Knight Unite at the Night. ~かみまちセフィーロ~

@theBlueField

第1話 パパ~Pudgy Patron~

 此処ここのトイレは、独特の臭いがする。

 恐らくは塩素系の洗剤由来なのだろうが、の過剰なまでの清潔感は、六丸悠ろくまるゆうむものだった。苦過ぎる記憶を呼び起こす、とても嫌な、いやな臭い――。

 辛うじて平静な表情かおつくろって、入り口ぐ横の女子トイレを後にする。店の片隅の、イートインコーナーとうといささ洒落しゃれに過ぎるだろうか、平たく云うと休憩所に足を向ける。そして、つい先程迄居たカウンター席に、吸い寄せられる様に戻る。まるで其の席が、以前むかしからの定位置だったかの様に。

 カウンターテーブルにする。乱れた前髪の間隙かんげきから、壁面に掛けられた時計を見遣みやると、時針は3を過ぎた辺りに、分針は4の近辺に在る。悠蕗は元の姿勢に直り、視界を遮断した。

 何時いつからだろうか? 自らの身体の周囲まわりに、常に倦怠けんたい感がまとわり付く様にったのは。まるでオーラみたいに、全身に薄く、しかし濃密に絡み付いている。振り切れそうで、振り切れない。ひょっとしたら、いやひょっとしなくても、此れは精神的な所から起因しているものなのかも知れない――。

 あ、泣きそうだ……。

 ふと、涙が込み上げている事に気付き、あぁ、こんな所で泣きたくはないな、と他人ひとごとの様に思った。

 熱くなった目頭をシャツの袖で拭おうと上体を起こす。上半身ってこんなに重かったっけ? と驚く程に力が要った。やっとの事で身体を起こした時、背後から声がした。

「あれぇ? ユウちゃん?」

 休憩所に、悠蕗の他に人影は無い。間違い無く、其の声は悠蕗に掛けられたものだ。悠蕗はだるい身体を押して、ゆっくりと身をひるがえす。

 声の主は、分かっている。其の声には聞き覚えがあった。

「……こんなトコで会うなんてね、パパ」

 にっこりと満面の笑みをこしらえて、悠蕗は応答した。

 無論、

「どうしたのぉ? もう4ヵ月くらい連絡取れなくてさぁ。心配だったんだよぉ?」

 は、悠蕗のもとに歩み寄ると、其の肥えた身体を密着させようとする。

 うざい。

 悠蕗は笑顔を浮かべたまま、近付いてくる中年オヤジの身体を左腕で避ける。露骨にヒジが当たらない様に配慮しながら。

「……あれぇ? 何だよ優ちゃん、れないなぁ……」

 まゆひそめ、口をとがらせた。

「会えなくて寂しかったんだよぉ? 仲良くしてよぉ」

 脂ぎった顔を悠蕗の耳許に近付ける。手にげている、大手ショッピングセンター系列のスーパーマーケットのロゴが印刷されたポリ袋が音を立てた。

、弾むからさぁ……」

 の息が荒い。悠蕗はり上がる吐き気をこらえつつ、か細い声で返事をする。

メンね、今日は一寸ちょっと……」

 なるべくトゲの無い言葉ワード選びチョイスをした心算つもりだった。だが、には通じなかった。

 は数秒掛けて顔を真っ赤にし、赤鬼の様な形相と為った。小鼻をヒクつかせ、鼻息をフガフガさせている。

巫山戯ふざけるなよ此のヤロー!!!」

 深夜のスーパーマーケットの店中に、の怒声がこだました。此れが昼時なら、何事かと店員が駆け寄り客が野次馬を形成する所だが、生憎あいにく今は丸半日分、時間がズレている。仲立ち人ミドルマンに為ってれそうな存在は、望めなかった。


 斧佑平おのゆうへいは丁度会計を済ませ、財布をチノパンの尻ポケットにじ込んでいる所だった。

 休憩所からの怒号は、店員達も気にはしているものの、知らぬ存ぜぬを決め込んで品出しを続けている。

 まぁ、店員達の心情も理解出来る。こんな、深夜と早朝の合間あわいの時刻に24時間営業のスーパーでバイトしていて、本来の業務内容には含まれない、客同士のいざこざの仲裁なんて、誰しも遣りたがらないだろう。昼間ちゅうかんですら、客同士の揉め事なんて云う面倒事に進んで仲介役を買って出る様な店員は居ない筈だ。

 佑平は立ち止まり、溜め息を一ついた。見渡す限り、他に客は居ない。

 偽善でも慈善でも何でもない、ただ見過ごして立ち去るのは後味が悪かっただけだ。其れだけだ。何故か自分に言い訳し乍ら、或いは自分の行動に理由付けをし乍ら、休憩スペースへと足を向けた。

