ひと夏の恋と子猫とその涙。

七瀬 馨

ひと夏の恋と子猫とその涙。

ある夏の日の昼下がりーー。


俺は、お腹を空かせた”ちょっと変わった同居人”のために台所に立ち、馴れない手料理を作ろうとしていた。今日は仕事も休みで、一日ゆっくりと過ごせる日だった。


「しろ、昼ごはんなに食べたい?」


「しろっ、ツナがいい!ツナごはん〜♪」


「はいはい、またツナごはんね。」


ちょっと変わった小さな同居人は、ツナとカニカマが大好物だった。ちなみにツナごはんと言うのは、ご飯にツナ缶とマヨネーズとしょうゆを混ぜ合わせたものをかけただけの、料理と言えるのかすら怪しい、ねこまんまのようなものなのだが、同居人の”しろ”はそれが気に入っているらしい。


俺がツナごはんを作ってテーブルに運ぶと、しろはまるで高級ステーキでも目の前にしたかのように、その大きな丸い目をキラキラと輝かせた。


毎日同じようなメニューばかりなのに、どうしてこう毎回、そんな新鮮な反応が出来るのか…。俺のそんな疑問などお構いなしで、しろは今か今かと息を飲んで、じっと俺の方を見つめて、その時を待っていた。そしてーー。


「ん、いただきます。」


「わあああ、いただきま〜す♪」


しろはいつも何故か、俺がこうしていただきますを言うまで、自分で「待て。」をする。今まで一人暮らしでご飯を食べるのに、いただきますなんてわざわざ言って来なかったのが、しろのおかげで俺も、食事の前に手を合わせる習慣が出来た。


しろのこの癖は、恐らくしろの”前世”の飼い主から、躾(しつけ)として教え込まれたものなのだろう。しろはそれを今でも、律儀に守っていた。


「毎日、同じものばっかで飽きない?今度なんか魚とか焼いて、食べてみる?」


「うん!しろ、お魚たべるっ〜♪」


魚なんて捌いた事もないし、焼いた事もなかったが、しろのために覚えて、作ってみるのもいいかもしれない。しろと一緒に暮らすようになってから、こうして台所に立つ機会が増えて、一人暮らしだった頃にはなかった、食事をする楽しみが出来たように思える。


「んん〜やっぱり美味しい〜♪」


しろのこのご満悦な表情こそが、その食事をする楽しみの一番の理由だった。目を糸のように細めて、口角がキュッと上がる感じはまるで、猫の喜ぶ時の表情そのものだった。


ーーというより、しろはそもそも”猫”なのだ。

訳あって、猫が人間に”転生”してしまった姿が、今のしろなのだ。


だから俺は、"今のしろ"の正確な年齢を知らない。今の体の大きさからすると、大体小学校高学年くらいだろうか。だが、俺の家に人間の姿となって、初めて訪ねて来た時のしろは、言葉はしっかりとしていたものの、もっと体は小さかった。つまりしろは、日に日に”成長”しているのだ。それも、気が付いたら背が伸びていたとかいうレベルでなく、寝て起きたらまるで、数年越しに久々に再会した、親戚の子どものように、身体的に目まぐるしい成長を遂げているのだった。


そんなしろの急激な成長ペースから、ここ最近は、しろのお風呂に困っていた。元が猫なので、体が濡れるのを嫌って暴れたり、噛み付いて来たりする大変さもあるのだが、それ以前に、段々としろの体つきが、女性らしく変わって来ている事に、悩んでいた。初めの頃は、小さな子どもの姿だったので、父親になったような気分でいられたのでまだ良かったが、最近はしろも少し恥じらいを見せるようになって来て、俺も段々としろの体を洗いながら、目のやり場に困るようになった。だからと言って、お風呂を嫌がるしろを、そのまま放っておく訳にも行かず。そのうちしろが、一人でもお風呂に入れるようにしておかないとな。と、考えていた。


そんなしろから聞いた話しだと、元は《ノルウェージャンフォレストキャット》という猫だったらしく、調べてみると、確かにしろの髪の白と灰色のツートンカラーや、青色の瞳の特徴がそれに似ているなと思った。そう、しろは野良猫などの雑種ではない、飼い猫として飼い主から捨てられてしまった、"捨て猫"だったのだ。


