6.ザシキワラシ 解決篇



 気づくと、私はもとの薄暗い座敷に横たわっていた。

 畳の上に突然解放された私を、兄が驚きの目で見つめている。その背後には針見はりみりよん生徒会長の姿もあった。


「よかった言鳥ことり! 心配したよ!!」

「ちょっ、ちょっと兄さん……っ!」


 勢いで抱擁しようとする兄を、私は必死に引き剥がす。私の前触れなき生還は、無感動な兄を刺激するに足りたようだ。

 兄の思いも寄らない場所から出現してみようか――あの戯れ言のような願望がこんなにもすぐに、しかもこんなかたちで叶うとは……。私の思惑にもちろん兄は気づくはずもなく――、


「さ、言鳥。立てる?」

「う、うん……」


 差し伸べられた兄の手を、私は素直に握る。

 何がどうなっているのか。

 と、思ったのはほんの一瞬のことで、兄の足下で憐れに分解された黒い小箱が目に入り、私はだいたいの現況を察した。どうやら兄が怪異の核心に迫ることを、私はまた阻止出来なかったらしい。結局いつもこうなってしまうのだ。それが重大な怪異事件であればあるほど、何だかんだで兄はすべて解決に導いてしまう。


 ――でも、全部終わったのならそれはそれでいいか……。


 私はため息をつきつつ立ち上がろうとした。

 しかし。



                  *



「あ、あれ……」


 膝に力が入らない。足裏が畳の目を滑る。

 指先が痺れ、全身を虚脱感が覆う。

 おかしい。意識ははっきりしているのに、身体が自分のものではないみたいだ。


「あら。すっかり、ええ、すっかりようですねえ」

「吸われ……え?」


 針見りよんの不穏な発言が危惧を裏づける。


「ええ、暫くはあまりご無理をされないほうがよろしいかと」


 どういうことか。

 問い質そうとするも、急襲する眩暈と倦怠が私の行動を阻害した。

 ふらつく私を見かねて兄は少し思案し、


苗内なわないさん、すみません。妹がちょっと具合が悪いみたいなのですが……」


 しかし兄が振り返った先を見て、私はまたぎょっとする。

 そこにいたのは

 ずんぐりとした鬼の影が残像のように佇んでいる。

 否――目を凝らせば、それはまったくの影ではない。

 姿かたちは黒ずんだ鬼のそれであったが、直立する挙動からは辛うじて人の面影が垣間見える。兄が親しげに話しかけている様子を窺うに、旅館の建物とともに怪異にとり憑かれた従業員の誰かだろうか。

 影はきぃきぃと不気味に呻き声を漏らして兄に応じている。雑音ノイズにしか聞こえない影の声を、兄は人の言葉として解しているようだった。

 何もかもが異様だった。

 私は自分が置かれた状況を整理しようと、いちど深く息を吸った。



                  *



 そのときだった。


 ぐおぉん……――

 ぐおぉぅん……――。


 巨大な重低音が鳴り渡った。

 腹の底に直接届くかの如き鈍く重苦しい響きが、旅館全体を震撼させる。

 兄の傍らに立つ影が、かはっと息を吐き、共鳴するようにその身を震わせている。


「うん? 今なんか、地鳴りみたいな音が――」


 兄がいぶかって辺りを見回す。

 兄にも聞こえているということは、この重低音は物理的な事象ということだ。


 ――異界が現実に侵蝕しているのか。


 だが、怪異の要因であった木箱は、兄の手により分解されたのではなかったか。

 では、何が――――、


「恐らくは、ええ、辻褄が合わなくなったのですね」


 針見りよんが所見を述べた。

 私の思路を読んだようなタイミングだ。


「辻褄? 先輩、いったい何のことです?」

「旅館の建物が、虚構と現実のずれに、ええ、矛盾に耐え切れなくなったのでしょう」


 針見りよんが答えた内容に兄は疑問符を浮かべる。

 虚構と現実のずれ。私の脳裡には、先刻この座敷にたどり着くまでに通過してきた、肥大的に異界化した旅館の情景が思い起こされていた。


「言鳥さん、暮樫くれがしさん」


 私と兄とを順に見て、針見りよんが告げる。


「逃げましょう」



                  *



 旅館の内部は迷宮ダンジョンと化していた。

 板張りの廊下はときに折れ曲がり、ときに分かれ、ときに交じり、ときに唐突に断ち切れていた。天井や襖の隙間からは異形のモノたちがぎょろぎょろと血走った眼を覗かせ、獲物がかかる好機を今か今かと待ち構えている。廊下は四方縦横に闇が迫り、暗がりの奥で何かが軋み崩れる音が轟く。