 休憩スペース内には、コの字型にカウンターテーブルが設けられ、其の内周に沿う形で、一人掛けの丸椅子いすが配されている。声の主が強面こわもてのオラついた、面倒そうな風体ふうていなら、そっと立ち去ろうと思っていたのだが、口角泡を飛ばしカウンター席に座る相手を怒鳴り散らしているのは、40代と思われる、うだつの上がらなそうなオッサンだった。佑平の立ち位置からは、うらぶれた背中しか見えないが、道路側に面した大きな硝子ガラスに其の顔が映り込んでいた。弱い者には威張いばり散らし、権力者にはへつらう、典型的な小物の顔だ。

 そして、其の中年オヤジが迫っているのは、見た目高校生くらいの少女だった。困っている様な、持て余している様な、取るべき態度に苦慮している様子が、其の表情から伝わってくる。心しか、顔色も悪い。

 蛮勇ばんゆうが、むくむくと湧き上がってくる。此れ迄の27年間、一度たりとも漫画マンガの登場人物の様な格好良い言動はして来なかった。そもそも、そう云った状況が巡っては来なかった。今ぐらい、良いのではないか? 格好付けたって、ばちは当たらないのではないか? 万一遣り返されたって、少女を救えなくたって、それはそれでゆるされるのではないか?

 佑平は、はやる気持ちとは裏腹に、慎重に一歩を踏み出す。ゆっくりと近付く。少女は佑平の存在に気付かない。激情ヒートアップしている中年小物も、無論気付いていない。歩を進めるに連れ、中年小物の台詞セリフが耳に入り、其の内容のいぶかしさに歩みが反射的に瞬停止するも、もう止められない。後には退けない。精一杯の仏頂面を作り、大きめに声を出す。言って遣る。

「オッサン、あんた誰よ?」

 中年小物に取っては、まさしく冷や水をぶっ掛けられた様な感覚だったのだろう。瞬間的に全身をビクつかせ、金魚よろしく口をパクパクさせ乍ら此方こちらを見る。佑平は硬直フリーズした中年小物の横をり抜け、少女の直近に歩み寄り、

「お待たせ。悪いね、待った?」

 と渾身の爽やかさで言い放った。当然、少女はポカンとしている。

「……あの、だ「何も言わなくて良いから」

 此処で少女と面識の無い事がていしたらややこしい事に為る。なかば「良いから黙っとけよ」と云う念を込めて、佑平は少女の言葉を遮断インターセプトした。

「……なぁんだぁ、先約が居たんだねぇえ……」

 中年小物が数歩後退あとずさった所から声を発した。佑平は振り向く。店舗の出入り口に通じているのは、中年小物の後ろ側だ。

「でも残念ざぁんねぇん。今日はぁ、今からはぁ、僕が優ちゃんのぉ、だからぁあ……」

 今一つ、此のオッサンの発言の意味が掴めない。だが、一つだけわかっている事は、居直りの境地なのだろうか、此のオッサンの眼がわっている事だ。てっきり、此方が強圧的に出ればすごすご退散して呉れるのではないか、と考えていたのだが。

 ……此処迄マンガみたいにならなくても良いのに、と口の中でえんしつつ、そっと少女の腕を取る。

「――えっ?!」

「荷物、無いよね?」

 驚く少女に、佑平は小声でく。少女が辛うじてうなずくのを視界の隅で確認して、佑平はけんしわを寄せ、右の口角を上げた。

「良く分かんないけど、わりぃね。ユウちゃん、もらってくから」

 出来る限り挑発的に言う。オッサンの神経を効果的クリティカルさかでする様に。

「んなんだとこらぁああ!!!」

 案の定、オッサンは感情を突沸とっぷつさせて、此方に走って来た。数歩分なので、大した距離は無い。佑平はオッサンをにらみ付けた儘、叫ぶ。

「走って!!」

 言ったそばから、少女の腕を引っ張り、駆け出す。少女は「ぅわちょ……っ……!」と言語化の難しい声を上げ、足をもつれさせる。オッサンの腕が、佑平の身体をかすめていく。オッサンの右手が、少女を捕らえそうになる。

 間一髪、其の手は少女の横を擦り抜けて、オッサンは勢い余って転倒し、顔面を丸椅子の支柱に激突させた。カップ麺や缶ビールと云った買い物袋の中身も散乱している。佑平は其れを横目で見つつ、一気に2つ在る自動ドアを駆け抜けた。少女の腕を掴んだ儘、建物に隣接した平面駐車場へと向かう。

「乗って!!」

 佑平は言うと、鍵穴キーシリンダーに鍵を差し込み、白いA32型日産セフィーロを解錠した。そして運転席のドアを開け放った所で、と正気に戻る。

 佑平は、別に少女に助けをわれた訳じゃない。おのが思想は正しいと信じ込み、強引に少女を連れ出しただけだ。其の上、「乗って!!」などと強制したら、其れこそ今度は自分が少女を困らせてしまう要因に為りはしないだろうか? と云うか下手すれば、此れはかえって誘拐的なに為り得るのではないだろうか? 瞬間的に思考を巡らせ、取り敢えず張本人である少女の反応を見よう、とセフィーロの周囲を見渡す。が、辺りに人影は無く、車内から、

