氷の破片(かけら)
夏目碧央
第1話 はじまり
かいの あきら
海野 晶の物語
プロローグ
海岸線、夜。波の音は聞こえない。遠くでバイクの爆音が聞こえる。それがだんだん近づき、耳をつんざくような大音響になった。ヘッドライトが眩しい。レディース―女ばかりの暴走族―が集まったのだ。そのヘッドライトの群れが照らし出したのは、男の、いや男のような女の集団だった。レディースがバイク三十台、人数で五十人なのに対し、その男のような女の集団は十人。両者は十五メートルほどの間隔をとって睨み合った。
「海野晶ってのはどいつだ」
レディースの一人がそう言った。海野晶は、それまで集団の真ん中でドラム缶に腰掛けていたが、そう言われると立ち上り、少し前に進み出た。
男のような女、所謂ミス・ダンディの集団は、皆背が高く、短髪で、どう見ても男だ。海野晶は比較的背が低く、髪も他のミス・ダンディのようにリーゼントにしたりパーマをかけたりはしておらず、長めの前髪がサラサラと風になびいている。暗い目つきは遠いネオンの灯が映ってキラキラと輝く。
私は何をやっていたのだろう。どうしてああなってしまったのだろう。
あの頃は、人を傷つけることを何とも思っていなかった。
そして、自分を傷つけることも平気だった。
第一章
1
―三ヶ月前。―
温かそうな日差しが差し込む中学校の体育館。海野晶のいる三年四組の女子がバスケットボールをしている。和気あいあいとした様子。教師らしき女性がにこやかに見ていた。晶は大変運動ができた。ボールを常に支配し、周りの期待通りにシュートを決めた。
「晶、お願い」
「はいよ」
「ナイス・シュート!」
みんなで拍手をした。さわやかに笑う晶は、クラス中に慕われていた。背の順は後ろから四番目で、頭の良さそうなキリリとした顔立ちをしていた。
体育の授業が終わった。みんなゾロゾロと教室へ戻っていく。
「昨日、あの後ドラマ見た?」
「ああ、あれでしょ、見たよ」
「あれさあ、あの女、やじゃない?」
「やだやだ、なんかさあ、バカっぽいよね」晶の横でそんな話が始まった。あの後って何の後だろう。あれって何だろう。そんなことを思いながら目を校庭に移した。
「ひろ子ってばさ、一人で迷子になっちゃってさあ」
「そうそう、結構探したんだよねえ」
「ごめん。けどゆき子がまだいると思ってたら違う人だったんだよ」
「キャハハ、バカじゃん」
晶の前ではまた訳の分からない話が始まっていた。何のことだか聞けなかった。聞きたくもなかった。すると、一人の子がこう言った。「いいなあ、私も行きたかったのにさ。なんで英検の日なんかに行くのよう」
前の日は英語検定試験の日だった。晶と仲の良い筈の子たちはみんなで遊園地に行ったのだった。晶は当然試験を受けるだろうと思い、はじめから誘わなかったのだろう。みんなに悪気がないのは分かっていた。でも、晶の顔からはさっきまでの笑みは消えていた。
放課後。三年生にはもう部活動がない。まだまっすぐ帰ることに慣れていないのか、教室でおしゃべりが続く。晶も、まだ家には帰りたくなかったので、話の輪に加わった。「それでさあ、この間の『僕の運命』さあ、面白かったよね」
「ああ、見た見た」
話題がテレビの話になると、晶は困るのだった。ドラマはどれもつまらなかった。バラエティ番組は、一人で見ていると悲しくなった。そして先生が、受験生なんだからテレビなんて見ている場合ではない、と言ったので、無理に見るものではないと思った。だからテレビはほとんど見ていなかった。何も言えなくなって、笑っているのも疲れ、でも急に帰るのも気まずくて、晶は精神的ストレスを強く味わった。
「あ、そろそろ帰るね」
やっと晶はそう言って鞄を手に持った。
「あれ、晶いたんだ」
「えっ」
「キャハハ、ちょっとあんた、その言い方はひどいよ。私はちゃんと知ってたよ、晶がいたの」
「あはは…、じゃあね」
「バイバーイ、気をつけてねー」
クラスの女の子たちは笑顔で手を振ってくれた。晶は毒になる存在ではなかった。誰からも嫌われることはない。けれど誰からも、誰にも…。
まだ日は高い。午後の光の中を一人、歩いた。ふと見上げると雲が山のように連なっていた。山に登りたくなった。雲を、上から見下ろしてみたかった。