 魑魅魍魎が跳梁跋扈する万魔殿。

 一歩間違えば生きて帰還することが出来るかも分からぬ魔窟。

 その中を、私は兄に背負われて進んでいた――独力では立ち上がることもままならなかった私は、兄の背中を借りざるを得なかったのだ。当の兄は、針見りよんに急かされ、意味も分からず廊下を疾駆していた。


「に、兄さん、その……重くない?」


 兄の背のぬくもりを感じながら、私は問いかける。


「何だい? 言鳥にしては随分としおらしいじゃないか」

「そ、そんなことないしっ!」

「ははっ。足腰以外は元気そうでよかったよ」

「むぅ……」


 複雑怪奇な迷路の道中にあって、兄は迷う素振りもない。軽口を叩く余裕すらある。兄からしてみれば、元来た通路ルートをたどっているだけなのであろう。兄には旅館の怪異化した部分は見えていないのだ。



                  *



 私たちが正面玄関から脱した瞬間と、旅館のロビーが魔の闇に満たされるのは僅差だった。入り口の格子戸がぐにゃりと変質し、旅館が青白い炎に呑まれる。

 間一髪。私たちは、どうにか危機を逃れたのだった。


「はぁ、はぁ……。言鳥、だいぶ揺らしてしまったと思うけど、大丈夫だったかい?」

「あっ! えっと、ごめん……!」


 気づいて、私は兄の背中から下りる。兄に背負われる体験は、妹の私に幼い頃の記憶を甦らせるものだった。正直少し名残惜しくもあったのだが……息を切らせている兄を見てはそうも言ってはいられまい。


「ふぅ……。しかし何です針見先輩。急に走って逃げろだなんて……」

「いえいえ。お疲れ様でした、暮樫さん」

「はあ」


 兄と生徒会長の会話は相変わらず噛み合っていないが、もはや見慣れた応酬である。それに、今の私にツッコミを入れる余力は残されてはいなかった。

 兄に縋りつく格好で、私は宵闇に青く燃える旅館を、ただ茫然と眺めていた。



                  *



「あっ。でも、私たちの荷物……」


 私ははっとする。風呂上がりの直後に怪異に囚われてしまったがために、持参した鞄等をすべて部屋に置いてきてしまった。おまけに浴衣も着たままだ。


「ああ、どうする言鳥? 部屋まで戻ろうか?」


 兄が何でもないことのように訊いてくるが(兄にとっては実に何でもないことなのだ)、またあの妖魔の蔓延はびこる旅館に戻る気には到底なれなかった。

 しかし、着替えも財布も鞄の中だ。

 ……戻るしかないのか。


「ええ、そのことでしたら問題ありませんよ」


 と、針見りよんがおっとりとして言う。

 すべてを見透かしたような態度が私を苛立たせた。


「問題ないって、そんなこと言ったってですね――!」


 私が反論を加えようとした刹那。

 激しい轟音が耳殻を揺らした。

 見ると、旅館正面の一角が破壊されて黒い煙を吐いている。ぼうっと火柱が上がる。割れた壁の隙間から人魂や小鬼らしきモノが跳ねて飛んだ。周囲の躑躅つつじ林に火の粉が燃え移らないのが、それらが現実の火ではない証左だった。

 やがて、濛々もうもうと膨らむ火煙の中から人影が現れた。肩と両腕に複数個の袋やショルダーバッグを抱えた坊主頭の長躯――それは、徳命館とくめいかん高校生徒会副会長、堂主どうず慈恩じおんだった。彼が抱える荷物の中には、私たち兄妹の持ち物も含まれていた。


「どうぞ」


 堂主副会長が私の旅行鞄を差し出してくる。


「あ、どうも……」


 私は若干臆しつつも鞄を受け取った。


「堂主さん、ええ、お疲れ様でした」

「いえ、任務ですので」


 針見りよん生徒会長の労いに、堂主副会長は短く答える。

 本当に何なのだ、この人たちは。



                  *



 徳命館高校三年、堂主慈恩。彼は徳命館高校生徒会もとい超心理領域開発システム諜報部の構成員である。所謂、特殊な戦闘要員。主に霊的存在に対する肉弾戦を得意とすると伝え聞く。

 最初の廊下での邂逅以降、まったく姿を見ないと思っていたら――、

 あの魔窟の中、全員分の荷物を取りに回っていたらしい。

 兄の無自覚怪異回避ナビゲートもなしに、単騎力技で迷宮を抜けてきたというのであるから常人の所業ではない。改造人間か何かなのだろうか。改造人間か何かなのかもしれない。