「おい、しろ。またツナだけ先に食べたなー?」


「うう〜だって…ごはん、あっついんだもん〜。」


しろは熱いものが苦手な猫舌なのだ。そういえば炊きたてのごはんを盛っていたんだったなと思い、仕方なくスプーンに一口分のごはんを乗せると「こうやって、冷ますんだよ。」と、ふうっと息を吹いて、冷まして見せてあげる事にした。二度三度それを繰り返したところで、しろにスプーンを渡そうとすると、しろはシュンとその”猫耳”を下に垂らした。本当にしろは動物的で、感情が分かりやすいなと思う。


「はあ、しょうがないなあ~・・。」


普段なら絶対に人前でこんな事はしないが、しろはまだ子どもなので、スプーンに乗せたごはんをそのまましろの口に運んであげると、しろが嬉しそうに口を開け、左右に綺麗に並んだ八重歯が覗いた。


蒼空そらも食べる?」


「ん、俺はいいよ。自分のあるし。」


「だめ〜!蒼空もたべてっ〜!」


すると今度はしろが、俺の真似をして、ふうっと息を吹きかけてごはんを冷ますと、俺の目の前にスプーンを差し出してきた。


もはやツナごはんでもなくなった、ただの白いごはんだが・・。しろにとってはそれもご馳走であるワケで。それを俺にくれようとするのは、しろなりの好意なのだろう。そう思うと、それを無下には出来なかった。俺が仕方なく口を開けると、しろは満足気にスプーンに乗せたごはんを口に運んだ。


「どう?おいしい?」


「うーん、まあね。自分で作るより、人に作ってもらった方が美味しいけどね。」


これは、実家を離れて一人暮らしをするようになってから、つくづく思う事だった。自分のために自分で作るご飯ほど、味気ない物はないなと思う。すると、それを聞いたしろがーー。


「じゃあ、しろが作ってあげよっか?」


「え・・いや。なんかしろのは何入ってるか分かんなくて怖いから、それは遠慮しておくよ。」


「ええーなんでよっ〜!ひどい〜!」


飼い猫が飼い主に喜んでもらいたくて、外で捕まえた虫や鳥を、誇らしげに飼い主の元へと持ち帰る話しを、猫を飼っている昔の同級生から聞いた事があった。本能的な部分は猫のままであるしろの作る料理とやらに、"ソレ"が入っているのは考えられなくもないので、それはさすがにちょっと遠慮したかった。


今でこそしろは、人間としての生活に慣れて来たが、しろはその髪や瞳の色、人間にはあるはずのない猫耳や尻尾など、見た目からして人間とは異なる、猫であった頃の前世の名残があるため、始めのうちは、家の壁で爪を研ぎ出したり、勝手に窓から外に出て、一人で散歩に出歩いたりと、なかなか苦労も多かった。


そんなしろとの出会いは、一週間前の雨の日に遡るーー。



その日は酷い雷雨で、そんな中俺は、帰り道の公園で、段ボール箱に入れられた、ずぶ濡れで毛むくじゃらになった子猫を見つけた。


すぐに持っていた傘を段ボールにかざすと、雨ですっかり冷たくなってしまっていた子猫の小さな体に、来ていた上着をかけてやった。


せめて新しい飼い主が見つかるまでの間だけでもと思い、マンションに連れて帰ろうとしたが、うちのマンションはペット禁止なので、部屋に着くまでの間、他の住人の人目に触れないように、注意して入らなければならなかった。


上着に子猫を包んで、辺りの気配に十分に注意を払いながら、マンションのエントランスに足を踏み入れた、その時ーー。突如稲光が走ったかと思うと、直ぐに落雷の凄まじい雷鳴が鳴り響き、その瞬間ーー!!腕に抱いていた子猫がその雷鳴に驚いて、脱兎の如く外に向かって逃げ出してしまったのだ…!!


俺は急いで逃げた子猫の後を追い掛けたが、その直後に、悲劇は起こったーー。


雷鳴に驚いて、俺の腕から飛び出した子猫は、運悪く。

そのまま通りを走って来た車に跳ねられて、死んでしまったのだーー。


俺は子猫の命を救ってやれなかった事へのせめてもの想いで、その子猫のために墓を作って、その小さな命を弔った。


そして、子猫がいなくなってから、数日後ーー。


仕事が休みで家で過ごしていると、来客の予定もない日に、突然玄関のインターホンが鳴り、モニターを覗いて見ると、そこには何も写っておらず。怪訝に思いながらドアを開けるとそこには、小さな女の子が立っていた。するとその子はペコリと頭を下げて、こう言ったのだ。


