接吻け―くちづけ

篁 藍嘉

第1話

 レースのカーテン越しに柔らかな陽の光の射し込むリビングの大きな窓の前に立って、遠くに見える山の稜線を眺めていると後ろから不意に抱き締められた。引き寄せられるままに触れ合う躰から、ふわりと鼻腔をくすぐるほんの少し苦みのある甘い薫りが漂う。腕の囲いの中で向きを変えれば、程よく筋肉の乗った胸を包む肌触りの良いサマーセーターの生地は頬を擽った。

 頬を擦りよせれば、温かな体温に仄かな体臭と香水の混じりあった匂いがより強く薫る。詠史の最も安らげる薫りだ。

――口に出してやるつもりは毛頭ないけれど。

 猫のように何度も頬を擦りつける詠史の髪をいていた節ばった長い指が、するりとサイドの髪を梳き下して頬に触れる。そのまま頬を滑り降りた指先がおとがいを掴むと、上へと引き上げた。仰向いた視線の先にある端整なかおがゆっくりと距離を縮めてくる。

 焦点が合わなくなるほど近づく顔に瞼を閉ざした瞬間、柔らかな感触が口唇に触れた。尊人の肉厚な容の良い口唇が薄い詠史の口唇に、触れるだけのキスを落とす。

 ついばむように軽く触れては離れていく柔らかな感触。何度目かの羽根が触れるくらいのたわむれを繰り返す口唇を黙って受け入れていた詠史が、離れていくそれを尖らせた舌先でちろりと舐めあげた。

 口腔内に戻ろうとした舌先が硬いものに挟まれ退路を阻まれて、甘噛みした詠史の舌先を食んだ尊人の口腔内に吸い込まれる。乾いていた口唇は挟み込んだ舌がまとう蜜で潤い、その奥で待ち構えていた温度の違う濡れた舌先が、囚われたそれを優しく擽っていく。舌先だけに与えられる接吻くちづけが物足りなくて、詠史は目を閉じたまま尊人の首に腕を回すと己の方に引き寄せた。

 ふたつの口唇が重なり合い近づいたことで緩んだ歯列の隙間から、より尊人の口腔の奥へと舌を潜り込ませる。上顎のわずかな凹凸を尖らせた舌で辿ると、擽ったかったのか腕の下で尊人の肩がぴくりと微かに震えた。

 口唇を触れ合わせたまま噛み殺せなかった笑みを零せば、喉の奥の方で獣が心地よいときにするような音をたてる。途端に、意趣返しのように這入りこんだ舌を絡めとられきつく吸い上げられた。

 黙っていれば落ち着いた大人の風貌を兼ね備えた理知的な美丈夫は、意外と大人げがない。負けず嫌いは相変わらずのようだ。

 絡めとられた舌ごと詠史の口腔内に押し入ってくると、仕返しとばかりに歯列を辿り上顎や下裏を巧みに擽ってくる。じわじわと疼くような痺れが腰の奥に溜まって行くのを感じ、もどかしさに詠史の腕に力が籠った。

 負けず嫌いという点では詠史も負けてはいない。やられっぱなしは性に合わないとばかりに我が物顔で口腔内を蹂躙じゅうりんする尊人に応戦すれば、恋人同士の甘い接吻けはまるで格闘技の様相を呈する。

 触れ合う口唇の角度を変えるために僅かに離しては、また触れ合わせる度に微かな水音がたった。口腔内を満遍なく味わい、混じりあった溢れる蜜を分け合う。

 飲み込みきれなかった蜜が口の端を濡らすのを舐めあげた舌先が再び押し入って、何度も吸い上げられてしびれたように感じる詠史の舌先を絡めとった。

「……ふっ……ん……」

 鼻先から抜けるような微かな声が乱れた呼気とともに、身動いで僅かにできた口唇の隙間から零れ出る。

「……ん、もう降参か?」

 力が抜けて体重を全て預けてすがり付く詠史に、触れるか触れないかの距離で熱い吐息とともに揶揄からかうように笑う尊人が小憎たらしい。

「は……ぁ…………もう……なんなんだよ。急に激しすぎるっての……」

 濡れて腫れぼったくさえ感じる濡れた口唇を顔を埋めた尊人の胸で拭えば、少し溜飲が下がった。お気に入りのセーターを汚されたにもかかわらず、胸に顔を埋めたままの詠史を満足げに抱き締める尊人の腕が心地よい。

「激しいのも好きだろう? ――せっかくの休みなのに、外なんか見てる方が悪い」

 胸の奥から直接響く低い声の存外子供っぽい言葉に、思わず笑みが零れ落ちた。

「良い天気だなって思って外を見てただけじゃん。どんだけヤキモチ焼きなんだよ」

「お前に関しては、海のように広い心を持った俺でも、蟻一匹入る隙間もないくらいしか許せないな」

 しれっと告げられる言葉に苦笑が洩れる。

「どんだけ俺が好きなんだよ」

「添い遂げたいくらいには」

 揶揄うつもりの言葉に真面目に返されて、次の言葉を見失う。頬が熱くなって、きっと髪の間から覗く耳まで紅くなっているだろうと思うと、顔を上げることすら敵わない。

 首筋にかけられただけの腕を真っ直ぐに伸びた背中の中程まで滑らせて抱き着けば、顔を見せろとばかりに頬を撫でられる。

 渋々見上げた詠史の口唇に、再び優しい接吻けが降ってきた。

 そっと柔らかなラグの上に横たえられる。窓越しの陽光が眩しくて目を閉じれば、薄い瞼越しに影が差すのを感じたすぐ後に重なってきた躰の重みが心地よい。

 誘いかけるように触れる接吻けがゆっくりと深くなっていくのに抗わずに、詠史は尊人の首に腕をまわすと、今度は素直に甘く押し寄せる感覚に身を任せた。

 

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接吻け―くちづけ 篁 藍嘉 @utakatanoyume

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