「…………あ」


 そこまで考えて思い当たる。


「まさか……このためだけに副会長と同行を……!?」

「ええ、適材適所でしょう?」


 針見りよんはしれっと嘯く。

 対怪異のこととは言え、要は荷物持ちではないか。


「自分、頑強さだけが取り柄ですので……」

「助かりましたよ、ええ、助かりました」


 両者、それがさも当然と言わんばかりだ。

 肩に纏わりつく鬼火の残滓を軽く払いつつ、堂主慈恩は針見りよんを見下ろす。

 偉丈夫然とした巨躯に似合わず、その眼差しは優しげだった。


「会長、お怪我はありませんでしたか?」

「ええ、私は大丈夫ですよ」


 何故この生徒会長が支持を得ているのか、私には欠片かけらも理解できない。



                  *



 それにつけてもこの惨状である。

 私たちの目の前で、旅館あかやしお荘は静かに炎上していた。

 その炎は異界の灯し火。この世ならざる非現実のほむらである。

 音もなく燃え盛り、青白く建物を包む。

 そして内部の異界化の影響を受けてか、旅館の外観も少しずつ異貌へと変わりつつあるようだった。変わらないのは咲き囲む躑躅の花々だけ。

 青い焔に躑躅の薄紅が映えて美しかった。


「こうなってしまっては、ええ、もう人間の旅館としてはやってはいけませんね」


 針見りよんが呟く。

 彼女の面貌もまた青く照らされていた。


「それじゃあ、旅館の中の人たちは……」

「従業員の方々は、ええ、既に全員怪異に侵されていました。ええ、残念ながら……」


 言葉を濁し、彼女は目を伏せた。

 私は兄の隣にいた黒い影を思い出す。兄が苗内さんと呼んでいた、あの黒い影の鬼。あれもまた人間だったときがあったのだろう。

 滞在中に目にした、旅館の活気に溢れた賑わい。思えば、あの盛りも旅館が最後に見せた往時の夢だったのかもしれない。


「――ええ、ですので」


 と、針見りよんが気を取り直したふうにかんばせを起こし、


「こちらの土地は、ええ、超心理領域開発システムが買い上げましょう」


 情緒的な余韻を叩き切って告げる。


「えっ、買い上げるって……旅館の敷地全部ってことですか」

「ええ、全部ですね。

「――――は?」



                  *



 さて、種明かしである。

 妖怪で観光化しようとした旅館が、実は本物の妖怪にとり憑かれていた――。

 端的に言い表せば、そういう話だった。


「ええ、あらためてお疲れ様でした」


 針見りよんが穏やかに微笑みかける。

 方形のラウンジの中央で、私たちは差し向かいで座っていた。

 アルミの椅子。ガラスの机。コンクリートで囲われた室内は無機質で、このビルが山林の中にあるという事実を忘れさせる。

 LEDの白い光が視野を隅々まで照らす。適度に調整された室温と清浄な空気。空間を人工的な清潔さが支配している。

 快適と言えばそうなのだが、何処か落ち着かない。

 私は不必要に視線を彷徨さまよわせ、幾度目かの居住まいをただす。


「どうか、ええ、どうかされましたか? 言鳥さん?」

「……いえ、何も」


 目の前にいるのがこの人なのだから尚更だ。憂鬱になる。


「それより事情、説明してもらえるのですよね」

「ええ、もちろんです」


 彼女は優しく目を細めた。つくられたような笑みが、私に不安を募らせた。




                  *



 あの後。私たちは完全に異界化してしまったあかやしお荘を離れ、山を下りた。

 既に日が落ちていたが、そこから数キロメートル先の山麓部に徳命館学園が所有するという宿泊施設――つまりは超心理領域開発システムの研究施設の宿舎があるというので、そこで一夜を過ごすことになったのだった。

 ちょうど山を下りた路上で〈徳命会〉のロゴ入りの乗用車が待っていたのには、あまりのご都合主義的展開に閉口したが、もはや何も言うまいと調子を合わせた。




                  *



 順を追って説明しよう。

 旅館あかやしお荘。元をたどれば、その創業は明治の頃まで遡るという。

 現在こそ過疎化が極まり、山々に埋没しているこの地域であるが、当時は温泉地としてそれなりの活況を見せていた。

 しかし時代が下るにつれ、周辺都市の産業が変遷し、山間部に通じていた交通網の多くが廃れる。一帯は衰退の一途をたどった。盛時には近隣に十数軒を数えたという温泉旅館も、いつしかあかやしお荘を残すのみとなってしまった。