「お兄さん! 何してんの?! アイツ来ちゃうじゃん!!」

 と声を掛けられた。慌てて車内を覗き込むと、少女は既に助手席に収まり、シートベルトを着けようとしている所だった。少女は佑平の顔を見詰め、

「あたしを貰ってくんじゃなかったの?」

 わく的な顔付きで言った。其の表情は、小学生が友人に悪戯いたずらを仕掛ける時の様でもある。いずれにせよ、世辞にも絶世の美女とは言えないが、それなりに整った可愛らしい顔立ちの少女に、佑平が瞬間見惚みとれてしまった事は、確たる事実である。

 其の内、店内からうのていで中年小物のオッサンが現れた。左手にぶら提げたポリ袋が空っぽではない所を見ると、派手に転倒した際に散乱した購入品は回収した上で出て来たらしい。即座に追っては来ず、缶ビールやインスタント食品をきちんと拾って来た所が、また如何いかにも小物らしかった。

「ほらお兄さん!! アイツ出て来ちゃったじゃん!! 早く車出してって!!」

 少女は右手を運転席との間に在る収納付き肘掛けアームレストに、左手は其の前方に位置するサイドブレーキレバーを掴み、駄々っ子の様にセフィーロを揺さぶっている。佑平は言われるが儘、鍵をし込み、段階を追ってひねる。此のセフィーロはMTマニュアル車だが、年式が古い為、クラッチペダルを目一杯踏み込まないとエンジンが始動しない事故防止装置クラッチスタートシステムは装備されていない。鍵を捻り続けるだけでセルモーターは回り、エンジンが掛かった。キョロキョロと全身で辺りを見回したオッサンが、駐車場の入り口付近に停めてある此の車を、より正確に云えば助手席に座った少女の姿を発見し、ポリ袋を振り回して駆けて来るのを眼に入れた瞬間、佑平はセフィーロの運転席に滑り込み、クラッチを踏み込んでサイドブレーキを解除し、黒いシフトノブを1速に入れ、アクセルを一定開けつつ少々荒めにクラッチを繋ぐ。セフィーロは軽く前輪を空転ホイールスピンさせつつ発進した。罪悪感が胸をぎる様な運転にセフィーロが難無く応えて呉れたのは、日頃丁寧な操作を心掛けている賜物たまものだ、と思う事にした。車に向かって来るオッサンに対しかくする目的で、ハンドルを切り乍らハイビームを点灯して遣る。くらましを浴び、到底追い着けない速度で走り去ってゆく白い車に、ポリ袋を地面アスファルトに叩き付けて悔しがる中年小物を、ドアミラーとルームミラーで目視して、市道に出た佑平は行き先を思案した。


「で、その……」

「あぁ……あざっした。助け来ないと思ってたんで、どう遣って切り抜けようかなぁ、って考えてたんで。色々面倒なんすよねー」

 佑平が横目で見た少女は、だるそうに身体を座席に沈めて口を利く其の姿は、投げ遣りそのものだ。まるで、彼女の生き方を其の儘表出している様だった。

 佑平はハンドルを握り直し、3速固定ホールドで片側一車線の直線道路を走らせる。とは云え、見知らぬ少女を同乗させて何時までも走り回る訳にはいかないので、話を切り出す事にした。

「あの……何処迄乗せてけば良いかな?」

「あぁ……良いっすよ別に、どっか其処等辺でてて呉れれば。取り敢えずあのパ……オッサンから逃げれただけで」

 佑平はセフィーロをゆっくり停車させた。なら此処で降りろ、と言いたい訳では無く赤信号につかまっただけだ。佑平は顔を助手席の方に向け、極力怪しくならない様に気を張りつつ言った。

「もし良ければ……家の近所まで送ってくよ。さっきのオッサンに鉢合わせるかも知れないし、深夜3時半こんなじかんだし……」

 少女は何も言わず、唯じっと佑平を見返してきた。

「あ……その、別に君の住所いえを覚えて、とかそう云うのも無いし……」

 不審にならない様に、と意識すればする程、発言内容がいかがわしく為っていく様な気がする。と云うか、此の状況下でそんな発想をしている事自体が最早気持ち悪いんじゃないか、とも思えてくる。

 少女は相変わらず無表情の儘、佑平の顔を見詰めている。其の深い色をしたまるい瞳には、佑平の顔が鏡の様に映り込みそうだった。

「あ、お……俺は別に怪しい者じゃない、と云うか……やましい事は考えてない、と云うか……」

 あぁ、もう駄目だ。言葉を重ねれば重ねる程、気色悪さが増していく。悪循環だ。少女はなお、佑平を見詰めている。査定ねぶみされているみたいで落ち着かない。

「……兎に角! こんな真夜中ドしんやに君みたいな女の子を独りで歩かせたくないんだよ! 俺の勝手なまま自己満足ジコマンだから!!」

「青だよ」

 此方を見詰めた儘、久々に口を開いた彼女の台詞に佑平はハッとして、視線を前方に戻す。信号はうに赤から変わっている様だった。

「あ、あぁ……」

 幸い、後続車は居ない。抑も、夜更けの裏通りは、滅多に車通りが無い。佑平は動揺をひた隠し、セフィーロを発進させる。クラッチミートが巧くなく、ガクガクと嫌な振動が車内を揺らした。