住宅街の真中に新しくて大きな家がある。それが晶の家だ。前と片側が、車が通れるほどの道路で、その道路を挟んだ真向かいの家には、紅い薔薇が低い塀から頭を出している。晶はカギをポケットから取り出してドアを開けて中に入った。玄関には大きな抽象画が飾ってある。それは時々黒く見えることがあるが本当は赤っぽい絵だった。この日はちゃんと赤に見えた。
いつものことながら、晶は一人分の食事を手早く作り、ちょっと考えてからテレビをつけた。ニュースを見ていると一番落ち着く。ニュースを見ながら食事をし、片付けをしてしまうと、ニュースはまた同じことの繰り返しになってしまった。つまらないので電気を消して二階の自分の部屋に行き、勉強を始めた。今は問題集を解くことくらいしか時間をつぶす手立てはなかった。
お風呂にも入ってしまってまた勉強をしていると、父親が帰ってきた。父親がまだ家に上がるか上がらないかのうちに母親も帰ってきた。二人は別に酔っ払っているわけではないのにこんなに遅い。浮気以外に理由が考えられない。晶にも近頃は分かってきた。晶の部屋の窓からは外の道路が見えるので、母親が知らない男に送ってもらってきたのを見たことがある。お互い、相手が浮気をしていることは分かっていながら、表面的には何も気づかぬふりをしている夫婦なのだ。母親の帰りがこんなに遅くなったのは晶が中学生になってからだった。仕事を持っているので、前からとても忙しい人だった。父親が先に浮気をしていて、母はそれに気づいていたらしい。時計を見て思い詰めた表情をする母を、晶は今でもよく思い出す。もうすぐ離婚するかもしれない。そう思うと胃の辺りにひどい痛みが一瞬走るのだった。
次の日。一時間目は英語。この間のテストが返された。
「海野」
「はい」
「海野は百点だ。よく勉強したな」
周りにすごーい、という歓声が上がる。晶は照れ笑いをしてちょっと頭をかいた。良い点をとると先生が褒めてくれるから嬉しかった。そして百点をとった時に親に見せるとやっぱり褒めてくれた。晶は褒めてもらうために勉強をしていた。やはり褒めてもらうのは嬉しかった。
休み時間。女の子たちが連なってブラシを持ってトイレに行く。晶は廊下に出るとギョッとした。野村昭次が久々に学校に来ていた。茶色い髪の野村は近づくと強い香水の匂いがした。晶はこの匂いを感じると、どうしても胸がドキドキしてしまうのだった。野村は晶と目が合うと、少しニヤッとして目を反らした。野村は、五、六人の男と一緒に廊下にかたまっていた。晶が友達と一緒にトイレから出て来ると、少し派手な女の子を囲んでからかっていた。晶はちょっと不愉快そうな顔をしたが、男たちと目が合わないようにそそくさとそこを通り過ぎようとした。すると、晶はついうっかりとブラシを落してしまった。それが一人の男の足元へ滑っていったので慌てて拾おうとするとその男は向い側にいる男の方へそのブラシを蹴っとばした。晶がはっとしてそっちを振り返ったときにはもう別の方へ蹴られている。そして野村も混ざったその集団は晶のブラシを蹴り回して遊びだした。晶はその真中で立ち尽くしていたが、だんだん顔がかあっと熱くなり、怒りと恥ずかしさでもうそこにはいられず、ブラシを放って走って教室に入っていった。ブラシのことは別にどうでもよかった。晶は何よりも、野村が加わっていたことがショックだった。野村の意地悪が信じられなかった。いつも女の子をからかっている時も、野村だけはただ見ているだけで、他の男が勝手にやっていることだと思っていたのに。晶は泣きたかったが他の人にそれを悟られまいとして次の授業の用意を始めた。すると何となく、あのいい香りがするので振り返ると、教室の入口の所に野村が立っていた。
「海野、ちょっと」
野村はそう言って手招きをしながらニヤニヤしている。晶は、野村が自分の名前を知っていることにちょっと喜びを感じたが、考えてみればたった今誰かに聞いて来たのかもしれない。そう思いながらゆっくりと野村の所へ行った。野村は晶のブラシを持っていた。
「ほら、忘れ物だよ」
