アンコール・東京花景
朝のニュースでは、東京の桜は七分咲きとのことだった。
「すごい。もう満開に近いね」
わたしはスプリングコートの上に羽織ったレモンイエローのストールを引き寄せて、咲き誇る夜桜を仰いだ。隣を歩く真白が「週末には散ってしまいそうですね」と呟く。千鳥ヶ淵公園緑道。真白の勤める楽器店も関わっていたイベントで、頼まれて数曲を弾いた、その帰りだった。半蔵門駅までまっすぐ向かうところだったのを、真白が「千鳥ヶ淵ライトアップ」の看板を見つけたのだ。
「オーナーもうれしそうでしたよ。先輩が弾くと、ピアノが喜ぶって」
「選曲がよかったんだよ」
初心者でも聞きやすいよう、桜を絡めた現代曲を提案したのは真白だ。だからか、いつもより若い女性が多く足を止めていたように思う。スーツ姿の真白は控えめに微笑むにとどめ、「またお願いしてもいいですか、先輩」と尋ねた。
たわいもない話をしながら、桜の下を並んで歩く。わたしは真白の肩が思ったよりも、高い位置にあることに気付いた。思わずじっと見つめていると、真白が怪訝そうな顔をする。
「なんです?」
「背高くなったなあって。何センチ?」
「ふつうですよ。173です」
「わたしは170」
「先輩って昔から背高かったですよね」
「君は牛乳ばかり飲んでた」
「その話はやめてください」
心底嫌そうに首をすくめた真白にわたしはわらう。こういう話をしているとき、わたしたちはまるで昔からの知り合いのようなのだけど、実際は学生時代のたった数か月デュオを共にしたくらいで、先日十年ぶりに再会したあとも、会うのは今日で三度目だ。
「そもそも、わたし、もう君の先輩じゃないんだけど?」
「そういえば、そうでしたね。じゃあ、黒江……美紗さん?」
メールは仕事用のアドレスしか交換していないし、次の仕事がなかったら、たぶんもう連絡を取り合ったりもしない。する理由も特に見当たらない。考えているうちに、緑道の出口が見えてきたので、わたしはなんとはなしにストールに顎をうずめた。惜しいと思うには、わたしは彼のことを知らなすぎる。だけど。
「それじゃあ。わたしは九段下だから」
「はい。今日はありがとうございました」
大通りに出たところで左と右に別れる。そのとき、強い花嵐が吹いて、わたしのストールを巻き上げた。花びらを落としながら振り返ると、ちょうど同じように肩越しにこちらを振り返った真白と目が合ってしまって、わたしたちは同時に吹き出した。
「……このあと、予定あります? あっちにオーナーに教えてもらったバルがあるんですけど、寄っていきませんか。美紗、さん」
まだ慣れない、新しい呼び方にこそばゆくなりつつ、わたしはうなずいて、九段下に向きかけていたパンプスを返した。芽吹きはじめた若葉に、新しい季節の到来を予感しながら。
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