「先日、助けていただいた猫です。転生して、人間になりました。」ーー


こうして、あの雨の日に亡くなった子猫は、死に際に強く願った想いから、転生して人間の姿となって、俺の元へと帰って来たのだった。


夢かうつつか、にわかには信じがたいお伽噺とぎばなしのようではあるが、俺はその女の子の人とは違う異質な髪と瞳の色が、あの子猫と同じである事に気付き、こんな非現実的な事があるものなんだなと面白半分で、女の子を信じてみようと思ったのだ。そしてその、雪のように白い髪と肌の女の子に”しろ”と、名付けたのだった。



あれから家にやって来たしろは、絶えず成長を続けていた。


その日は仕事から帰ると、家の中から、何やら焼き魚の香ばしい、いい匂いがしていた。


「ただいま。・・え、これ。しろが作ったの?」


「あっ、蒼空っ!おかえりなさい~♪うんっ!そうだよっ~!お昼にテレビを見てたらね!美味しそうなお魚の焼き方がやっててね~しろも真似して、作ってみたんだよ~!」


そう得意げに話すしろの見た目はもう、中学生くらいだろうか。Tシャツ一枚で料理をしている、しろのその女の子らしい体つきの変化に、お風呂もそうだが、そろそろ毎日同じベッドに入って寝るのも、まずいかなとさえ、思い始めて来た。


「ねえ、蒼空っ!ちょっとコレ、食べてみて?」


「ああ、ちょっと待ってて。汗掻いたから、先にシャツ脱いで来るから・・。」


するとしろは尻尾をパタパタと左右に振りながら、俺の前に立ち塞がった。そして、菜箸で摘んだ焼き魚の身に、ふうっと息を吹きかけて粗熱を逃がすと、俺の目の前に差し出した。


「だーめ!しろ、熱いのダメなんだからっ、蒼空が代わりに味見して?はい、あーん♪」


「う・・いただきます〜。」


しろに言われるがままに焼き魚を一口食べてみると、ちゃんと中まで火が通っていて、身も柔らかくて、初めて作ったとは思えないくらいに、上手に焼き上がっていた。


「ん、美味しい。ちゃんと上手に焼けてるよ。」


「ほんとっ!えへへ〜良かったあ〜♪」


それにしても、このしろの目を見張るほどの急な成長ぶり。先週まで、スプーンを持って、ごはんを冷ます事も出来なかったしろが、菜箸を器用に使って、料理とは…。しろはこのまま日に日にどんどん成長して行って、どこまで成長していくのだろうか?それとも、どこかでその成長は止まるのだろうか?あるいは…。


