまった。


   ▼


「……ま、確かにオレはチャラい感じかもしれないね……でもさ、オレだって、本気マジの時はビシッと決めるんだぜ!」

 先生、とか言ってるし。しかもどんどんおかしくなってる気がするし。

「今のは、先生の話じゃありません!」

 そう先生にすぐ説明したのだが……

「ええぇぇ? じゃあ、今の、オイラに話してたのぉぉぉ? よく聞いてなかったよぉぉぉ」

「とにかくあんた、離れなさいよ!」

 そう『雲隠れ』に答えたのだが……

「いいや!オレはお前を離さないぜ!」

 なぜか山吹先生が振り返って、決め顔でビシッと答えた。


   ▼


 分かってるのに……あたしはまた顔が赤くなる。分かっていてもこうなってしまうのだ。だって先生がこんなにカッコいいなんて……


「……なっ! ビシッと決めたろ? オレに惚れたかナ?」

 先生はまたもやウィンク。なんだかパニックになってきた。

「なんか楽しそうだねぇぇ、おいらも、話にまぜてよぉぉぉ」

 またなぜか雲隠れが話に割り込んでくる。

「いや! あんたの話をしてんの。ねぇ、どうやったら離れるのよ?」

「だからクロコ、オレはお前から離れないぜ!」

「だーかーら、先生じゃないの!」

「ええぇぇぇ? 今のは、おいらに話してたのぉぉ?」

……もうだめ。いろいろと限界。


   ▼


 ちょっと落ち着こう。

 今の先生は先生じゃない。動揺するのはやめよう。

 今大事なのは『雲隠れ』を鏡に戻すこと。

 そこでふと思い出す。あの手鏡だ。

 アレを向ければすんなりと手鏡に戻るのでは?

 そう思ったのだが……その手鏡は先生が持っていたのを思い出す。


「先生、もう一度鏡に自分の姿を映してみてください!」

「急になんだい?  鏡なんて見飽きてるよ」

「い・い・か・ら! お願いします」

 先生はポケットからしぶしぶ手鏡を取り出した。

 うん。やっとコレで解決できそうだ。

「オレさ、鏡は好きじゃないんだよねぇ、ホラ、自分の姿に見とれちゃうからサ」

 先生はビシッとあたしを指さしてまたウィンク。よく分からないノリだ。だがともかく先生は手鏡に自分の顔を映した。

(……どうよ? 雲隠れ、鏡の中に戻りなさいよ!)

 見守っていると、先生は髪を指先で整えだした。それから決め顔を作り、笑顔をつくり、また角度を変えて決め顔を映した。

「そう言えばちょっと髪がボサボサだなぁ。そろそろ美容院行ってこないとなぁ」

 そんなことを言い出す。

 普段、床屋にも行かないくせに、美容院なんて……


   ▼


 あ。そう言えば!……ここであたしは思い出した。

『ビューティーサロン・ナツミ』のカットモデルのアルバイト!


「それより先生、そろそろ予約していた時間ですよ。ビューティーサロン・ナツミで髪を切ってもらえます」

「え?そうなの?でも、オレ金なんてもってないぜ」

 先生、そこだけは変わらない。まぁ変わるはずもないか。

「大丈夫、今日は無料でやってもらえますから」

「え? そうなの? じゃあ、さっそく……ってどこだっけ?」

「マサヒコとアキナちゃんの家ですよ。知らないんですか?」

「うーん知らないナ……困ったかな?」

 それをあたしに聞かないで。と思っていたらまた雲隠れが割り込んでくる。

「はーいぃぃ! それなら、おいら、知ってるよぉぉぉ」

 なぜか元気な雲隠れ。なんだか二人でいいコンビみたいになっている。このまま妖怪付きで先生を外に出すのは嫌な予感しかしないが、今は仕方ないだろう。なにしろ非常事態なのだから!

「じゃあ、二人で行ってきてください!」

 あたしは先生の背中を押して、とにかく診療所から追い出した。


   ▼


 さて、急いで対策を立てないと!