 エンストはしなかったものの、発進をしくじミスった事も有り、佑平は気不味さを感じて押し黙った。丁度カーステレオの電源を切っていて、車内は転がるタイヤが発するロードノイズと、エンジンや変速機トランスミッションの発する駆動音に支配された。

「……じゃあ、お言葉に甘えて、ウチの近く迄お願いします」

 流石に気不味さに耐えかねたのか、将又はたまた実は佑平が行き先に困りつつ運転しているのを察したのか、少女は自ら沈黙を破り、大まかな住所を知らせた。幸い、今走っている場所から近からずとも遠からずと云った距離だったので、佑平は其方の方角へ方向指示器ウィンカーを出した。

「えと……『ユウ』ちゃん、だっけ……?」

 今度は佑平が沈黙に耐えかね、話し掛けた。最悪、無視されたなら、それはそれでも良かった。白いセフィーロは、暗闇に沈む住宅地をヘッドライトの光で切り拓き、1.5車線分しか無い路地に分け入っていく。

「…………あー、いや」

 少女は数秒間を置いて口を開き、車窓に視線を逸らして答えた。

「……あたし、六丸悠蕗って名前で……『優』ってのは偽名、って云うか仮名って云うか……」

「…………『パパ』に対する?」

 佑平は口に出すのを躊躇ためらったが、折角せっかく返事をして呉れたので、会話を続ける事にした。 

 悠蕗はパッと佑平の方に顔を向け、やや有って視線を伏せた。

「……うん、まぁ…………」

 佑平は悠蕗から、ただならぬ様子を感じ取った。実を云うと、悠蕗を眼に入れた瞬間から、彼女には啻ならぬ雰囲気が有る、と察していた。放ってはおけない様な雰囲気が。

 だからなのかも知れない。あんな、ガラにも無い事をしたのは。

 そして、のは。

 佑平はさり気無く進路を変更した。大幅に行く先を変える訳では無い。僅かばかりの寄り道だ――そう自分に弁解し乍ら。

 セフィーロは道路脇の煙草タバコ屋の敷地に片輪を乗り入れる様に停車した。煙草屋の手前の空間スペースは乗用車一台が縦列駐車出来る程度の空き地と為っていて、運転席側の二輪を市道の路肩に残して停まった形だ。

「……え?」

「何かオゴるからさ、一寸ちょっと話でもしない? 勿論もちろん、ユウ……ロちゃんが良ければ、だけど……」

 悠蕗は窓外を見遣った。計十台近く居並んだ自販機の蛍光灯あかりが、夜目には目映まばゆい程に辺りを照らしている。

「此処、ほとんどの自販機が100円なんだ、今のご時世にさ」

 悠蕗は振り返り、佑平を見た。気を遣っているのがあからさまにわかる、頼り無げな笑みを浮かべている。悠蕗は正面を向き、「貧乏ケチクサいなぁ」と悪態を吐いた。続けて、

「そんなに言うんなら、奢らせてあげるよ」

 とえてわざとらしく言った。自然と、口許が緩んだ。


 向かって左側から、サントリー、コカ・コーラ、ダイドーの自販機が続き、其の横に煙草の自販機が三台立ち並び、煙草屋の入り口を挟んで更にもう一台、外国製煙草の自販機が在り、珍しいコカ・コーラの回収再利用リターナブルビンの自販機が鎮座し、更に敷地の隅には各メーカーの製品が入り乱れた供給業者ベンダー独自の白い自販機が在り、其の横にアサヒ飲料とポッカサッポロの自販機も居る。煙草屋の正面側だけでも此れだけの陣容を誇り、更に敷地の右側には、隣接する道路に向けて煙草の自販機が数台と、ダイドー、サントリーの自販機が控えている。因みに、横の道に向かっている自販機と、正面側に並ぶ自販機に、品揃えラインナップの差異は無い。

