架空(2018.05)
ありえないことが起きていた。何かの冗談だと思った。いや、それは確かに「冗談」として世間に受け止められてはいたのだが。
大学を卒業して六年になる。バス停の桜並木も、第五図書館前の急坂も、二号館から一号館への行きにくさも、学生寮付近の謎の臭いも、食堂のギョウザのベチョベチョさも、どれもありありと思い出せる。
「大学院大学」とは言っても普通に学部もあった。他と比べたことはないからわからないが、ごく普通の、大学とはこんな感じなんだろうな、という大学だったと思う。
特筆すべきところといえば「国際交流、特にフランスとの交流に力を入れている」ところくらいで、実際にそれを売りにして全国から人を集めているらしかったが、田代にとってはそんなことは関係なくこの大学を選んだのは家から近かったからだ。
特にやりたいこともなかった。国際コミュニケーション学部を選んだのもただの消去法で、今思えば単なるモラトリアムの延長だった。最初はそうだったが、肌に合っていたのだろう、フランス文化論や比較文化論は妙に面白く感じて、勉強は楽しかった。
サークルはいろいろと手を出した。年単位で続けられたのはカバディ、琉球古武術、コーヒー牛乳研究会で、特にコーヒー牛乳研究会では会長まで務めた。
何人かの友人を得て、何人かの恋人を作り、結局国際コミュニケーションともフランスとも何の関係もない東京の会社に就職が決まって、卒業した。
大学生活は掛け値なく楽しかった。楽しかったが、ただ漫然と過ごし、何事をも成し遂げられず、そして専門分野とは特に関係のない職についているという後ろめたさは、心の底に澱となって沈んでいた。卒業してからの六年、大学のことを思い返すことが少なかったのはそんな理由もあったのだろうと田代自身は分析していた。
「ありえないこと」の最初の兆候に触れたのは一ヶ月前だ。
「大学の教授が著作権侵害サイトを利用している。こんなことが許されていいのか」。
授業中と思われる画像。プロジェクターにブラウザが投影されている。ブラウザのタブの中の一つに「無料漫画速報」の文字──。
通り一遍の義憤を煽るツイートだったが、しかし煽った甲斐あってかそのツイートは広く拡散されていた。
今では一万リツイート近いが、田代が初めてそのツイートを目撃したときはまだ千リツイートかそこらの頃で、世の中には困った大学教授もいるもんだな、と一瞬思って意識から消えた。
その二日後の朝、通勤電車の車内でまた別のツイートを見た。やはりリツイートで回ってきていた。
「あの漫画速報の件で
見たことのあるアイコンだな、と田代は思った。すぐに気づいた。二日前のツイートと同じアカウントだ。立て続けにバズっているのか。……いや、待て。
「信濃国際大学院大学コンピューター同好会」。アカウント名だ。疑いようもなく、うちの大学だった。気づかなかった。東京に出てきて以来、「信濃」の文字を見れば必ず目が反応すると思っていた。しかし一度目で気づかなかったということは、先日はよほど一瞬しか見ていなかったのだろう。
それにても、信国か……。偏差値はそこまで低くはなかったが、確かにITリテラシーが高いかと言われると、自信を持って肯定はできなかった。古い大学だ。何人かの老教授の顔が思い浮かぶ。
思い返すたびに心に翳が落ちる大学のことではあったが、こうやって「炎上」しているさまを見せられると、さすがにいい気分はしなかった。朝から嫌なものを見た、と思った。
母校が炎上している。
確かに気持ちのいい経験ではないが、それだけでは「ありえないこと」とは言えなかっただろう。今の時代、炎上くらいならどの学校でも一度や二度はあって不思議ではない。
だが、ある一件に関してだけは、一体どう捉えたらいいのかさっぱりわからなかった。
◆
肉の焼ける匂いが立ち込める。店内のBGMは十年も前のヒットソングだった。広い店だが、休日の焼肉屋にしては空席が目立つ。
「よっす。ハヤオ。久しぶり」
「おう。ヒロシ。相変わらず山賊みたいなヒゲだな」
「グハハハ。うるせえわ」
田代とヒロシとは小学校からの親友で、クラスこそ同じになったことはなかったが、家が近かったので子供の頃からよく一緒に遊んだ。