そう言って埃や髪の毛のついた恐ろしく汚いブラシを晶の目の前に出した。ここで、“汚なーい、ひどーい、信じらんなーい”と言って野村の腕を叩いたりできればどんなにいいだろう、と心の隅で思った。でもそんな風に軽く言えないほど、晶は本当に傷ついていた。それに又、晶は野村と話をしたことがなかったのだ。親しくもないのにそんな冗談は言えないし、親しくもないのにこんなブラシを持って来ることは冗談にはならなかった。冗談にしては、あまりにも非常識だった。
「あれ、海野さん?どうしたの、ブラシいらないの?」
「…いらない。もういらない、もう、好きじゃない、あんたなんか…」
「ん?なーんだ、俺のこと好きだったのか。そういうことは早く言ってよ」
野村が大きな声で言ったので、教室がシーンとなった。晶は恥ずかしさと怒りでまっ赤になり、
「好きじゃないって言ってるでしょ」
と叫んで野村を教室から押し出し、急いで自分の席に戻って顔を伏せた。
その日の夜、塾からの帰り、晶は公園の中を横切った。その日はずっと気が重くて、いつもよりもゆっくりと歩いていた。公園を横切ると言っても、通り道はいろいろあって、いつもは一番近い道を通るが、その日は違う道を通った。下を向いてとぼとぼと歩いてゆくと、何となく前方で赤い光が見えた。立ち止まって目を凝らすと、それはタバコの灯だった。誰かいるんだと思ってびくっとすると、急にそこに大勢いることが分かった。よく見ればバイクもたくさん停めてある。暴走族だ、そう気づくと怖くなって晶は道を引き返そうとした。すると、
「あっ晶ちゃんだ」
といきなり呼ばれた。見ると野村や、その他二、三人、知っている男が混じっていた。
「なんだよ昭次、知り合いか」
「あ、海野さんじゃん、うちの中学の優等生だぜ」
「晶ちゃんは俺のことが好きだったんだよね」「うそー」
「へへん、いいだろう。もっと前から知ってればさあ、俺、ぐれなかったかもなあ」
「お前と彼女がうまくいくかよ」
男たちは大声で笑った。実はそこには五、六人の男とやはり五、六人の女がいたに過ぎなかったが、それでも晶は充分に恐怖を感じ、本当は走って逃げたかったのだが、足がすくんで上手く歩くこともできず、彼らの前をとぼとぼと歩いて通り過ぎた。
「へーえ、優等生のわりにかわいいじゃん」
と知らない男が言っていたが、振り向かず、何も言わずに歩いた。そしてやっと公園を抜けたが、まだ落ち着いている場合ではなかった。
「ちょっと、あんた」
「待ちな」
後ろから女の声が聞こえたので恐る恐る振り返ると、どうもさっき、野村たちと一緒にいた暴走族の女らしい。晶は、相手が女と見るとさっきほどはビクビクしなかった。
「あの、何か」
「あんた、昭次のことが好きなわけ」
「い、いえ」
「私ねえ、昭次の彼女なの。手ェ出さないでくれる」
晶はそう聞いてショックを受けた。野村がさっき言っていた言葉に、ビクビクしながらも喜びを感じていたのは気のせいではなかった。怖かったけれど、今日ずっと気が重かったのが、ちょっと足取りが軽やかになるようなそんな淡い喜びを感じていたのだ。しかしやっぱり野村は自分をからかっただけだった。晶は、今までずいぶんと野村を美化していたんだということをやっと知った。あのいい香りに清潔感を感じ、決めのポーズに硬派でやさしいようなイメージを抱いていたのだ。やっぱり不良なんか嫌いだ、いや、男なんか嫌いだ。そう思って泣きそうになった。
「まだ泣くのは早いんだよ」
不良の女たちは少し正常ではなかった。目がすわっている。女たちは、けんかなどしたことのない晶に容赦なく殴りかかった。髪の毛を引っ張って腹や顔を蹴ったり、地面に転がしてみんなで蹴った。晶はほとんど気が遠くなっていた。ものすごい絶望を感じて痛みもあまり感じないので、声も出さずにうずくまっていた。母親と父親の顔が浮かんだが、助けてくれるはずがないような気がしてよけいに絶望を感じた。死んでもいいと思っていた。
晶は何とか起き上がれるようになると、近くの水道場で手と顔を洗い、乱れた髪を手で撫でつけた。一番痛いのはお腹で、ちゃんと歩けずに前屈みになって歩いた。辺りには人はいない。晶は血の味を気持ち悪く思いながら、母親がどんな顔をするか、何て言おうかと考えた。
家に着くと、もう父親も母親も帰っていた。そして何か言い争いをしていた。こんなことは珍しかった。何となく、嫌な予感がした。
「ただいま」
「あ、お帰りなさい。どうしたの、お腹痛いの?」
「うん、ちょっと」