「へぇ、こんなに沢山在ったんだ……」

 悠蕗は肩を並べる充実した陣容に、軽く圧倒され乍ら呟いた。

「あぁ、此の辺りだと一箇所に此れだけ集まってる所は他には無いかな」

 何故か僅かばかり誇らしげに佑平が答える。

「ふぅん……」

 悠蕗はしばし林立する自販機の前をうろつき、観察した。佑平は「決まったら言って」と言い渡し、中央付近に集中した煙草の自販機を眺める。

 佑平自身は喫煙者ではないし、煙草をった経験も人生において数本でしかない。然し、立ち並ぶ自販機に整然と展示ディスプレイされた無数の銘柄を見ていると、実に興味深く、知的好奇心をそそられる。良く此れだけの銘柄が此の世に存在するな、とか、此の外国煙草はこんなに安いんだ、とか、JTの煙草が配置される自販機には、他では滅多にお目に掛からない「ゴールデンバット」迄販売されており、実在するんだなぁ、と思ったり、観ているだけで飽きない。無論、此処に此の世に在る煙草全てが集結している訳が無いのも解っているし、重度のヘビー喫煙者スモーカーである父親が煙草を喫う度に咳き込んでいるのを見ると、喫煙者あのヒト達は咳をする為に煙草に火をともしているんじゃないか、と薄く軽蔑する程度には嫌煙家でもある。然し一方で、自分には分からない愉悦を知っている人生に、たまに憧れたりもする。とは云え、いざ喫ってみると、主流煙を肺に入れる前にせてしまい、また舌の上に何時いつ迄も残るいぶされた苦い感覚に、やっぱり俺は好きになれない、容れ物の箱パッケージの意匠デザインを観て愉しんでるのが性に合うなぁ、と思い直す――。

「ねぇ!!」

「ぅおっ?!」

 セフィーロの助手席ドアにもたれ、JTの自販機を前に煙草に就いて思索を巡らせていた佑平は、悠蕗の声にって思考の海から救い出サルベージされた。

「……瓶のヤツ! 折角だから珍しいのの方が良いかな、って!」

「あ、あぁ……分かった」

 佑平は右の尻ポケットから長財布を取り出し、小銭入れ部分のファスナーを開け、100円硬貨を取り出す。此処に在るコカ・コーラの瓶の自販機は、近年設置された物で塗装も新しく、全体に近代的な構造だ。初めて設置されたのを発見した際、瓶製品用の自販機が未だ新造されている事に驚いた記憶が有る。例に漏れず、此の自販機も一本100円だ。硬貨を投入する。

「どれにする?」

 自販機には上から、オレンジジュースのHI-Cハイシーが一枠、カナダドライ・ジンジャーエールが二枠、ファンタグレープが一枠、通常のコカ・コーラが二枠、コカ・コーラゼロが二枠と云う体裁で、各飲料が並んでいる。

「あたしが押すー」

 悠蕗は敢えて幼稚な声を出して自販機に駆け寄り、商品ロゴと金額が表記されている小窓の右側の、円いボタンを押下する。一瞬置いて、自販機がガッコンと音を立てたが、此処で悠蕗は戸惑った。一般的な缶の自販機の様に、きょうたいの下部に取り出し口が無い。

「其の扉、開けてご覧。瓶、出てきてるから」

 悠蕗の惑いを察して、佑平は後ろから声を掛ける。自販機を改めて見ると、縦に八つ並んだ小窓の横に一つ、縦長の細い窓が付いた扉が在る。小窓側に設置されたっ手に指を掛け、手前に引っ張ると、長細い扉が開いた。中を覗くと、小窓と揃える形で八つ、ラック状に段が在る。悠蕗の選んだファンタグレープの瓶は、王冠を此方にしてファンタの小窓と同じ高さの棚に横たわっていた。

「へぇー、横から転がって出て来るんだ」

 悠蕗は想像以上に冷えている瓶を取り出し、扉を閉めた。

「あんま見た事無いでしょ? 斯う云うの」

「うん、初めて。あ、でも此れ……」

 悠蕗は瓶に口を付けようとして気付いた。瓶にはぴっちりと王冠が取り付いており、素手では外せそうにない。

「あぁ、一寸待って」

 佑平はまたも悠蕗の戸惑いを読んだかの様に笑い乍ら言うと、硬貨を投入し、自分もファンタグレープの釦を押した。瓶を取り出して、悠蕗の視線を誘う。

「此処に栓抜きが内蔵されてるんだよ。見てて……」

 佑平は縦一列に並ぶ釦と、紙幣投入口の間に在る、黒いゴムの様な樹脂に囲まれた窪みに瓶の口をもぐらせると、手首のスナップを利かせた。

「おぉ~」

 鈍い音と共に、王冠が外れた瓶が佑平の手に握られている。

「あたしも遣る!」

 悠蕗は勇んで瓶の上部を窪みに差し入れた。

王冠キャップを引っ掛ける様な感じで……割と感覚で、って云うか手探りな感じだけど。引っ掛かった?」

「あ……うん!」

「じゃあ、瓶を奥に押す感じで手首を動かしてみて?」

 王冠が外れまいと抵抗している感じが伝わってくる。此の儘、力を与え続けて良いものか心配しだした頃、ガコンと音を立てて王冠が外れた。取り去られた王冠は、窪みの下部の穴に落ちて自販機内部に回収される様だ。