高校が別になり、大学生になって一足先にヒロシが東京に出てからも、こうして半年に一度は会って食事をし、互いの近況を知らせあったりした。
「で、なんだよ相談って」
面倒臭いのが嫌いな男だから、単刀直入にそう言ってくるだろうとは思っていた。
「いや、もっとあるだろ。最近どうだよとか」
「珍しいじゃんか。ハヤオが相談なんて」
「いやまあ相談つかちょっと疑問ぐらいのことなんだけど」
「うん。なに」
「こないだから俺の行ってた大学が炎上してんのは知ってる?」
「どこだっけ」
「信濃国際大学院大学」
「お前の大学そんな名前だった?」
「お前は本当に人のこと覚えてないよな」
「グハハ。すまんな」
「でその大学の近所のうどん屋──ほら、蚯蚓亭だよ。あそこが予約無断キャンセルされたっつって。こんだけ用意した料理が無駄になるって画像とか貼って。で教職員絶対許さねえみたいなこと言ってる」
「あぁあぁ。知ってる知ってる。は? でもあれって……」
「そうなんだよ」
五十人の貸し切りを無断キャンセルされた。料理も用意したのに。キャンセル料のことを告げると逆ギレ。信濃国際大学院大学の教職員の皆さん、もう二度と来ないでください。うどんや・蚯蚓亭──。
一週間ほど前のツイートだった。以前の「教授が違法サイト閲覧」の比ではないほどに燃えていた。またしても自分の母校であることはすぐに気づいた。またか、と思い少し憂鬱になったが、どうにも様子がおかしいのだ。ただの炎上ではない。
炎上は義憤をエネルギーにする。だからそのツイートは爆発的に拡散され、その日一日はその話題で持ちきりなほどだった。
大学のレベルの低下を嘆く者、犯罪として扱うべきと沸騰する者、この機に乗じて政権批判をする者。そこにはいつもの炎上の風景があったが、明らかにいつもとは異なるツイート群があった。
「これ、信濃国際大学院大学なんて大学は存在しないし、そもそも蚯蚓亭っていううどん屋自体が存在しないんだよね。つまり昔懐かしの『釣り』なんだよ。低リテラシーな奴だけあぶり出される仕組みになってる」
目を疑った。なんて自信満々で嘘を言う人がいるんだろうと。いや存在しますから。通ってましたから。信濃国際大学院大学。行ったことありますから。蚯蚓亭。
しかしタイムラインを流していると、もっと目を疑った。「信濃国際大学院大学が存在しない」と主張する人間はその一人だけではなかったのだ。
「一ヶ月前から垢を作るとか手が込んでる」「教授陣の名前ふざけすぎだろ。なんだよモーニングスター三郎って」「周辺施設やマスコットキャラまで設定があるとかすげえ」「校歌にフランス語混じってんぞwww」
学生のアカウントなのだから一ヶ月前からあるのは当然だし、モーニングスター三郎先生は観光学の権威でとても優しい先生だ。もちろん実在人物。マスコットキャラのフラケットくんは意外とかわいいと人気で学内でグッズも売っている。設定じゃない。そもそもうちの学校は初代学長がフランス人だし、フランスとの提携を強めている学校なのだから校歌にフランス語が入っていても何もおかしくない。みんな何を言っているんだ?
この状況に同窓の人間たちが声を上げないのも不思議だった。日本中に信濃国際大学院大学の卒業生が何人いると思っているんだ。そもそも現役生だってかなりの数に上るはずだ。自分の大学が架空扱いされて見過ごせるはずがないだろう。
現役生と思われるアカウントを覗いてみても、今回の無断キャンセルに憤りや謝意を見せるものはあれど、大学が架空扱いされていることに言及しているものは一つもなかった。
「それで一昨日になってなんだけどさ、大学のサイトに『本学が架空であるというインターネット上の情報について』っていうお知らせが載ったんだよ。ほら。これな。しかるべき対応を取らせていただきますって。やっぱり大学側はちゃんとしてんな」
言いつつ、ヒロシの方にスマホの画面を向ける。
「それが相談か」
「いやまあ、相談ていうか何が何だか分からないから意見を聞きたい」
その段になって、ようやく気づいた。ヒロシのこちらを見る目線が、今まで見たことのないものになっていた。驚き……? 違うな。あれは……「かわいそうなものを見る目」……?