 あかやしお荘は一部の常連客を頼みに細々と営業を続けていた。

 しかしそれも限界に近づいていた。


 そんなある日のことだった。

 観光コンサルタントを名乗る男が、あかやしお荘に現れた。

 それが、今からおよそ八か月前――昨年の九月初旬のことだ。

 男は言葉巧みに取り入り、手ずから旅館の再建計画に携わる。それが、九月から十月にかけての約二か月間の出来事。

 何故まったくの部外者である男が、短期間のうちに旅館経営の中枢に深くかかわることができたのか――あるいはそこにも何か呪術的な心理操作があったのかもしれないが、今となっては闇の中だ。

 そして、十月末。男が消える。



                  *



「すべての仕掛けは、ええ、そこで終わっていたようです」

「仕掛け?」


 私は訊ね返す。

 開放されたラウンジでは、声が妙に大きく聞こえる。


「ええ、私たちの組織が注目したのも、ええ、まさにその仕掛けについてでした」

「仕掛けとは何です。というか、あなたたちがあの旅館にいたこと自体、私には理解し難いのですけど」

「そうですね……例えば、ええ、物語によくありますでしょう、あやかしが人間の姿をとって旅館やお店にやって来るというストーリーが」


 針見りよんは、如何にもよい例えを思いついたというふうに頷く。


「つまりは、ええ、アレですよ」


 アレとは。


「あら。分かりませんか」

「分かりませんね」

「言鳥さんは、ええ、あの旅館に来ていた宿泊客が人間の姿に見えていたのですよね」

「……そうですけど」

「ですがそれらは、ええ、みんな妖怪が変貌したものでした。そうでしたね?」

「だからなんです」

「つまりは、ええ、そういうことです」


 分からない。



                  *



 男の消失とともに急増した宿泊客。しかし、客は訪れた端から消えていく。

 その現象はすべて、男が残した小箱によるものだった。

 奥座敷に置かれていた黒い木のハコ――あれは強力な怪異の吸引装置だったらしい。

 あの旅館に問答無用で怪異を引き寄せ、客として迎え入れてしまうシステム。

 俗にいう蠱術こじゅつ、その応用である。

 引き寄せられた怪異は人格を帯び、あの旅館の中だけでは人間らしい姿を与えられる。その代わりに、怪異個々の力や特徴は匣に吸収され、旅館内部に構築された異界と均質化されていく――。


「はじめから、人間の消失事件など起こってはいなかったと?」

「ええ、あの匣に大量の怪異が吸われていただけですからね」


 表向きには、次々とお客が消える連続大量消失事件。

 しかし裏向きには、人間の見目姿をして訪れた妖怪が旅館に設置された匣に吸収されていたというのがその実態だった。

 客が絶えず来訪するというのも、匣に引き寄せられた妖怪が集まっていたさまが、そのように見えていたに過ぎなかった。そして、そのように見せることこそが、コンサルタントの男の仕掛けだったのだ。


「でも……その間、一般のお客は来なかったのですか? どれだけ旅館の従業員が心理操作されていたかもしれないとは言っても、外から来た人間から見てしまえば、分かりそうなものですけど」

「ええ、そこが仕掛けだったのですね」


 どういうことか。


「あの旅館では、ええ、もとより集客のキャンペーンなど行われてはいませんでした」



                  *



 曰く、観光コンサルタントの男は集客のための方策をとるように見せて、何より外部の人間を寄せつけないことに腐心したらしい。

 旅館の改装や宣伝も、ひとえに一般の人間の目から旅館の存在を隠蔽する術の一環であったということだ。


「人除けの呪術、ですか……」


 怪異を引き寄せる術を使えるのであるから、その程度は使いこなせてもおかしいことはない。

 客の宿泊記録が残っていないというのも然もありなんという話だ。

 この半年、私たちを除いてあの旅館に人間の客など一人として訪れていなかったのだから――。

 そして、数か月間に及び、数多の怪異を吸収し続けた匣は力を増大させる。果ては旅館全体を取り込み、旅館の従業員たちをも異形の存在と同一化させてしまったのだった。



                  *



「支配人の苗内さんが異変に気づいたときには、ええ、既に遅かったようですね」


 あかやしお荘の社長と支配人は叔父と面識があった。

 しかし叔父が連絡を受けた時点では、事態は取り返しのつかないところまで至っていたそうだ。電話口に聞こえる従業員の声は、人間の言葉とは似ても似つかぬ怪音と成り果てていた。