「へぇ~、良く出来てるね!」

「あぁ、俺も初めて遣った時、結構戸惑ったよ。何か栓抜き壊れそうな気がして」

「そうそう! 何か不安になるよね!」

 内蔵されている栓抜きは、少々剛性感に欠けている様に思える。たかが一般人の平均的な力で機械が損壊する事など無いのは分かっているが、それでも使う度、佑平の心には一抹いちまつの不安がぎる。

「キャップも勝手に落ちてくし!」

「ね。良く出来てるよな」

「何でお兄さんが誇らしげなの?」

 笑いつつ悠蕗は言った。と同時に、一つの可能性がのうに浮かんだ。

「あ、ひょっとして此の機械つくってるとか?」

いや、全っ然関係無い」

「じゃあ何だったんだよ」

 悠蕗は笑って突っ込んだ。笑い終わる前にく。

「お兄さん、名前は?」

「あぁ、名告なのってなかったか」

 佑平はセフィーロの助手席側ドアの外板ボディパネルに腰を預け、答えた。

「俺は田斧佑平。27のしがない工員だよ」

「へぇー、じゃあ……タオちゃんだね!」

「何だ其れ? そんなあだ付けられたの初めてだよ」

 佑平は苦笑した。名付け親の悠蕗も笑う。

「まぁまぁ、渾名なんて大概適当テキトーなもんでしょ?」

「あぁ、違いねぇ」

 佑平はふっとわらった。

「じゃあ、タオちゃん」

 悠蕗は佑平に近寄り、ファンタグレープを差し出した。佑平は其の意図に気付き、右手で把持はじする瓶を近付ける。

「奢って呉れてありがとね」

「どう致しまして」

 ささやかに乾杯を交わす。

 悠蕗は一口、口に含むと後退りしてボンネットの左側隅に吸い寄せられる様に近付いた。

「此処、座っちゃっても平気?」

「あぁ、大丈夫だよ。ユウロちゃんが曙太郎アケボノ並みの体量ウェイトじゃない限り」

「……タオちゃん、モテないでしょ? 女子に安易に体重のネタ振るとか……女っ気無い人生だったんじゃない?」

 悠蕗は強く非難しつつ、ボンネットの角に腰掛ける。サスペンションは沈み込んだものの、特に異状は無かった。

「余計なお世話だよ」

「否定はしないんだ」

「…………俺の事はどうだって良いんだよ! 辛辣しんらつだな……」

 佑平はファンタグレープを口に含み、仕切り直した。

「……俺の持論なんだけど、人間って何か辛い思いしてる時、悩んでる時とかしんどい時って、他人に話す事で其のしんどさが緩和する事って有ると思うんだよね。ぶっちゃけると気持ちが楽になる、って云うかさ。溜め込んでると気が滅入ってくる、って云う感じ。そんな時はさ、誰か話せる人に言っちゃえば肩の荷が下りるからさ」

 悠蕗は黙り込んだ。佑平の言っている事は百も承知だ。思い悩みは複数人で共有した方が、一人頭の背負う負荷は減少する。

 だが、人には誰にも話せない事情も有るし、環境が其れを許さない事だって有るのだ。悠蕗は唇をキュッと結んだ。

「……でも、中々そうは出来ない事って、有るでしょ? 人って他人に弱みを握られたくない生き物だし、親しい人に程、逆に話し辛かったりするモンだしね」

 俯いていた悠蕗は、ゆっくり佑平の横顔に視線を移す。

「例えばさ、何の事情も知らない赤の他人相手の方が、しがらみが無い分、却って話し易かったりするんじゃないかな……って、思うんだよね」

「タオちゃん……」

「まぁ、余計なお世話、って言われたら其れ迄だけど……」

 佑平は苦笑いを浮かべた。そして、意を決して、悠蕗に眼を向ける。

「もし俺で良かったら、何でも話、聞くからさ」

「…………何で?」

 悠蕗はか細い声で問うた。

「うーん……『何で』って言われると……自分でも分かんないんだけどさ……。何か、察したんだよね。ユウロちゃんって、人に打ち明けられない様な悩みを独りで抱えてるんじゃないのかな……って」

 視界が潤んだ様な気がして、悠蕗は外方そっぽを向いた。瓶を左手に持ち替えて、そっと右の人差し指で目尻を拭う。

「あ、別に強要してるんじゃなくてね? ユウロちゃんが言いたくなければ其れで良いし……」

 佑平が思い出した様に付け加える。悠蕗は一度そっと、深呼吸した。おもむろに口を開く。

「タオちゃん、ヒかないでね」


「最初はさ、何て云うか……バイト感覚? 割の良いバイトみたいな考え方で。級友クラスメイトの誘いに乗って、ま、稼げるんならいっか……みたいな。別に『パパ活』って、そんな言われてる程如何いかがわしい事する訳じゃ無いし。で、まぁそんなノリでパパ活遣ってたんだけど、或るお客さんから迫られて……。其処であたしは考えました。パパ活と援助交際エンコーの違いって何だろう? と。あたしは思ったの。どっちも心は売ってるな、って。肉体的リアル接触ふれあいの程度問題で、一番大事な心は、もう既に売っちゃってるんだ、って。違う?」