それからしろは、毎晩ごはんを作ってくれるようになった。だがそのメニューは魚料理がほとんどで、そろそろしろに新しい食材を教えてあげようと思っていた。


「今度、一緒に買い物行こっか。」


「えっ!ほんとにっ!いいのっ?」


「うん、いいよ。魚以外にも肉とか野菜とか、しろの知らない食材買って、色々また料理してみたらいいよ。それに服も、そろそろしろに合う新しいの、買ってあげるよ。」


「ん〜嬉しいけど、でも・・しろ、こんな見た目だし。変な目で見られちゃうんじゃないかなあ・・。」


「大丈夫だよ。帽子かぶって行けばバレないし、俺も付いてるから。」


安心させるつもりだったが、それでもなぜか、しろの曇った表情は晴れなかった。


「うん、ありがとう。でもね、きっとしろね、蒼空とお買い物には行けないんだ。だってね・・。」


その先に続く言葉を、しろはその耳と尻尾をだらんと下に垂らしながら、とても寂しそうに言った。


「しろね。最近なんだかすっごく眠たくてね。あんまり、起きていられないんだ・・。」


この日のしろのこの言葉を境に、段々としろの様子が、変わって来たのだったーー。



明くる日の夜ーー。


仕事から帰って、しろが作ってくれた夕食を食べ終え、風呂に入っていた時の事だった。


背中越しにしろの頭と体を洗い終え、いつものように先にしろを風呂に入れて、自分の頭を洗っていると、その様子を浴槽から眺めていた、しろが言った。


「蒼空は、背が高いね。」


「んーそうだね。学生時代、バスケやってた頃くらいからかな。一気に伸びたんだ。」


「しろもね、最近また背伸びたんだよ。」


「うん、知ってるよ。毎日、見てるんだから。」


俺はそう答えながら髪を流し終えると、腰にタオルを巻いて、先にしろが入っている風呂の中に、いつものように、しろと向き合うようにして浸かった。


すると、俺の前で風呂に浸かっていたしろが、ざぶざぶと波を立て、俺との間の距離を詰めると、その大きな丸い目で俺を真っ直ぐに見つめて、こう訊ねて来た。


「ねえ。蒼空はしろの事、どう思う?」


俺は、唐突なしろの問い掛けに少し戸惑ったが、そのまま素直に思っている事を答えることにした。


「んー最近、大人になったなって思うよ。だから今こうやって一緒に風呂に入ってるのも、お互いもう大人だし、そろそろやめた方がいいのかなって・・。」


と、俺が言いかけた、その時ーー!!突然しろが、風呂の中で裸のまま、俺に抱きついてきた。その勢い余って浴槽の中に体が沈み込みそうになり、俺は慌てて、しろの体を抱き止めた。


「おい・・。しろ、突然どうした?」


「ダメ!やめないで、お願いっ・・!なくなっちゃやだ。やだよ…。」


しろの言葉で、俺はしろがなにを考えているのか、大体予想出来た。


「それって、前の飼い主の事?」


「・・うん。こうやって一緒にお風呂にも入れてくれて、あんなにしろを可愛がってくれていたのに…。だから蒼空もきっとそのうち、しろを置いて離れて行っちゃうんじゃないかって、しろ、怖くて・・。」


「あー、それはないよ。ないから、しろ。頼むから一回、ちょっと・・降りてくれないかな?」


しろには分からないだろうが、お風呂の中で女の子に裸で抱き付かれて、平静を保っていられる程、さすがに俺も落ち着いてはいられない。しろが不満そうな顔をしながら体を離すと、俺は言葉を続けた。


「しろのこと、ちゃんと見てるから、大丈夫だよ。最近大人になって…可愛くなったなって、そういうとこも、全部。これからも、ちゃんと見てるから、安心して。」


すると、俺の言葉を聞いたしろは、垂れていた耳を嬉しそうにピンと立てながら、また俺に抱き付いて来た。


「ばかっ!だから、くっつくなって!」


「えへへ〜だって、嬉しいんだもん〜♪」


しろが打ち明けてくれた心の内なる本音から、しろ自身がこの時間を大切に思ってくれているのなら、俺が躊躇うこともないのだろう。そんなずっと気にかけていたお風呂の悩みが、晴れた瞬間だった。



それから数日が経ち。

しろの見た目はもう、高校生くらいになっていた。


その目まぐるしい成長スピードに、衣服の買い足しが追い付かず、仕方なくしろには、俺の小さめの服を着させていた。


それでも俺の身長は182cmあって、しろは小柄だったので、しろが着るとTシャツでも、まるでワンピースのように、腰を覆うくらいの丈の長さになってしまう。


そのせいか、お風呂から上がって、髪を乾かし終わった後のしろは、どこか落ち着かない様子で、ふとんの中で居心地悪そうに、体を動かしていた。


「しろ、どうした?」


背中越しに声をかけると、しろは俺の方を振り向いた。するとなぜか、しろが頬を赤らめながら、話し始めた。


「う、うん。ちょっとなんだか、むずむずしちゃって・・。」


「ごめん。やっぱり今度ちゃんとしろの服、買いに行こっか?」


俺がそう言いながら、何気なくしろの着ていた服に触れた瞬間ーー。

しろがその俺の手を、ぎゅっと両手で握り締めた。


「う、ううん・・違うの。なんかね、お風呂の時からね・・蒼空を見てるとね、体が熱くなって、すごく…むずむずするの。」


そう戸惑いながら目を潤ませ、自分の体を恥ずかしそうに抱き込むしろの姿に俺は、一瞬どきりとしてしまった。


「えっーと、それは・・。」


しろはもう見た目的に、高校生くらいのはずだ。やっぱりもう、しろと一緒にお風呂に入るのは、しろの心と体の事を考えても、やめた方が良いのかと考え直していた、その時だったーー。