 とは思ったが、さっきまでのやり取りでずいぶんと疲れてしまった。ちょっと先生のイスに腰掛ける。チラリと診察ベッドも眺める。今はカーテンが閉められ、その向こうではアキナが眠っているはずだ。

 まずは状況整理だ!でもその前にお茶だ!

 あたしは自分の湯呑を持ってきて、とりあえずポットに湯を沸かしてお茶を淹れた。

 机の上には先生の湯呑のほかに、ガキどもの湯呑も勢ぞろいしている。ほとんどが飲み終わっているが、アキナの湯呑はほとんど手が付けられていない。

(これは注目のポイントだわ)

 ズズッとお茶を一口。ちょっと頭がすっきりしてきたので、一度外に出る。ここからは『セーラー服探偵クロコ』の推理タイムだ。

「犯人は分かっている。雲隠れ。雲隠れは多分アキナちゃんが持っていた手鏡からアキナに乗り移り、この診療所にやってきた」

 もう一度診療所の中に入る。その時、ここにいたのは山吹先生、そしてマサヒコたちのいつものメンバー。

「たぶんアキナの様子がいつもと違うことに驚いていたはず、それでも彼らはいつものようにお茶を飲み始める……」

 机の上に湯呑がいつものように並んでいることからして、ここも間違いないだろう。

「そして机の上にはいつものおやつ」

 机の上にはお皿があり、スティック状のポテトチップみたいなものが残ったままになっている。残しているのが少し気にかかるが、それは後回し。

「問題は……アキナがなんで悲鳴を上げたのか、ね。それがきっかけで雲隠れが出てきたんだから……なにかすごく驚くようなことがこの密室で発生した」

 あたしの頭脳は静かにフル回転する。


   ▼


「この診療所の中で、悲鳴を上げるほど驚くものはなにか?」

 ぐるりと診療所を見回してみたが、とくに変わったところはない。

「たとえば……黒くて光るあの虫とか?」

 実はあたしもアレが苦手。というか怖い。だからこの診療所にはアレが入り込まないよう、秘かに結界を張ってあるのだ。だからその可能性だけはない。

「それともなにか別のこと。なんだろう? 部屋の中にいて驚くこと……うーん……なんだろ? ……別の妖怪が見えたとか? いや、アキナはハッキリと妖怪は見えないはずだし…」


 と、カーテンの向こうでアキナが何やらうめいたのが聞こえた。

「うーん……ううーん……」


「なんだろう? 妖怪が慌てて出てくるくらい、驚くことって?」

 あたしはアキナの悲鳴を思い出してみた。


   ▼


「……あ、あいこえ?おはひひゃないのぉぉぉ?」

 次に聞こえてきたのが

「……は、はあえぇぇぇぇ!」

 たしかそんな風だった。


「うーん……さっぱり分からないなぁ」

 机の上に残っていたお菓子をガッと掴む。ポテトチップみたいなやつ。そのまままとめて口の中に放り込む……甘いものは脳を活性化させるしね、あ、でも塩味かも。まぁどっちでもいい。お菓子なんだし。

「……うーん。アキナは、何に驚いたんだろ?……ん? あれ?」


 

 痛い! てか辛い! でもやっぱり痛い!

「……なにコレ? お菓子じゃないのぉぉ?」

「……か、カラいぃぃぃ」

 

 とモゴモゴと叫んだところで、頭にびっくりマークが点灯した。

 もちろんアキナの言葉の意味が解けたから。そして雲隠れを追い出したのが、何なのか分かったから。

 ゴミ箱を見るとお菓子の袋が残っていた。


『カラムーチョス』


「……コレか」


   ▼


「さて。問題は追い出した後よね……もう一枚、古い鏡を用意できれば封印できると思うんだけど……」

 あたしは神社の倉庫に鏡を捜しに行くことにした。先生には無断だけれど、今は非常事態だからしょうがないだろう。箱をいくつかゴソゴソと開けてみると、小さな丸鏡を見つけた。ガラスの鏡じゃなくて、金属を磨いた祭事用の鏡だ。でもちゃんと姿は映る。