「……いやぁ……何とも…………」

「……まぁあたしはそう考えたの。で、イヤらしい話、の方が儲かるし。其れ以来、勿論もちろん相手は選んでるけどね? 偶に援交する様になって。当然避妊ゴムはしてるよ、其れは最低限。でまぁ、パパ活仲間って云うか、其の連中は基本、其処迄はしないのが主流なのね。学級内クラスに何人か居たんだけど、あたしと同じ考えの奴がもう一人だけ居て、そいつとは意気投合したのよ。思想が合った、って云うか……。其の内、あたし達が援交遣ってるって云うのが他のパパ活連中にも伝わって、一寸言い合いになって……。あたしの考え……『あんた等だって、一番大切な心は売り払ってるでしょ?』って云うのを言ったんだけど、あいつ等は綺麗事振りかざしてあたし等を八分ハブにして。まぁ、あからさまにイジメられたりは無かったけど、あたし達二人は孤立して……。で、そんな中で、あたしの妊娠が発覚するのね」

 驚きを隠し、黙して独白を聞いていた佑平は耳を疑った。声が出ないし、掛ける言葉も見付からない。

「毎回ちゃんと避妊してたんだけどね? まぁ、交合セックスする以上、其の危険性リスクからは逃れられない訳で。其れは重々承知だったんだけど。まぁなんかの手違いイレギュラーで……」

 悠蕗は宙に浮いた脚をぶらぶらさせ乍ら話した。点けっ放しのヘッドライトの照射範囲に、悠蕗の脚の影がチラついている。

「で、其れをもう一人の奴に言ったら、また言い合いになって。援交し始めて、あたしはまた考えてた。生物いきものオスメスって云う……雄が産ませる方、雌が産む方って云う構造上、雌には常に妊娠の可能性が付き纏う訳で。結局は、女は男の身の振り方一つで自分の身の安危が決まる、って云う……物凄く受動的な性別な訳で。そんな感じで言ったら、ピル飲むとか自衛策は幾らでも有るし、抑も其れと此れとは別問題でしょ、って其のに言われて……。まぁそりゃごもっともだけどさ……」

 悠蕗は瓶に口を付け、咽喉のどを潤した。

「まぁ、其れだけ危険リスキーな事をしてて、対価を得てた。其れは分かってた心算つもりだったんだけどね……。いざそうなってみると、やっぱりね……。めっちゃ怖いし、めっちゃ色々考えたし、結構追い詰められて。まぁ結局、手術したんだけど」

 佑平は、咽喉が乾いて貼り付くような感触を覚えた。ファンタグレープの存在を思い出し、口にするが、それでも喉奥のヒリついた感覚は消えない。

「それで一段落して、一瞬また学校行ったりもしたけど……今は不登校してて、真夜中のスーパーに入り浸る日々を送ってる、って訳」

 失声症を発症した様に、佑平は黙り込んだ。言いたい事、言うべき事は山程浮かんでくるが、口にしようとすると、其れは途端に霧散し、見当たらなくなる。

 佑平は悠蕗を盗み見た。相変わらず、両脚をぷらつかせている。こんな幼げな少女が、其の背丈には見合わない凄絶な経験をしてきたとは、些か信じられなかった。

 だが、彼女の纏う雰囲気に含有される、何処か退廃的デカダント気配エッセンスが、得も言われぬ説得力を伴っている。

 悠蕗が俯かせていた顔を左方に振った。必然、佑平と眼が合う格好になる。何か言った方が良いかな……否、何かしら言わねば、と変容していった義務感に駆り立てられ、佑平は口を開いた。

「た……大変な、思いをしたね……」

 咄嗟とっさの時の、己の語彙ごい力の無さを佑平は心底恥じた。

「まぁ……自分てめぇが招いた事態コトなんだけどね……。自己責任、って云う奴?」

 悠蕗はあっけらかんと言った。唯、言葉の歯切れの悪さからは、未だ清算しきれていない心情が滲出リークしている。浮かべている笑みさえも、心做しか痛々しい。

「その……俺は、ユウロちゃんの事全然知らないし、まぁだからこそユウロちゃんも話して呉れたんだろうけど……。俺は……ユウロちゃんを叱ろうとは思わないし、俺自身ユウロちゃんを説教出来る様な偉い人間でもない。だから俺が言えるのは……うーん…………学校に行ってない、って云うのが、一寸残念かなぁ、って」

 佑平は、逃げに走った。遁走とんそうする自分を情けなく思った。

 だが、単に話を逸らした訳ではない。安易に真正面から向き合うべき問題ではない、と判断したからだ。当座しのぎで熟考の無い物言いをすると、悠蕗を傷付け、極論其の人生を左右してしまうおそれがある。