「ハヤオ。なんでお前が急にそんなことになってしまったかわからんけど、とりあえず事実だけを言うことにする」
「っ……何だよ」
「信濃国際大学院大学は、存在しない」
「はあ? だからそんなことあるわけねえだろ、四年間通ってたんだよ俺は! バス停の前の桜並木だって──」
「貸してみろ」
そう言ってヒロシは田代のスマホをふんだくると、二、三度タップしたあと、画面を田代のほうに向けた。
「読め」
「『フランス法学科、定員十二名』……」
「少なすぎる。ありえない」
「いやそれは、ほら、法学部って新しいんだよ。当時の学長が法学部も欲しがって、フランス人連れてきて無理矢理新しく作ったんだよ」
「『アンドラ観光学科、定員二名』。明らかにふざけてるじゃねえか」
「それは……」
「俺もそのサイトなら何度か見た。よく出来てると思ったが、詳しく見ればありえない記述のオンパレードだ。学校の歴史に『学長が盲腸手術』を入れる意味は?」
それはそういうものだと思っていた。他と比べたことがなかったから。
ヒロシは続ける。
「明らかにおふざけだ。ありえない設定が存在する理由は何だ。それが架空だからだ」
「いやだって、それにしたって、お前だって近く住んでたんだから知ってたろ。大学のこと。蚯蚓亭にも何度も行ったじゃねえか」
「記憶にない。そもそもうどん屋が
「あ……」
視界が揺らいだ。確かにそうだ。言われて初めて気づいた。いや、だったら、そんなことに今まで疑問を抱かなかった理由は……?
それを考えるのは恐ろしかった。
肉の焼ける匂いが立ち込める。店内の喧騒が遠くに聞こえる。どこかで子供が騒いでいる。
十年前のヒットソングが流れている。入学したばかりで不安だったときよく聴いたな、とぼんやり思う。
ヒロシが再びスマホを操作している。今度は「二、三度タップ」では済まなかった。何か文字を入力し、何度かタップしたあと、田代の手にスマホを強く握らせた。「あとは自分で確認しろ」とばかりに。
画面に写っていたのは、掲示板サイトだ。ネット交流の主流がSNSに移り、その影はすっかり薄くなっていたから、ものすごく久しぶりに見た気がする。スレッドのタイトルは「安価で架空の大学作って受験生釣ろうぜwwwwwwwwwwwwwwww」。スレ立て日時は四ヶ月前。
─────────────────────────────────
1:名無し
まずは大学名なwwwwwwwww>>10
3:名無し
安価遠すぎ
4:名無し
ksk
8:名無し
kskst
9:名無し
釣神大学
10:名無し
信濃国際大学院大学
14:名無し
普通にありそうだな
─────────────────────────────────
安価スレの文化は知っていた。未来のレス番号を「>>○○」と指定し、そこに書かれたネタを採用したり、実行したりする遊びだ。その指定のことを「安価」と呼んだはずだ。つまりは、アンカー。錨。
ときには「ksk(加速)」と書いてスレの流れを速めたりもする。「kskst(加速下)」は「加速するけど、もしこのレスに安価が当たってしまったら一個下のレスを採用してくれ」の意味。
田代はスレッドをスクロールしていく。
─────────────────────────────────
55:名無し
んじゃ次学部ねwwwwwwwwwwwww>>60-63
60:名無し
国際コミュニケーション学部
61:名無し
法学部
62:名無し
理
63:名無し
観光学部
─────────────────────────────────
それは見事に、田代が通った信濃国際大学院大学の四つの学部名と一致していた。つい最近立てられたスレの書き込みが、1900年設立の大学の情報を決定している……?