「うん。これなら大丈夫そう!」


 鏡を持って診療所に戻ると、ちょうどアキナが目覚めたところだった。

「あれ? クロコ師匠、こんにちは」

 恰好は『悪い娘』だが、ちゃんといつものアキナだ。

「おはよ、アキナちゃん。調子はどう?」

「眠ったらすっきりしました。あの、お兄ちゃんたちは?」

「マサヒコ君なら、山吹先生とアキナちゃんのお家にいると思う」

「え? どうして?」

「髪を切りにいってるの」

「うわぁ、先生、ウチに来てるの?」

 アキナはそう言ってにっこり笑った。かわいいやつめ。

「さて、あたしもこれから先生を迎えに行くの。一緒に行こうか?」

「はい!」

 こうしてあたしたちは診療所を出て『ビューティーサロン・ナツミ』に向かった。


   ▼


 所変わって『ビューティーサロン・ナツミ』。

 着いてみると、あたしの予想を上回ってエラいことになっていた……。


「やぁ! 遅かったね、クロコ」

 そう出迎えてくれた先生は、すっかり爽やかなイケメンに変貌していた。流行りの髪型なのだろうか、ちょっとボサッとした髪型にも見えるのだが、同時にビシッとまとまっている。さらに真っ白いシャツのボタンを開け、胸元から銀のアクセサリーをのぞかせていた。

(先生、こんなの持ってたっけ?)

「いいわぁぁ、カッコいいわぁー、ヤマブキセンセ!」

 その先生の周りでバシャバシャと写真を撮りまくっているのが、マサヒコとアキナの母『ナツミ』さんだろう……

 なぜかアフロヘア、なぜかアフリカの民族衣装みたいな服、重ね付けした沢山の腕輪と、やはりたくさんのネックレス。そしてよく日焼けしていた。でも妙に美人でもある人だった。

「センセ、ちょっと決め顔して!」

 ナツミさんのリクエストに先生はスッとメガネを取った。パシャリ。それから妖艶な流し目でカメラにポーズ。パシャリ。なぜかシャツの胸元を大きく広げて天井をむく。またパシャリ。

 ナニシテンノ? センセイ?

「ナツミさん、ナツミさん。そこの黒いジャケットなんかどうだろう? シャツは赤にして?」

 先生はノリノリでそんなこと言ってる。

「あ! それイタダキ! パパのお古だけど、先生着ると全然別物だわぁ」

 先生はシャツを着替え、ジャケットを羽織り、花瓶にあったバラを一本引き抜くと口にくわえた。そしてまたパシャリ。

「きゃぁぁぁっ! かっこいい! センセ、ステキ!」

 またナツミさんが歓声を上げて、パシャパシャと写真を撮った。先生もフラッシュのたびにポーズを変えて……


   ▼


 うん。たしかに先生はカッコよかった。

 でもなんか違うのもよく分かった。全然先生らしくない。

 なのに……


「クロコ、このままデートに行っちゃう?」

 急に先生が近づいてきて耳元でささやいた。そんな風にされたらやっぱり赤くなってしまう。髪型もそうだけど、なんかもうカッコいいオーラが出まくっているのだ!

(あたしもカメラ持ってくればよかったなぁぁぁ……先生、カッコいいなぁ……ハッ! 完全に巻き込まれてる?……でもやっぱり……カッコいいなぁぁ)

「ねぇ。クロコ、答えを聞かせて?でもイエス以外の答えは聞こえないぜ!」

「あ。はい、もちろん答えは……」

 そこでハッと我に返る。また先生のイケメンワールドにつかまってしまった。


「そ、それよりですね……先生、そんな時間ないですっ!」

 あたしがそう答えたら、先生はナツミさんにクルリと振り返った。口元からバラを引き抜き、アフロヘア―のてっぺんに突き刺した。

「じゃ、ナツミさん、オレとどう? デートとか?」

「もちろん、行きますっ、センセ!」

 ナツミさん、ノリノリで先生の手をしっかりと握って答えた。あんた、旦那さんいるんじゃないの?ナニシテンノ?