「しろ、お前っ・・何やって・・!」


「んう、んっ・・。」


しろは熱を帯びた目をしながら舌を出して、夢中で俺の指を舐めていた。


次第にしろの行為は、まるで発情したかのようにエスカレートして、しろはシャツ一枚の姿で、俺の上に跨がって来た。


「しろ、ばかっ!やめろって・・!」


俺の制止も聞かず、しろは両手を俺の肩に置くと、今度は子猫がミルクを飲むようにぴちゃぴちゃと水音を立て、拙い動作で俺の耳を舐め始めた。これにはさすがに俺も堪らず、しろの手首を掴んで、力ずくで壁際に押さえ込むと、しろは息を上げながら頬を赤らめ、俺に言った。


「ずっとね、言えなかったの・・。でもね、しろ・・怖くて。夜寝て朝起きる度に、体がどんどん大きくなって行って。それと一緒に段々、蒼空が隣にいると・・なんだか体がうずうずしちゃって、眠れない夜が増えて・・。体がどうにかなっちゃうんじゃないかってくらい、熱くなって・・。」


そう語り始めるしろのその目は、まるで熱に冒されたかのように虚ろで、肌に触れるその体も、熱を帯びていた。


「しろ・・このまま、またいつか死んじゃうのかな・・。そのうち蒼空の年齢も追い越して、もっとずっと大人になって、おばあちゃんになって、そして・・。」


その先の言葉なんて、今は聞きたくなかったーー。


「…………っっ!?」


俺はその言葉の先を遮る様に、しろのその細くて小さな体を抱き締めた。


「蒼空、だめだよっ・・。しろはそんなことをされたらもう、我慢出来なくなっちゃうよ・・?」


しろの声も、そして体も、何かを必死に堪えるように、小さく震えていた。俺はそんなしろをなだめるように、しろのその艶やかな白い髪を、優しく撫でてやった。


「お前は、俺に会いたいって強く願って、わざわざ生まれ変わって、もう一度俺に会いに来てくれたんだろ?お前がいつ死ぬのかなんて分からないけど、でも。お前がその瞬間にまた、後悔を残して死ぬなんて、俺はお前にもう、そんな辛い想いはして欲しくない、だから。俺の前で、我慢なんてしないでいいから。しろのしたいように、したらいい。俺もそれに、答えたいから。」


俺の言葉を受け止めたしろのその青い瞳から、その時。初めて、涙が零れたーー。


「・・っ!!しろは、しろはっ・・!こんな高望み許されないかもしれない、叶うわけなんてないのは分かってる。でも、それでもっ・・!しろは、しろはっ・・!」


しろは大きく息を吸い込んで、その小さな体に宿るすべての想いを吐き出すように、真っ直ぐに俺を見つめて、涙を溢れさせながら、言ったーー。


「蒼空の事が・・・好きで・・大好きなんだよ・・。」


ぼろぼろと大粒の涙を溢れさせるしろの頬に、俺はそっと手で触れた。そしてーー。


「猫って、好きな相手にああやって、体擦り付けたり、舐めたりするんだね。」


「あ、あれはっ・・!しろは、それしか知らないから・・。

じゃあ、どうやって、伝えたらいいのかな?しろ、分からなくて・・。」


「じゃあ・・俺が、教えてあげるよ。」


そう言って俺は、しろの体を抱き寄せると…。


しろのその唇に、自分の唇を重ねた。


「・・これが、人の好きって気持ち。」


ゆっくりと唇を離すと、しろが甘く溶けるような表情で、こう訊ねた。


「これは、教えてくれただけ?それとも・・。」


しろの純粋で少し意地悪な疑問に、少し戸惑いながらも、俺はその答えを伝えた。


「俺の気持ち、だよ。」


そうして俺たちは、たった一度だけ、体を重ねて寝た。体を寄せ合って、俺の腕の中で眠るしろは、穏やかな寝顔で、安心しきったように、すやすやと寝息を立てていた。



しろと初めて体を重ねて寝た翌日から、

日に日にしろの体には、良くない変化が現れるようになっていたーー。


しろは一日の中で寝ている時間が多くなって、始めは耳が聞こえづらいと言い出して、それから目が見えづらいと言い出して、ついにしろは、体が上手く動かせなくなった。


それでもしろは、ご飯を作るのだと言い、一緒にお風呂にも入りたがった。

俺はしろの体に無理がない程度に、しろのやりたいようにさせていた。


しろの見た目は、高校生くらいになったところで、その成長をピタリと止めていた。

そして俺は、しろの体に起こっている変化について、確信を持っていた。


しろの驚異的な成長速度について解釈すると、しろは一晩のうちに、人間の一年の時を刻むのと同時に、猫としての一年も刻んでいたのだった。だから、人間の18歳の年になったしろの体はもう、猫ではもう大往生と言っていい年齢になっていて、そこで成長が止まったということは、しろはもうーー。