「……其処?」

 悠蕗も予期せぬ方角からの意見に、若干肩透かしを喰った様子だ。

「いや……今に為ってやっぱり、学校って良いモンだったなぁ、って思うんだよね」

「……そう?」

「まぁ……俺だって現役リアルタイムの頃はクソつまんねぇ、って思ってたし。でも、近頃本当に思うんだよ。あの頃をもっと大事にしてたらな……って、しみじみさ」

「そんなモンかなぁ……」

 悠蕗も、佑平の敢えて正鵠せいこくを外した遣り取りに乗った。

「ああ云うさ、生き方も生い立ちも目標も夢も、性格も思考回路も過去から未来迄、何もかもが異なる同年代おないどしの集団と一緒の空間を過ごす事って、社会に出ると皆無に等しいからさ。皆バラバラ、全員違う方を見据えてるのに、同じ場所に居て同じ空気を吸って、偶に行事なんかで結束して、団結して、一体感とか連帯感とか味わったりして……。まぁ、俺が経験してきた環境が恵まれてた、ってのも有るかも知れないけどさ。……今に為って思うんだよね。学校教育……学校と云う制度が何故在るのか、何故要るのかって、当然勉強も大事だけど、そう云う経験を積んでいく事に本質が有ったのかな……とかね。社会的な協調性とか、規律規範をじゅんしゅするとか、そんな堅苦しい事じゃなく、もっと単純シンプル……と云うか体感的プリミティブに、そう云うのって良い事なんだよ、って事を学ばせて呉れてたのかな、とかね。巧く言えないけどさ……」

「そう……」

「あ……まぁ、今のは俺の美化されたカビ臭い郷愁なんだけどさ。学校行くか行かないかなんて人それぞれだから。ユウロちゃん固有の事情も有るだろうし……現に今、通ってないって事はさ……。だから、此れは断じて『学校行け』って説教じゃないからね? 無理して学校行って、病む程辛い日々を送って嫌な思い出しか無い、みたいになっても、其れは却ってユウロちゃんに取って悪影響マイナスだから」

 言い終えて、些か喋り過ぎたか、と佑平は反省し、ファンタグレープを口にした。

「御免ね、何かユウロちゃんの辛さとあんまり関係無い事をつらつらと……」

「あのさぁ……」

 悠蕗の声に、佑平の身体が強張る。興味無いんだよ、等と鮸膠にべも無く斬り捨てられたら、其の儘ち死ぬしかない。

「どうしてタオちゃんは、こんな初対面のちゃらんぽらんなJKガキに対して、そんなに親身になれるの?」

「言う程親身かなぁ……。まぁ、でも」

 佑平は懸念がゆうに終わり、内心胸を撫で下ろしつつ、意図的に表情を作って言う。

「斯うして出会った以上、偶然でも必然でも、俺達はもう他人じゃないでしょ?」

「…………さん臭い」

「あ、バレた?」

 あっさり看破され、佑平は苦笑した。

「多少……じゃないな、可成り格好カッコ付けた」

「タオちゃん、そう云うトコ有るよね」

「……でもリアルにさ、あんな感じで出会ってこんだけ話したら、少なくとも赤の他人ではないでしょ? それに……、まぁ、お節介なのかも知れないけど、人の悩みって云うか、そう云うものには、ちゃんと真面目に考えたいし、人が話してる事はちゃんと聞きたいんだよね」

「……てかお人好しだよね。疲れない?」

 佑平は自己の特性パーソナリティを見透かされている様に感じた。

「否、まぁそりゃ……偶には、ね。……あ、でも今ユウロちゃんの話を聞いてるのは凄い楽しかったよ! や、楽しかった、って云うか、興味深かったと云うか……」

「やっぱタオちゃん、気ぃ遣いだよね。…………でも、確かにタオちゃんに話して、ちょっぴり気が楽になったかも」

「……なら、良かったよ」

 佑平は瓶の底に残っていたファンタを飲み干し、自販機の横に置かれた回収用のプラスティックコンテナの中の、さいの目状に区切られた枠の中に瓶を置いた。其の際に左の手首にけた腕時計を見て、悠蕗を帰さないと、と思った。僅かばかりの寄り道も、もう潮時だろう。

 悠蕗の持つ瓶も殆ど透明になっているのを視認し、佑平はそれとなく声を掛ける。

「そろそろ、帰ろうか?」


 自宅前に着けるのははばかられたので、其の付近迄悠蕗を送り届け、佑平はセフィーロを発進させた。別れ際、悠蕗の「一応」と前置いての呼び掛けに応じ、連絡先を交換した。珍しい漢字を使う名前だな、と佑平は感じた。

 悠蕗の精神ココロの負担が、空世辞リップサービスでなく本当に、少しでも軽くなっていれば、と思う。偶々たまたま出会った赤の他人が其処迄遣れたとすれば、上出来ではないだろうか。

 佑平は自宅への道すがら、悠蕗が何時か彼女自身に幸福をもたらして呉れる相手に出逢であう事を庶幾こいねがいつつ、ステアリングホイールを握った。

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