単に信国の情報をなぞっているだけ、という雰囲気には見えなかった。そんなことをする理由がないし、安価で指定しているのだから毎回ちょうど狙った通りのレス番号に正解を書き込めるはずもない。
「これは……本物のスレッドなのか……? こっちがフェイクなんだろう? 誰かが信国生を騙すために、安価スレの体を取ったページを作り上げた」
だが、ヒロシは首を横に振った。
「本物だ。詳しく調べればいくらでも証拠は出てくる。むしろ、詳しく調べれば調べるほど、信濃国際大学院大学の方がフェイクだということが浮き彫りになる」
「そんな……」
「何故かお前が通ったと思いこんでいる信濃国際大学院大学は、安価スレででっちあげられた架空の大学なんだ」
何もわからなかった。何一つ、理解できなかった。だって、ありありと思い出せるのだ。あの桜並木を。あの急坂を。あの急坂は……、何号館の前にあったんだっけ……。
それ以降はスクロールしてもほとんど頭に入ってこなかった。無意識に頭に入れることを拒んでいるのかもしれなかった。どうせそこには「信濃国際大学院大学は架空の大学である」ことを補強する情報しか載っていないのだ。
だから間違いだけを探したが、その後も安価の指定先には自分の知っている通りの情報が収まっていた。キャンパス、穂高キャンパス。初代学長、アシル=クロード。
いつの間にかスクロールはスレッドの一番下まで到達した。そこには関連URLがまとめられており、まとめwikiや学内マップを始めとしたコラージュ画像一覧などが並んでいたが、その中の一つを見て田代の目は止まった。
「安価で架空の人生作って本人釣ろうぜwwwwwwwwwwwwwwwwww」
吸い込まれるようにURLをタップしていた。ヒロシが不安そうな目線をよこしていたことには、気づかなかった。
─────────────────────────────────
1:名無し
んでそいつが死ぬときに全部架空でしたってバラすwwwwwwwwww
苗字>>5
なるべくありえそうなのにしてくれよなwwwwwwwwwww
2:名無し
無理だろ
3:名無し
米倉
4:名無し
照井
5:名無し
田代
6:名無し
江戸川
7:名無し
田代wwwwwwwwww
8:名無し
よりによって田代かよワロタ
─────────────────────────────────
一瞬、それが自分の苗字と同じだと認識できなかった。だって田代なんて、この掲示板ではよく見かける名前じゃないか。
─────────────────────────────────
11:名無し
名前>>13
ここ大事なwwwwwwwwwwwww
13:名無し
駿
16:名無し
パヤオwwwwwwwwww
─────────────────────────────────
下にスクロールを続ける。それは、奈落への階段を降りているのと何の違いもなかった。
─────────────────────────────────
296:名無し
じゃ大学で入るサークルあたり決めとくか>>300-302
300:名無し
カバディ
301:名無し
琉球古武術
302:名無し
コーヒー牛乳研究会
310:名無し
なに研究すんだよwww
312:名無し
振れ幅すごいな
─────────────────────────────────
自分の存在が脅かされる感覚。体の内側から肉を削り取られ続けているかのようだった。
「嫌だ……」
田代は自分でも間抜けに思ったが、口をついて出たのはその一言だった。
「どうした?」
「どこまでが……? 何だ……? ヒロシ、お前は本当に存在してるのか? 存在してくれているのか?」
「何言ってるんだ? 本当にどうした?」
藁にもすがる思いだった。ヒロシの存在すらも「安価で」決められていたとしたら、俺は……?
しかし、希望はいとも簡単に打ち砕かれた。
─────────────────────────────────
682:名無し
あと何決める?
687:名無し
>>682
親友の名前とか
690:名無し
>>687
いいな
親友の名前>>700
700:名無し
ヒロシ
─────────────────────────────────
肉の焼ける匂いが立ち込める。入店して以来、店員は一度も姿を見せていない。
─────────────────────────────────
731:名無し
親友の苗字>>740
─────────────────────────────────
スクロールが止まる。あれっ、と思った。ヒロシの苗字……?
まだ希望を持てる気がした。
ここで現実と違っていてさえくれれば、今日のことを一笑に付すこともできると田代は思った。偶然が重なっただけなのだ、と。
なにより、大学や自分の人生は田代の頭の中にあるだけのこととも言えるが、目の前にいるヒロシは一人の独立した人間だ。こここそが、架空と実在とを分ける本当の分水嶺なのだ。
この考えが無理筋だとは思わなかった。すがるべき藁はもう残っていないのだ。
最後の希望──。
「……ヒロシってさ、苗字何だっけ」
「おいおいうそだろ、知らんのかよ」
「いやだってほら、同じクラスになったこともなかったし、ずっとヒロシとしか呼んでないし。意外と覚えてないなと思って」
──ありえない設定が存在する理由は何だ。
「俺の苗字は」
──それが架空だからだ。
「
※この作品はフィクションです。実際の人物、団体、事件などとは一切関係ありません。
■参考文献
国際信州学院大学 | 信州から世界に羽ばたく総合大学、国際信州学院大学(国信大)のウェブサイト https://kokushin-u.jp/
【国際信州学院大学】うどん屋で無断キャンセル発生!50人分の食事が… - Togetter https://togetter.com/li/1227191
受験シーズンだし安価で架空の大学を作って受験生釣ろうぜwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
https://hebi.5ch.net/test/read.cgi/news4vip/1517036940/
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