エピローグ
その店の扉を開くには、少しの勇気が要った。
国立市の大学通りからひとつ裏に入った路地にある、カフェ「オセロ」。地産の野菜を使ったランチが評判らしいその店の『水曜日のピアニスト』について教えてくれたのは、馴染の楽器店のオーナーだった。
大学通りのカフェで毎週水曜に弾いているらしい。
俺の調律したピアノだ、と添えたオーナーは、それ以上詳しくは語らなかったけれど、ピアニストのものだという名刺を見て、ささやかな興味は驚きに変わった。名前に見覚えがあったからだ。にわかに鼓動を速める心臓を落ち着かせようと、オーナーが淹れてくれた苦めのカフェオレを口に含む。
懐かしさと微かな胸の痛み、かつての激情が嵐のように過ぎ去った。
たとえば、根津の古い町並み。ピンクの躑躅と神社の参道。雨のにおい。水滴がついた古い校舎の窓硝子。ビニール傘越しに仰いだ空、水たまりのアスファルトといったもの。
「曲名は、ラフマニノフの『幻想的絵画』」
そして、ピアノ。
遠ざかったように思ったものたちが鮮やかに蘇る。
(ああ、そうか)
レモン・イエローの色彩を最後に、追憶は確信に至る。
(そうか、あなたは――)
「お久しぶりです」
閉じたビニール傘を傘立てに挿し、奥のピアノの前に座っていた背中に声をかける。楽譜をめくっていた手が止まった。振り返ったそのひとに、会釈ののち、もう一度言う。
「お久しぶりです、黒江先輩」
僕が微笑むと、少しの間のあと「……もしかして、真白くん?」と先輩は尋ね返した。
「嘘。どうして?」
「知り合いの楽器店のオーナーに聞いて。ああ僕、今このあたりの楽器店に勤めているんです」
いわゆる玄人向け、といわれる老舗の名前を上げると、黒江先輩は「知ってる」と微笑んだ。僕に気遣ったレストランのオーナーがピアノに近い特等席へ案内してくれる。メニューと一緒に、檸檬スライスの載った水をコースターの上に置かれた。開演までまだ時間があるおかげで、客は僕くらいしかいない。
上着を椅子にかけると、僕はネクタイを緩めた。あの頃と変わらない、意思の強そうな眸と目が合う。
「聞かせてくれますか」
だから、僕は言った。
少しだけ意地悪く。試すように。
「いいわ。何の曲がいい?」
「――ラフマニノフのソナタを」
頬杖をついて、目を瞑る。
レモンイエローの残像だけを残して薄闇に覆われた世界に、やがて、ゆっくりと光がひろがった。
・
・
あなたのピアノはいつだって、雷鳴に似た不穏さを持っている。
始まりにも似た、遠雷の音。
fin.
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