「じゃ、さっそくアバンチュールと……」

 あー、もうこれ以上、先生を野放しにはできない!

「先生!」

「ごめんよ、クロコ……ナツミさんが先に……」

「ヤ・マ・ブ・キ・先生っ!」

「は?」


 もう問答無用だ!

「は?」と開けた口めがけて、あたしは途中で買ってきた『カラムーチョス』をグワッと詰め込んだ。


   ▼


「あ、あに?」

 びっくりしてる先生の口にさらにカラムーチョスを食べさせた。そのまま、あたしの手ではちょっと小さいけれど、とにかく吐き出さないように先生の口をガッチリと塞いだ!

 とうぜん先生は食べるしかない!

 パリポリパリポリ

 あたしの手のひらに、先生がカラムーチョスをかみ砕く感触が伝わってくる!

 順調、順調!

「はい。もっと食べて!」

 油断してる間に追加をまた口に詰め込んだ。先生は目をパチクリさせながら、バリバリ、ポリポリ、モグモグと食べている。が、どうも様子がおかしい……なんか普通なのだ!あんなに辛いはずなのに!

「間違ったのかなぁ? センセイ、辛くないですか?」

「カラい?」

 また目をパチクリ。

「そうかなぁ? そんなに辛くは……ム! ……んぐぐ!」

 来た!みるみる顔が赤くなってきた。なんとなくだけど、髪がブワッと広がったように見えた。それから汗!そして苦しそうに息をしだした……

「はぇはぇぇ、ほぇぇ、からっ……辛いよ……コレ。なに?」

 そしてゴクリ、と飲み込んだ。

「えっと、『カラムーチョス』です」

「か、か、か、カラァァァァいっっ!」

 そして先生の悲鳴と共に、ブワッと雲隠れが背中からはがれた!

「今だっ!」

 あたしはポケットから素早く鏡を取り出した!

 その瞬間、雲隠れとバッチリ目があった。

「あれぇぇぇ? どうしてぇぇぇ?」

 答える暇もなく、雲隠れは小さな鏡の中に吸い込まれていった。


   ▼


「あの、私はいつのまにここに来たんでしょう?」

 先生は目をパチクリさせてそう聞いた。今は美容室のイスに背筋をピンと伸ばして座っている。

「それにこの妙な髪型は……?」

 なんだか居心地悪そうに髪の毛の先をいじった。

「妙じゃないです。先生、すごくカッコいいですよ!」

 あたしはすかさずそう言った。だって本当にカッコいいから。出来ればずっとこのままでいいくらい!

「そうそう、山吹先生、すっごく似合ってますよっ!」

 隣でナツミさんも拳をブンブン振って力説している。


 ちなみにこの騒動の間、マサヒコとアキナは自分の部屋に行っていた。最初は立ち会うつもりだったようだが、ナツミさんに追い出されたのだ。


 それはともかくとして、先生はどうもこの髪型、気に入らないみたいだった。そしてちょっと予想してたけれど最後にはこう言った。

「やっぱりバッサリと刈ってください」

 

 かくして五分ほどで、先生の頭はマサヒコと同じく丸坊主となった。

 ナツミさんも最初は嫌がっていたのだが、結局は慣れた手つきでばっさりとバリカンで刈り上げてしまった。

 たぶんマサヒコの頭で慣れているせいだろう。それはそれは綺麗な、グレーのビロードのように刈り上げたのだった。


   ▼


 すべてが終わった時にはすっかり日が暮れていた。

 あたしたちはナツミさんの夕食のお誘いを断って、『ビューティーサロン・ナツミ』を後にした。

 湾の向こうでは月が青白く輝き、月光を映して海がゆっくりと揺れていた。


「なんだかサッパリしましたね!」

 帰り道、先生は嬉しそうに自分の髪をジョリジョリと何度も撫でた。その楽しそうな顔を見ていると、あたしもすごく触りたくなったんだけど、これだけはなかなか言い出せなかった。今になって先生がマサヒコの頭をあんなに触りたがっていた気持ちが分かった。

