高山テキスタイル株式会社 -コストダウン-
トレース作業を外注に依頼する際、フィルム時代は加工料に加えて材料代を考慮する必要があった。大きなサイズや色数の多い図案は、相当量のフィルムを必要とし、繰り返すパターン図案は特殊なジアゾフィルムにコピーするための機器やアンモニア液料、極太から極細まで数多く揃えられた筆やインクの用意に出費がかさむのだ。
篤郎の父景造はフィルム時代からトレース職人として独立し、自宅の一室を仕事場に作り替え、大きな図案のトレース時には居間全体を占領してしまうことも多々あった。幼年の頃から父の仕事場を見て過ごした篤郎にとって、仕事場はまさに宝の山でもゴミの山でもあり、白い紙や透明のフィルムが景造の足元を埋め尽くしていたので落書きする用紙に困ることはなかった。少年時には家の手伝いの一環として景造の仕事部屋を掃除する事で小遣いをもらうこともあり、毎回袋一杯のゴミ袋を作り出した。それほどまでにフィルムを使ったトレースには各種資材が費やされた。ようやく仕上げたトレースにミスが発覚した時の罰金が、材料費に加えてそれまで費やした時間を一瞬にして水の泡としてしまうこともあり、徹夜明けの落胆する父の背中に篤郎は決してトレース職人を継ぐことはないと誓ったものだった。
トレース作業がフィルムからコンピュータに置き換わり十年足らず、モニタに映し出される図案は拡大縮小することでどれだけ大きなサイズの図案であろうとも収めることが出来るようになると、消耗品は実サイズで確認するためのプリンタのインクと用紙代のみとなった。ジアゾの機械から発せられるアンモニア臭が室内を漂わせることもなく、フィルムを切り貼りする両面テープや小刀も必要がなくなり、パソコンとペンタブレット、プリンタさえ揃えれば誰でもトレースが出来るほど敷居は低くなった。当然トレース単価も下がる代わりに数をこなすスピードが要求されるようになる。
「製作所」時のトレース代に比べ、豪の算出したトレース単価は大盤振る舞いな金額であった。初めの頃は経営にまで口は挟むまいと誓った篤郎だが、儲からない、儲からないと何かにつけて口にする靖子の小言とは裏腹に、豪は昔ながらの図案のサイズをメジャーで測ってはブツブツ電卓を叩いて伝票に金額を書き込んだ。フィルム時代から引き継がれた算出法である。
「豪さん、ここってトレースの単価をどういう基準で決めてはるんですか?」
いつも伝票を隠すように書いてる豪に横からのぞき込むように篤郎が声を掛けると、豪は慌てて伝票を閉じた。隠しても昼休みに出て行ったあと、デスクの引き出しの中の伝票を見られるって意識はないのだろうか。
「え? いや、隠すほどの事じゃないんですけど……」
慌てて伝票を閉じたのを見られて、篤郎の咎めるような視線に言い訳をしながら豪は答える。
「大体図案の柄粋とサイズである程度これくらいって決めてる金額をつけてるんですよ。」
「亀岡の時はトレースで出来上がったのをフィルムにプリントしていたから、そのフィルム代を会社が持ってくれてる分安く設定されていたんですけど、ここはデータだけの納品ですよね。しかもそれをこっちが検修までしてるのに安くない単価付けてはるなぁと思いましてね」
「向こうはそんな安かったん?」
豪の口調が変わる。機嫌が悪くなったと篤郎も慣れたものですぐに気付く。この会社を変えるには、まずこの豪の意識改革が先決だろうと分析したのだが、なかなかどうして耳を貸さない、と言うよりは変化を嫌う節がある。いままでやってきたことが正しくあり、状況が悪化しているのは周りが悪いからだ、と信じて疑わない。会社の業績が思うように伸びない原因の一つは、受注から現場のラインに乗せるまでの要となるトレース室の改革、つまり豪の改革が必要なのだ。
「資材やキャラクターものなんかの簡単な柄だと一枚千五百円くらいですね。布団柄でも大体三千五百円くらいで、絞り模様や彫り幅全面サイズの図案なんかは四~五千円つけてましたね。ここは簡単な柄でも二千円以上つけてはるからどうなんかなと」
「……伝票見はりました?」
「はい、外注のトレース状況も知っておきたかったですので。だめでしたか?」
嫌悪感剥き出しの豪の表情に篤郎は畳み込む。どう考えても外注のトレース職人は儲かりすぎだ。「製作所」のトレース職人と現場の給料格差で揉めた苦い経験を思い出す。
「いや、見てもらっても全然いいんやけどね。でもここは布団柄が多い上に難しい図案が多いでしょ。簡単なのを安くすると難しいのはその分増やせって逆に言われかねんのですわ。特に船越さんの図案はトレース単価が一律って決まってるから、単純に簡単、難しいで単価を変える訳にはいかんのですわ」
「船越さんって一律なんですか、それは厳しいですね」
そろそろ限界かなっと篤郎はトーンを落とした。
「だから出来ないんです」
豪は図案を持ったまま立ち上がり、威嚇するかのように篤郎を見下ろした。豪は経営取締専務を自負しており指図を受けるのを最も毛嫌いしていることを、篤郎はこの数か月で学んだ。そして何より自分を守ってくれる人間を欲していることも熟知している。