「今ね、お父さんと話してたんだけど、お父さんもお母さんも転勤が決まったの」
「え?」
「それで母さんに、断れって言ってるんだ。」「冗談じゃないわ。どうして私なのよ。だいたい―」
「どこに?どこに行くの?」
「お父さんはアメリカで、私がフランスよ」「ふうん」
晶は痛みも忘れてまっすぐに立っていた。自分はどうなるのか。この二人は自分のことを考えいているのだろうか。それとも押しつけ合っているのだろうか。
「とにかく俺は行くからな。男が仕事を何の理由で断るって言うんだ。女はいいだろう、子供のことで断ればいいんだ」
「私は必要とされているんです。誰かに代りが勤まるわけがないのよ」
「それじゃあ晶はどうするんだ。来年は受験だっていうのに、外国に連れていくわけにはいかないだろう」
「そりゃそうよ。だからあなたに残ってって言ってるの」
「何を言ってるんだ。お前、非常識なこと言ってるのが分かってるのか」
「今回だけは譲れないわ。いつもいつも我慢してきた。仕事しながら家事もやって、晶が小さい時はどうしたって手がかかったわ。だから仕事だってどうしても中途半端で、随分妥協してきたのよ。あなたは仕事だけやっていればよかった。それで暇があれば遊んで。偉そうなこと言ってるけど、収入だってそんなに多くないじゃない。私が男だったらあなたなんかよりもずっともらってる筈だわ。それで主婦業と二人分働いて」
「なんだと!」
「なによ!」
二人は、普段の仮面を剥がし、本心をぶつけ合っていた。晶はショックを受けた。母親がそんなに大変な思いをして自分のことを育てていたなんて。そして今、自分がいなければ二人はけんかをすることなんかなく、それぞれやりたいように出来るのだ。だからと言って自分が家出をしたり、自殺をしたりするほど、晶は馬鹿ではなかった。結局、親が晶を不必要だと思っているのと同じように、晶にとっても親は無用だった。ただこの家と、お金さえあればいいのだ。
「二人共行きなよ」
晶は無表情のまま言った。
「え、だって、晶は…」
「ふっ、今更何言ってんのよ。どうせいつもいないじゃない。お父さんもお母さんもそれぞれ外国行ちゃえばいいじゃない。別に何も変わらないよ」
両親は顔を見合わせた。晶は走って自分の部屋へ行った。涙がどんどん溢れてくる。別に泣くことなんてないのに、とうとうしゃくりあげて泣いた。もっと言ってやりたいことはいっぱいあったが、恨むよりも何よりもショックが大きかった。だから上手く言えそうもなかった。階段を駆け上がるときに見た玄関のオブジェは、真っ黒だった。
次の日は前の夜よりもショックが大きかった。昨夜はあのまま眠ってしまったのだが、体の痛みもだいぶおさまっていた。朝、お風呂に入って学校の支度をしていて、ふと気づくと、二人分のスーツケースが出してあった。晶は、胸の奥深くに痛みを感じた。晶は昨夜あんな風に言って走り去った自分を見て、両親はきっと考え直し、冷静に話し合って、どちらか、特に母親が残ってくれるだろうと思っていたのだ。しかし、現実は甘くなかった。本当に二人共行ってしまうのだ。
晶はクラクラしながら学校へ向かった。何も考えられなかった。何をどう考えていいのか分からない。自分は一体何なのか。誰か自分を必要としているだろうか。いや、誰も自分を必要とはしていない。それは確かだ。でも、そんなの大したことじゃない。この先、自分が多くの人に必要とされるように頑張ればいいのだ。でも、それまで生きていけるだろうか。何か、面白いことはあるだろうか。
災厄がダブルパンチで来ると、人間はある程度歪む。この日、晶はまさに災厄が重なった。学校へ行く途中、まだ同じ中学校の生徒が見えない所で、異様な少女たちが立っていた。異様というのは、どうも朝の明るさには似合わない格好をしていて、健康な少女とは思えない、やけに悪い姿勢で立っているのだ。晶は昨日不良にからまれたことをすっかり忘れていたので、全くビビらずに近づいていた。すると、
「おい、お前」
「シカトするとはいい度胸だな」
と言って彼女たちは晶を囲んだ。
「あっ、昨日の」