 ――私でなければ解析するのも難しかったね。


 のちに叔父は語った。

 無際限に怪異を呼び寄せ且つ吸収し続ける呪物を放置しておくことは、今後のことを考えれば得策とは言えない。ややもすると、山全体が巨大な蠱毒こどく坩堝るつぼとなり兼ねない。そして怪異を吸収する匣に関して、叔父には思い当たる節があった。


 ――状況を総合するに、厥樫それがしのほうのまじない道具が流れているのじゃないかと思ったのだよ。

 

 厥樫家は垂樫たれがし禍樫かがし枯樫かれがし……と並ぶ暮樫家分家筋のひとつである。主に骨董品や呪術道具の管理を生業とする。厥樫の呪物が流出したとなれば、それは暮樫家も無関係ではない。一族の落とし前はつけなければならない。一計を案じた叔父は超心理領域開発システムと連携し、私たち兄妹を向かわせることを決めたという。


 ――温泉旅行も出来るし、これぞ一石二鳥だよ。


 叔父は如何にも名案を思いついたというふうに頷いた。

 そんな名案があるものか。



                  *



「そのコンサルタントの方があかやしお荘に目をつけたのも、ええ、もとは暮樫家のつながりの――天狗の力を当てにしてのことだったようです」

「天狗の……六万坊ろくまんぼうですか」

「ええ、あの旅館には六万坊大権現を祀る祠がありました。山の怪異の首魁たる六万坊天狗の祀られている土地であれば、怪異も寄りつきやすいと考えたのでしょう」


 それは私としては何だか複雑だ。

 暮樫家に由来する呪物が事件を引き起こし、暮樫家に関連する天狗の祠が事件の端緒をつくった――。


「暮樫さんは六万坊大権現の祠にはいち早く気づいていたようですが……そのまわりの怪異の気配はまったく感じ取れないのが、ええ、何とも暮樫さんらしいです」


 針見りよんはそう言って笑った。

 私はとても笑える気分にはなれなかった。



                  *



 しかし、それでもまだ謎は残る。


「――でも、男が奥座敷から消えた件は何だったのです? あれも呪術か何かを使って?」

「いえ、あれこそ特別なことはないですね」


 針見りよんは淡々と答えた。

 特別なことはない。

 まさか、異界化した旅館に自身が飲み込まれてしまったなんてことは――。


「いえ、その頃は旅館の異界化は、ええ、まだそこまで進行してはいなかったはずですよ」

「だったら、どうやって――」

「コンサルタントの方が消えたあと、若手の従業員の何人かが辞めてしまったということは、ええ、ご説明したでしょう?」

「ああ……消失事件を気味悪がって辞めてしまったとか」

「ええ、それです」

「勿体ぶらないでもらえませんか」

「ええ、ですから、

「ああ……」


 明かされてみれば何ということはない。

 トリックというにも満たない簡単な手口だ。

 何だか力が抜けてしまう。大きな虚脱感の中で、私は深くため息をついた。



                  *



「あかやしお荘は……あの旅館は、この先どうなるのでしょう」


 私は怪異とともに取り残された温泉旅館に思いを馳せる。

 追憶に映るのは、最後に見た青白く燃え盛る光景だ。


「匣が破壊されたことで、蠱術は無事に解除されましたが……ええ、従業員の方々も総じて怪異となってしまいましたからね。今後は妖怪のための旅館として、ええ、異界の中で営業し続けていくことでしょう」


 妖怪のための旅館。怪異を呑み込み、怪異と化した旅館。

 閉ざされた山の奥で――、人の世と魔の世との狭間の中で――、

 僻地の山中にひっそりと、躑躅の花に隠されるようにして、佇み続けていくのだろうか――。


「超心理領域開発システムが適切に管理しますので、ええ、ご心配には及びません」

「それが一番心配なんですけど……」


 私が顔を渋らせていると、誰かが近づいてくる気配があった。


「言鳥――? あれ、おかしいな。こっちのほうにいると思ったけど……」


 きょろきょろと辺りを見回しながらラウンジに入ってきたのは兄である。

 私を探していたらしい。程なく、兄は私に気づく。


「ああ言鳥、ここにいたんだね」


 兄の声に、自分の中で気が緩むのを感じる。

 長く聞き馴染んだ声。私が何処にいても、きっと私を呼んでくれるあたたかな声。

 柔らかく笑って肩を揺らしたその姿に、私はゆっくりと微笑み返した。



                  *



 数日後。高校に戻った私たちは、幽霊と少女と催眠術を巡る胡乱な事件に巻き込まれることになるが――それはまた別の機会に語られていることだろう。





                  *



                  *






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