「わかりました。あと、紀ノ川さんの布団、くくり(線)描いて塗りつぶすだけの図案ありますよね。あんな簡単なのも測ったサイズの単価で決めてはるのは改善出来るんじゃないですか? 単価決める前に僕に聞いてくれはったらトレースの難易度とかも答えられるし、豪さんの負担も減るんじゃないですか?」
椅子に座ったまま優しい眼差しで豪を見上げて答えると、豪の目元から敵意がすっと引いていくのが分かった。
「そうですか? 仲瀬さんにお願いしてもいいですかね。いつも誰に聞くわけにも出来なかったし、仲瀬さんも仕事忙しそうにしてはって声かけられなかったんですわ」
「そんなん、声掛けてもらったらいつでも手を止めて対応させてもらいますよ」
「助かるわ、仲瀬君!」
途端に破顔となった豪は右手で篤郎の肩をトントンと叩くと、持っていた図案を外注発注済みの専用棚に置いてすぐさま自分の椅子に戻ると、ビジネスフォンの子機を取って韓国へ国際電話を掛けた。
「あ、朴君、今から図案データ送りますからね。え? そう、送ります。すぐに見て分からないところがあったら電話してきてください。え? 今日は三柄ですよ。三つ、さ、ん、が、ら、です。はい。FTP見てくださいよ」
韓国のPT社の朴社長は日本語が話せるといってもたどたどしい上、ゆっくり話しても聞き取れてないのか何度も言い換えたりして話す必要があり、また朴社長の話し言葉は韓国語カタカナの混ざった日本語なのでこちらも聞き取りにくい。双方が受話器をもってストレスを抱えながらの会話となるため、伝達程度であれば問題ないのだが、図案の説明ともなると通じているようでまったく通じておらず、修正依頼したデータがまったく意図しない結果で返ってくることも多かった。
たった一言の伝言だけにどれだけの時間を費やし電話代を使っているのだろうと篤郎は不安になった。
「豪さん、毎月の電話代ってどれくらいですか?」
「え? そんなん僕に聞かれてもわからへんわ。松永さんに聞くかしないと」
篤郎の予想通りの回答である。外注費に毎月どれだけの金額が掛かっているかを知らない人間が、毎月の電話代など分かるはずがないと。それを踏まえての質問だった。
「多分、しょっちゅう国際電話してはるんで、相当な金額になってると思うんですよ。この部屋、パソコンとインターネット回線の設備が整ってるんで、インターネット電話サービスを導入したら良いと思いますよ」
「なんですか、それ?」
「ウェブカメラってマイク付きのカメラを買ってパソコンに接続して、スカイプってソフト使うとネットを通して電話する事が出来るんです。カメラは二千円程で買えるし、電話代はいくら話しても無料ですよ」
「えー、なんかようわからんし、そんなややこしいの結構ですわ。今のままで不便ないしね」
機嫌を直した豪が再度怪訝な表情に戻った。これ以上変化を求めるな、と。
「スカイプってなに? 電話が出来るの?」
これまでの経過を黙って聞いていた栞里が、補足を促すように篤郎に助け舟を出す。単に栞里自身が知りたかっただけなのだがタイミングがいい。
「うん。スカイプって無料のソフトをダウンロードしてパソコンにインストールして、アカウントを作るんやんか、それが個人の電話番号みたいなもんやねん。相手も同じソフトを入れてお互いのアカウントを登録したら、あとはクリック一つで会話もできるしテレビ電話も出来るんやわ。同時通話も数人まで可能なんで、グループで仕事してるこの環境にはぴったりやと思うんやけどな。なにより電話代が無料なのが大きい」
「へぇ、そんな便利なもんがあるんやね」
すっかり感心した栞里だが、豪は拒否反応から会話に参加してこない。
「ただ一つ問題があって、PTのパソコン環境と朴さんがウェブカメラをつないでスカイプを設定できるかってところなんやわ。向こうもいい歳したおっちゃんやし理解できるかが課題やね」
「そうです。こっちは仲瀬君がやってくれるかもしれんけど、PTは朴ちゃんには絶対無理やで」
勝ち誇ったように篤郎の言葉を捉えて豪が反応した。都合のいい話には参加するのだ。
「いろいろ経費をカットしようと思うけど上手くいかんもんやな」
篤郎が深いため息交じりに思わず声を上げて呟くと、
「仲瀬さん、ぼちぼちやってくれはったらよろしいですよ。経費の事まで真剣に考えてくれはってほんま感謝してますわ。けど、その分ええ仕事してくれはったらチャラになりますさかい、頑張りましょう」
右手をぐっと胸の前に上げた豪に慰めともいえる言葉を掛けてもらい、篤郎は虚しさが心の内側に広がるが、たしかに焦っても仕方がないかと自分を勇め、それでも豪の改善には手を止めぬよう心に誓った。
「それはそうと、仲瀬さん。仲瀬さんの歓迎会も出来んままでしたけど、このトレース室のみんなでビアガーデンとか行きましょうか」
終業前、豪はパソコンの電源を落として自前のペットボトルとタオルを手にして立ち上がると、グラスを傾けるしぐさで篤郎の背中から声を掛けてきた
「今更歓迎会って、単にビアガーデンに行きたいだけでしょう」
回転いすを回して篤郎は呆れた表情を隠して笑顔で答えた。
入社してから三か月が経ち七月の半ばである。すでに豪には見切りをつけ、どうしてイニシアチブを奪ってやろうかと、篤郎は目の前の見た目は大人、頭脳はおとな子供の豪を眺めるのであった。
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