晶は自分で思っていたよりも本当にいい度胸をしていた。しかしこういう場合、この度胸の良さときりりとした目つきはタブーだった。不良はこういう女が嫌いなのだ。晶は頭の中が真っ白になった。また、昨日の痛みを思い出した。いや、思い出したのではなく、また同じ痛みを味わっているのだ。そういえば昨夜、母親がどんな顔をするのか、何て言おうか、考えていたんだっけ。何も聞かれなかったから何も言わなかったし、顔の傷を見ても何も言われなかった。そんなことってあるだろうか。いくら他のことに夢中だったからって。
―ジョキッ
耳元で変な音がしてはっと我に返った。何だか首や頬が痛い。不良たちは晶が呆然とするのを見ると、気が済んだのか去っていった。晶は頬に手をやって驚いた。手には多量の血がついている。すぐ下を見ると髪の毛が落ちている。そう、彼女たちは髪の毛をハサミで切ったのだ。その切り方が強引だったので、尖ったハサミが頬に傷を付けた。それで血が出ているのである。晶は長めの髪を縛らずに垂らしていた。不良たちは髪を切って充分すごい事をしたつもりだったのだろうが、晶にとってはどうでもいいことだった。ちょうどいいから美容院へ行こうと思った。ただ、この切り傷と、半端な切り方をした髪と、蹴られて汚れた制服では、このまま学校へ行くわけには行かなかった。
だが、鏡を見て晶はショックを受けた。家に帰って来て洗面所に入って見ると、思わず後ろに倒れそうになった。切られた髪は思った以上に短く、傷も随分深かった。顔は殴られたせいであちこち腫れていて、目の周りも青かった。晶は、自分の顔に自信を持っていた。顔に自信があったから、様々なショックや屈辱にも耐えて来られたのだ。先の希望だって、美貌あってこそだと思っていた。しかし今、ひどく変貌した自分の顔を見て、その考えは崩れ去った。美貌など、いつ失われるか分からない。もう、耐えているのがばかばかしくなった。まともに生きていく必要などない。そして、自分にはまともに生きていくのは無理だと思った。
荒んだ心は、癒えることなく晶の心に浸透していった。両親はその日の午後、旅立った。先んずれば制すとばかりに二人とも必要以上に早く旅立った。晶は、今まで当たり前と思ってやってきた勉強も家事も、飲食までもせずにじっと座っていた。何もしなくても誰かにしかられることがなく、また、何かをしたからといってしかられることもない。何もしなくてもいい。それなら、何かやりたいことはないか、どうせ生きているなら、死ぬ前にやっておきたいことはないか、晶は一週間、一人で考えていた。
一週間後、晶は学校に姿を現した。短い髪になった晶を見て、驚いて話しかけようとしたクラスメイトも、今まで見たことのない晶の暗い瞳と、深々と残っている顔の傷を見ると、びくっとして退いた。先生たちはどうかしたのかと聞く、生徒たちはチラチラと見る。今まであまり腹を立てたことのなかった晶も、だいぶイライラしてきた。何でもなくはないがお前らに話すことなど何もない、見たいならコソコソ見るな、言いたい事があるならはっきり言え、晶はあまりにも頭に来て、途中で学校を飛び出した。そして見切りを付けた。もうここへは来ない、来る必要はない、と。
帰る途中、昇降口の所で晶は不良の女たちにからまれた。五人の二年生で皆髪を脱色している。
「てめえ、何ガンとばしてんだよ」
「見ない顔だけど、あんた何年?」
…何で不良にばっかりからまれるんだろう。だいたい、私は三年なんだぞ、そっちの方が年下だろう。…そう思っても何も言わないでいると、不良の一人がいきなり晶の胸ぐらをつかんだ。
「なめてんのか、てめえ、私たちを誰だと思ってんだよ」
「知るか」
晶は低い声でそう言うと、思い切り睨んだ。不良は手を離し、ぶつぶつ文句を言いながら去っていった。晶の睨みがとても怖かったからに間違いはないが、晶は、三年なのが分かったのだろうと思った。晶は、やりたいことを一つ決めた。一週間、家にいたのでは良く分からなかったしたいこと、やっておきたいことが、学校へ来てみてやっと分かった。それは、今のような不良女どもに復讐することだ。復讐、そう、もう顔も忘れてしまった、晶の顔に傷を付けた暴走族の女に必ず復讐出来るように、ここら辺の暴走族の女どもを残らず痛めつけてやる、それまでは死なない。晶はそう決心した。
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