 あのジョリジョリ、きっとすごくいい手触りなんだろうな、うーん、ちょっと触りたいなぁ……そんなあたしの気持ちを知ってか知らずか、先生はまた後頭部を楽しそうに撫でた。


   ▼


「それにしても、今回はなんだかよく分からない事件でしたね」

 先生は『雲隠れ』に憑りつかれていた間の記憶がないようだった。まぁかえって知らない方がいいかもしれない。『知らぬが仏』というコトワザもあるし。

 それに自分からポーズを取って写真を撮っていたこととか、たぶん話しても信じてもらえないだろうし。


 ちなみにそれを知ってか知らずか、ナツミさんは帰り際に、先生ではなく、あたしに聞いてきた。

「ねぇ、今日撮った写真、宣伝用に使ってもいいかしらね?」

 そう言ってさりげなく、アルバイト代の封筒も渡してくれた。

「もちろんですよ! カットモデルのお仕事ですからね。それに先生の髪型、すごくかっこよかったです!」

「あら、ありがと! でも、先生の今の姿見たら誰かわかんないけどネ」

 ナツミさんは、ちょっと残念そうにフフッと笑う。

 あたしも全く同じ気持ちだったからフフッと笑った。


 ちなみにこの時の写真はすぐに拡大され、ビュティ―サロン・ナツミの窓ガラスにいっぱいにデカデカと張り出された。そして年齢を問わず、町中の女性たちの噂になったのである。

 が、まぁそれはそれ。結局先生がそれを知ることはなかった。


   ▼


 まぁいろいろあったけど、あたしはこうして夜に先生とお散歩出来るのが、なんともくすぐったく、嬉しい気持ちなのだった。

「今回も、クロコ君がいろいろ頑張ってくれたんでしょう?ありがとうございました」

 先生は嬉しそうにそう言ってくれた。

 少しは覚えてるのかな? まぁどっちでもいいけど!

「あたしも今回は疲れました! でもまぁ丸く収まりましたね!」

 そう、なんといってもそれが大事。先生のアルバイト代で、今月のクリニックの危機は乗り切れたのだ!

 と、安心したのか、ちょっとよろけてしまった。たぶん妖気の使いすぎだろう。ナリはあんなでも『雲隠れ』は結構強力な妖怪だったのだ。なのに手に入ったのが妖怪入りの古い鏡だけとは……そこだけが残念だった。


   ▼


 と、不意に先生があたしの前に来て、しゃがんだ。

「よかったら、どうぞ」

 そんなこと言い出した。なんの話だろ?

「え? なんですか?」

ですよ」

 山吹先生は背中を向けたまま待っている。


 オンブ? オンブ! えぇー! いいの?

 これ頑張ったご褒美ってこと?

 こ、これは……まさにプライスレス!

 今回の騒ぎ、むしろ『雲隠れ』に感謝したいくらいだ!


「……え? でも……先生も疲れてるんじゃないですか?」

「平気ですよ、これくらい」

 ……いいのかな?ホントにいいのかな?


……」

 先生はいたずらっぽく笑ってそう言った。


 あたしはそっと先生の首に手を廻した。ちょっともたれかかると、フワッと体が浮きあがった。なんだか目線が高い。それにちょっと空気が気持ちいい気がする。

「いつもありがとう、クロコ君」

 珍しく先生がそんなこと言ってくる。いや、珍しくないのか。先生はいつだって優しいし。

 でもちょっと『雲隠れ』の姿を捜してしまった。


「それにしてもいいタイミングでしたね、山吹先生」

「え? なにがですか?」

「今回のアルバイトです。ぴったり一万円。これでなんとか今月も乗り切れます」

「ひょっとして、なんかコトワザを言おうしてますか?」

「分かります?」

「分かりますが……そんなコトワザありましたかね?」

「これぞまさに……『苦しい時のだのみ』!」


「ま、今回は確かにそうでしたねぇ」

 先生はそう言って楽しそうに坊主頭を撫でた。


                          終わり

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