そして、その日は訪れたーー。



8月31日、夏の終わりの日。

外は、静かな雨が降っていたーー。


ベッドから起き上がることすら出来なくなったしろのために、俺が作ったしろの好物が、ほとんど手付かずのまま、テーブルに置かれていた。そんな日がここしばらくずっと、続いていた。


「ねえ、蒼空。しろ、死んじゃうのかな・・。」


しろはその白く曇りがかってしまった虚ろな瞳で、虚空を見つめながら、そうぽつりと呟いた。俺は何も答えなかった。代わりに、力なく寄り掛かるしろの体を、ぎゅっと抱き締めた。


しろは、視覚と聴覚のそのほとんどを失っていた。それでもしろは、体に残された力を使って、俺が傍に居ることを確かめるように手を伸ばして、俺の頰に触れた。だがそのしろの手は、氷のように冷たくなっていた。


「…悔しいなあ。こんなに傍に蒼空がいるのに、その姿も声も、感じられないなんて・・。」


「大丈夫だよ。俺はちゃんと、しろの傍にいるよ。」


俺は頬を撫でるしろのその冷たくなった指先を包み込むように、ぎゅっとその手を握り締めた。その時、ふっとしろの体から力が抜けた。俺はその時が近づいて来ているのを、静かに感じた。そしてーー。


「・・蒼空。今日までずっと・・しろと一緒に居てくれて・・ありがとう。しろは、人の姿になって、蒼空とまた会えて、蒼空に愛してもらえて、蒼空は最後までずっと、しろを離さないでいてくれて。しろは、本当に幸せだったよ。」


しろが必死に絞り出す言葉に、俺は泣いてしまわないように、必死に堪えて伝えた。


「しろ、俺にまた会いに来てくれて、ありがとう。しろとこの夏を二人で過ごせて、良かったよ。俺も、幸せだったよ。」


しろの耳にはもう、俺の声は聞こえていない。だけど俺は、声を出してしろに伝えたかった。そしてしろも、俺の言葉をなんとか読み取ろうと、もうほとんど見えていないはずのその目で、じっと俺を見つめていた。そしてしろは、大きく息を深呼吸をして、最期の言葉をゆっくりと噛み締めるように紡いだ。


「しろにくれた愛情を、今度は長く一緒にいてくれる大切な誰かに、あげてね。」


「ああ、分かった。約束するよ。」


「蒼空。大好きだったよ。ありがとう、ありがとう・・。」


目を閉じて、涙を流しながら、しろは俺に最期のキスをした。俺もそれに応えるように、しろの細くて小さな手に、指先を絡めてぎゅっと握った。そしてーー。


「ああ、蒼空の手。あったかいなあ・・。」


そうして最後に笑って・・。


しろは死んだーー。


あの雨の日とは違って、今度は温かい胸の中で、最期を看取ってやる事が出来た。


しろは今度こそ、後悔を残さず、逝けただろうか。


一人ぼっちでもう、泣いていないだろうか。


しろがこの言葉を聞いて、後悔でまた戻って来てしまわないように。俺はそっと、しろに聞こえないように、呟いた。


「ありがとう・・しろ。大好きだったよ。」


泣かないと決めていたはずなのに。温かい涙がひと雫、頰を伝っていったーー。



ある日、その子はやって来たーー。


顔をしわくちゃにして、大きな産声を上げて。母親の手に抱かれると、まだ開き切っていない瞼を重たそうに開けて・・。


しろが亡くなってから、十年後ーー。

俺は結婚して、一人の子宝に恵まれた。


その子は、雪のように真っ白な肌をして、大きな丸い目をした、女の子だった。


俺は娘の成長を、その日々に寄り添うように、大切に見守っていった。それに答えるように、娘はゆっくりと時間をかけて、一歩一歩大きくなっていった。


もちろん、子どもをお風呂に入れるのには慣れているので、一緒にお風呂にも入っているし、料理も・・たまにする。


娘が大きくなったら、いつかその名前の由来について、話してみようかと思っている。


そのためにはまず、俺がしろと過ごしたあの日々の思い出を、話さなければならない。


『ひと夏の恋と子猫とその涙。』の話しをーー。

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